比屋根照夫琉球大名誉教授批判







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


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 オスプレイの沖縄配備一年を記念して、沖縄タイムスは「識者談話」というコラムでは比屋根照夫琉球大学名誉教授(七十四)の談話を掲載している。比屋根琉大名誉教授の専門は沖縄近代思想史である。

「オスプレイ配備に反対して、昨年の県民大会から普天間飛行場のゲート封鎖、今年の全市町村による東京行動へと続いた一連の運動は、一九五〇年代の土地接収に対する島ぐるみ闘争を想起させた。戦後六十八年間続く占領状態の不条理に対し、沖縄は非暴力で抵抗してきた」
           比屋根照夫・琉球大名誉教授談
 比屋根氏は琉大の名誉教授ある。彼は学者である。政治家でもなければ大衆運動家でもない。学者であるなら事実を客観的に把握することがなによりも大切である。主観で判断するのは学者として失格である。ところが比屋根名誉教授の談話は主観だらけであり、学者というより革新政治家である。いや、政治家ではなく政治屋のほうがふさわしい。

「オスプレイ配備に反対して、昨年の県民大会から普天間飛行場のゲート封鎖、今年の全市町村による東京行動へと続いた」の批判は後にするとして、
 比屋根氏は一九五〇年代の土地接収に反対する運動を「島ぐるみ闘争」と呼んでいるが、土地接収反対運動は宜野湾の伊佐浜と伊江島の二か所だけで起こったのであり、ほとんどの土地接収はスムーズに行われている。政治活動家は元々主観的だから「島ぐるみ」と言ってもいいが、学者である比屋根氏が「島ぐるみ」となんの疑問もなく言い放つのはどうだろうか。「島ぐるみ」は学者としての比屋根氏の発言としては適切な発言とはいえない。

 読谷村ではトリイ通信基地建設予定地内にあった楚辺と渡久地が強制移転させられた。強制移転といっても移転場所は米軍が原野を切り開き、区画整理した住宅地に移転した。この事実を隠したまま、米軍の無慈悲な強制移転を演出しているのが「島ぐるみ闘争」を伝える時の沖縄の新聞、革新系政治家、識者である。比屋根照夫琉球大名誉教授もその一人である。
 私は読谷村の比謝区に住んでいたが、トリイ通信基地建設予定地にあった渡久知は海の近くから遠く離れた一号線(国道五十八号線)に隣接する比謝区の側に全住民が引っ越してきた。でこぼこだらけの原野にブルドーザーが入り、木やすすきをなぎ倒し、平らにして大きな平地をつくった。原野から平地へと変わっていく様子を比謝公民館の広場から見ていた私は初めて見るブルドーザーのものすごい力に驚いた。鍬と比べることができないものすごいブルドーザーの力であった。
 ブルドーザーのガードマンが友達の父親だったので、夕方に私たちはブルドーザーのほうに行き、父親に頼んでブルドーザーに乗った。ハンドルを握って「ブーブー」と言いながら運転のマネをして遊んだ。キャタピラを触ったり、後ろのエンジンの屋根に上ったりして遊んだ。ごついブルドーザーに感激したのを覚えている。

 楚辺の人口は読谷村の中で一番多く、三つくらいのが集まったくらいに大きい。楚辺もトリイ通信基地の建設予定地にあったので米軍が原野を整地して、現在の場所に全住民が引っ越した。このように米軍は強制撤去をするかわりに代替地を設けた。決して民を路頭に迷わすような強制撤去はなしなかった。このことを新聞や識者は隠したままだ。
幼稚園の時に仲良しになった子の家は軍用地になっていて米軍から立ち退きを言い渡された一号線(国道五十八号線)の東側にあった。他の家は移転していて、家は友達の一軒だけで周囲は畑と原野だった。屋敷の周囲に大きなゆうなの木があり、ゆうなの木の枝に乗って大きく揺らして隣の畑に飛んだり、すすきが茂っている広場では忍者ごっこをして遊んだ。遊ぶ場所が多かったので私は友達の家によく遊びに行った。
 軍から家の撤去は要請されていたと思う。しかし、ブルドーザーなどによる強制撤去はなかった。友達の父親は人民党員だったので立ち退きに抵抗したと思うが、米軍は強制撤去をしなかった。多分区長などの説得で平和的に移転したと思う。

 同年七月十一日、米軍はさらに伊佐浜の土地を十万坪(立ち退き家屋三十二戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、七月十九日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、三十二戸一三六名の住民が住む家を失いました。
この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
                 伊佐浜土地闘争
 米軍の強制撤去に沖縄の多くの人々は従った。伊佐浜と伊江島だけが移転を拒否し土地闘争を展開したが、果たして伊佐浜の全住民が反対したのか、それとも一部なのか。米軍は住居の代替地を準備しないで一方的に明け渡しを強制したのか、その点についてはなぜか公表しない。米軍は接収すると通告している。米軍の要求を一切無視して土地接収に反対したのが三十二戸の住民だったのではないか。朝鮮戦争がありり休息に社会主義化していく中国などがあって米軍にとっては戦略上どうしても軍用地として伊佐浜が必要だったから接収したのだ。そのことを理解しないで自分の利益だけを主張する利己主義の伊佐浜の住民にも問題がある。

 「三十二戸一三六名の住民が住む家を失いました」というのはおかしい。まるで米軍が代替地を準備しないで追い出したように見えるがそうではなく、住民は米軍が準備した代替地に移転することを拒否したのではないか。だから「住む家を失いました」である。渡具知や楚辺のことを考えると米軍が代替地を準備しないで一方的な撤去を強制したとは考えられない。
 渡久知は一〇〇戸以上が移転してきた。楚辺は三〇〇戸かそれ以上の戸数だったと思う。渡久知や楚辺に比べて伊佐浜の三十二戸一三六名は少ない。立ち退きを拒否したのは一部の住民ではなかったか。

 伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前からチャタンターブックヮ(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていて、土地を接収されたら生活ができないと信じていたからである。だから、「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対した。
                    伊佐浜土地闘争
 しかし、伊佐浜の住民たちの「土地取上げは 死刑の宣告」という主張は間違っていた。「土地を接収」されても飢え死にはしなかった。それどころか米軍相手の仕事が増え、伊佐浜のある宜野湾市は空前絶後の経済発展をした。現在の人口は九万人である。戦後沖縄で一番の人口増加率である。
 もし、伊佐浜の住民たちの主張が通り、伊佐浜は米軍基地にならないで農業を続けていたらどうなっていたか。
サトウキビ農家が普通の生活をするのに必要な畑はおよそ一〇ヘクタールである。一ヘクタールは約三〇〇〇坪である。伊佐浜が接収された土地は一〇万坪だったから、もし、伊佐浜がさとうきび農家になっていたら接収された当時と同じ、三十二戸一三六名の住民が住んでいたと想定できる。(さとうきび一トンの値段は二万二、三〇〇〇円であるが、その内の一万六〇〇〇円は政府援助である)

 農業をしていたら伊佐浜で生活できるのは三十二戸一三六人前後である。もし、子どもが三人居て、三人で平等に土地を相続すると三人とも農業で生活することはできない。長男のために次男、三男は土地を相続しないで伊佐浜を出ていくしかない。
もし宜野湾市全体が農業中心であったら現在九万人の人口が五、六〇〇〇人の貧しい宜野湾になっていただろう。

「この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました」と書いてある通り、島ぐるみ闘争は広がっていくが、しまいには空中分解して衰えていく。そのきっかけが辺野古であった。 
 辺野古は米軍の余った水や電気を提供するなどの条件をつけて米軍基地を受け入れた。米軍基地を受け入れた辺野古は空前の経済発展をした。辺野古の経済発展を見て金武村など他の市町村も米軍を積極的に受け入れた。そのために島ぐるみ土地闘争は受け入れ賛成派と反対派に分裂して衰退していった。

 伊佐浜を含む宜野湾市はめざましい経済発展をした。「土地取上げは 死刑の宣告」の考えはその後の歴史をみれば間違いであったことが分かる。それが「島ぐるみ闘争」の歴史的事実である。
 比屋根氏は学者である。学者であるなら島ぐるみ闘争の歴史を最後まで見届けて「島ぐるみ闘争」全体を把握するべきである。ところが比屋根氏は「島ぐるみ闘争」の最初の部分だけを取り上げ、「戦後六十八年間つづく占領状態」と土地接収は「死の宣告」であったと嘘をつくのである。「死の宣告」は土地を接収される農民の取り上げられる前の思い込みであって歴史的事実ではない。
 土地闘争の始まりから終わりまでを客観的に見ないで始まりだけを見てそれを土地闘争だという比屋根氏はまるで三流の政治屋と同じである。到底学者とは言えない。しかし比屋根氏は国立大学の名誉教授である。国立大の名誉教授としてのプライドが比屋根氏にはないのだろうか。

 五〇年代と決定的に違うのは、沖縄文化を見直す機運が高まり、自立・自決論が公然と語られることだ。日本国家に対し、これほどインパクトがある思想運動はない。しまくとぅばや沖縄文化の復権を通して、アイデンティティーを取り戻そうとしているのは画期的だ。
比屋根照夫琉球大名誉教授談

 マジでそんな風に考えているのか。信じられない比屋根氏の歴史観である。五〇年代と現在が決定的に違うのは、五〇年代はほとんどの人がウチナー口で話し、ウチナー芝居は盛んで、歌も踊りも盛んで沖縄文化は隆盛だったことだ。五〇年代は私の少年時代であるが、あの頃はテレビは無論だがラジオさえない時があった。私の家に二チャンネルの有線ラジオが入ったのは私が小学二、三年生の頃だった。それまではラジオさえかった。娯楽といえばウチー芝居であり沖縄民謡だった。大木には芝居小屋があった。広場に臨時の芝居小屋を造ったり、公民館を舞台にしたりして旅回りの劇団が沖縄芝居をよく上演したものである。劇団がやってくると宣伝カーが村中を走り回った。流れる音楽は民謡ではくなぜか春日八郎の「お富さん」だった。

お富さん
作詞:山崎正
作曲:渡久地政信

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん
生きていたとは お釈迦様でも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー げんやだな

 お富さんの作曲は沖縄出身の渡久地政信であるが、見ての通り歌詞の内容は難しい。ラジオからも宣伝カーからもよく流れるものだから内容は知らないで小学生ながら覚えて歌ったものである。お富さんは歌舞伎の物語の主人公を歌ったもので歌舞伎の物語を知らないと歌詞の意味を知らない。「粋な黒塀」「見越しの松に」「仇な姿の」「げんやだな」は今でも意味が分からない。それから「お富さん」は女ではない。男である。私はずっと女だと思っていた。リズムもよく歌いやすい歌であるが、内容は複雑で理解するのに難しい歌である。

 芝居が盛んだった五〇年代の頃に私たち子供に流行したのが「ヌギバイ」である。お金のない私たち貧乏な家の子供はテントカバーで作ってある囲いを潜り抜けるのである。見張りの男に見つかったら叱られ摘まみ出された。芝居見たさに私たち子供は芝居小屋の回りをうろうろし、中の華やかな歌や芝居にわくわくし、そして勇気ある者は「ヌギバイ」をした。芝居が最高の娯楽であった時代のことである。
 五〇年代は沖縄で映画製作もしていた。私は怪盗運玉ギルーの映画を見たのを記憶している。村の広場に米軍払い下げのカバーを張り巡らしてお粗末な囲いをつくり、自家発電機を使って白黒映画を上映した。フィルム逆戻し手法を使って運玉ギルーが高い木に飛び上がるシーンがあり、子どもでも分かるトリックだったが、そのシーンだけは記憶に鮮やかに残っている。
 比謝の公民館で逆立ちユーレー(幽霊)を見た。足を釘で打ち付けられたので逆立ちで歩く幽霊になったという内容だったが、逆立ちする珍しい幽霊は子供たちの話題になった。祖母と妹が芝居公演のくじでそうめんひと箱の商品を当たったこともあった。

 五〇年代はウチナー文化は盛んだった。沖縄文化を見直す機運うんぬんで現在と比較する比屋根氏は五〇年代沖縄文化の隆盛を知らないようだ。

 五〇年代の沖縄文化は隆盛であったが六〇年代になると、本土の映画上映が盛んになる。嵐寛壽郎、大友柳太郎、片岡千恵蔵、大川橋三、石原裕次郎、小林旭、勝新太郎、加山雄三、山本富士子、吉永小百合・・・多くの映画スターが登場し六〇年代は映画花盛りだった。嘉手納町にはなんと映画館が五軒もあった。映画が盛んになるにつれて沖縄芝居は廃れていった。
 ラジオからは新しい歌謡曲がどんどん流れ、漫才、落語、ドラマが流れた。私は「高丸菊丸」と少年用ドラマが好きだった。主題歌を今でも途中まで覚えている。「頑張れー、頑張れー 高丸菊丸 青空高く海越えて 山賊海賊うち破りー にっこり笑った高丸菊丸 えいえいおう・・」
 美空ひばり、フランク永井、島倉千代子、舟木一夫、三田明、橋幸夫・・・・数えたらきりがないほどの歌手が登場しヒット曲を連発した。民謡も新曲を出しヒット曲もあったが本土の歌謡曲と比べたら微々たるものであった。

 私の個人的な体験を話すと、私は小学六年生の時から赤木圭一郎の熱烈なファンになった。現在でもファンである。赤木圭一郎の歌は全部覚えているし、映画のDVDもほとんど持っている。
中学生の時映画館で圭一郎を隠し撮りした。その写真を今でも持っている。
もう、50年以上も前になるのか・・・。映画好きの私は、夜遅く映画を見て、刑事につまみ出されたこともあった。





赤木圭一郎は私が小学六年生の時に二十一歳の若さで死んだが、その後は勝新太郎や加山雄三、田宮次郎、高倉健などのファンになった。私は青春映画は好きでなかった。現在テレビで活躍している仲村玉緒さんが勝新太郎主演の「悪名」に出て、映画で夫婦なるシーンなども見た。



 五〇年代に盛んだった「沖縄文化」は六〇年代に入り本土の映画や歌謡曲に押されていき、次第に廃れていった。
私は仲田幸子は喜劇役者の天才だと思っている。本土の役者以上の役者だと思っている。渥美清や藤山寛美級だと思っている。高校時代からそう思っていたわたしは琉大生の時、首里の有楽座で仲田幸子の公演があったので見に行った。中に入って驚いた。みんな老人だけだった。四〇年以上も前のことである。六〇年代末の頃にはウチナー芝居を見る若者は皆無だったのだ。沖縄文化からほとんどの若者は離れていき日本文化に親しんでいった。
 それはなぜか、答えははっきりしている。沖縄文化より日本文化のほうが沖縄の若者の心を捉えたからである。

舟木一夫
高校三年生(一九六三・六)
作詞:丘灯至夫
作曲:遠藤実

赤い夕日が 校舎をそめて
ニレの木陰に 弾む声
ああ 高校三年生 ぼくら
離れ離れに なろうとも
クラス仲間は いつまでも

泣いた日もある 怨んだことも
思いだすだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら
フォークダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が

残り少ない 日数(ひかず)を胸に
夢がはばたく 遠い空
ああ 高校三年生 ぼくら
道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を

 舟木一夫 の「高校三年生」は全国の中・高校生の心を捉えた。沖縄の中・高校生も同じである。それまで歌謡曲は青年や大人の心をテーマにした歌だけだった。「高校三年生」が初めて高校生の心をテーマにした歌だったのだ。その時私は中学生だったが多くの中学生もこの歌に心を奪われていた。
(赤木圭一郎のファンだった私は「高校三年生」を好きではなかった。圭一郎の最初に歌った歌は「黒い霧の街」だが、一番の歌詞は、「黒い霧が降る街 肩をすぼめて 俺は独りゆく コルトを持てば冷たく燃える 命知らずのこの俺も 真はさみしい男だよ」である。こんな歌を毎日歌っている中学生はちょっとませていて「高校三年生」は好きになれなかった)。
少年、若者、大人が惹かれるのはそれぞれ自分の心情に刺激を与えるものや夢を与えるものゃ心を癒してくれるものである。日本文化は沖縄の人々の心を捉える作品をどんどん発表したが沖縄文化はそうではなかった。だから、沖縄の人々は沖縄文化から離れていった。

 私は琉大受験に失敗したら、沖縄の劇団に入り芝居変革をやろうと考えていた。沖縄芝居は背景を布に描いた絵である。全然リアリティーがない。これではウチナー芝居は廃れていくだけだ。もっとリアリティーのある舞台装置と日本映画のように新鮮な内容の芝居をするべきだと高校生ながらに考えていた。悲劇では主人公が泣き声で話すのも駄目だと思っていた。アメリカ映画のようなリアリティーのある演技をしなければウチナー芝居の発展はないなどと考えていた。
ウチナー芝居は四〇年前の高校生だった私が批判した通りの芝居を今もやっている。なんの進化もしていない。

 博物館行きを沖縄文化というのならウチナー芝居はすでに沖縄文化だろう。しかし、人々の心を捉える表現としてのウチナー芝居はポンコツである。ミイラである。ポンコツでもミイラでも観る人はいる。博物館の中で。
 比屋根名誉教授は沖縄文化が博物館の中に入ったから見直すと言っているようものである。
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