
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国時代を代表する対照的な二人、弱きを助け強きを挫く正義の軍神「上杉謙信」、時代の寵児、魔王「織田信長」が激突するという、歴史ファンが望んだ合戦こそが「手取川合戦」なのでした。
天正四年(1576)
将軍「足利義昭」の要請に応じた「上杉謙信」は打倒織田を目指してついに出陣。
本国・越後から約二万といわれる兵を動かした謙信は、越中に割拠する諸勢力、能登ほか付近一帯を支配する名門家・畠山氏と激突することとなるのでした…。
さて、越中へ進出した上杉勢は、増山城の「神保長城(じんぼう・ながしろ)」、蓮沼城の「椎名康胤(しいな・やすたね)」など、諸勢力を次々に併呑。
続いてその隣国・能登へ侵攻すると、斯波・細川と並ぶ三管領家の一つ、室町時代からの名族・畠山氏と対立することとなりました。
こちらの畠山氏は、いまだ旧守護大名体制を引きずって「畠山七人衆」と言われる重臣たちの発言力が強く、いわゆる戦国大名化できておりませんでした。
また、それぞれ重臣間には権力目当ての武力抗争が絶えず、再建を狙った当主「畠山義綱」は逆に追放されるという始末。
権威なんてまるでありません。
その後、十二歳という若さで擁立された子「畠山義慶(はたけやま・よしのり)」ですが、天正ニ年(1574)に変死。
さらに、その後を継いだ弟「畠山義隆」も急死しておりました。
…いやぁ、物騒ですね。
(※どちらも暗殺であるという説のほか、同一人物などとも言われております)
そんな不安定な情勢の中、義隆の子「春王丸(はるおうまる)」がわずか二歳という年齢で当主となっておりました。
当然ながら、それを補佐するという名目で、重臣の一人「長続連(ちょう・つぐつら)」が事実上実権を掌握していたのです。
この「長続連」、嫡男「長綱連」親子は勢力を拡大していた織田家に近づくなどして、合議体制をとる重臣らの中で一歩優位に立っておりました。
そんな長親子に対し、密かに不満を募らせていたのが、同じく重臣である「遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)」、「温水景隆(ぬくい・かげたか)」らの重臣たちなのです。
天正四年(1576) [七尾城攻略戦]
越中の諸城を三ヵ月ほどのスピードで攻略した上杉勢は、怒涛のごとく能登へと進出。
その来襲に驚いた「長続連」らは、天嶮の要塞「七尾城」に籠城(※石川県七尾市古城町)しました。
津幡・高松・一ノ宮を経て天神河原へ陣を置き、周囲の支城を次々と攻略した上杉勢はついに「七尾城」を囲むのですが……堅城と名高い「七尾城」に籠もった畠山勢はここでよく防戦し、三ヶ月の籠城戦を耐え抜くのです。
軍神率いるさすがの上杉勢もこれに攻めあぐね、一時撤退することとなったでした。

⇒ つづく。
次回は「軍神vs堅城・七尾城」(3/5)
[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
※軍神、でサーチしたらこんな小説が…。
あらすじをみたところ、はちゃめちゃっぷりが見事です。
どんなんか、なにげに読んでみたい気も…。
本日は戦国時代を代表する対照的な二人、弱きを助け強きを挫く正義の軍神「上杉謙信」、時代の寵児、魔王「織田信長」が激突するという、歴史ファンが望んだ合戦こそが「手取川合戦」なのでした。
天正四年(1576)
将軍「足利義昭」の要請に応じた「上杉謙信」は打倒織田を目指してついに出陣。
本国・越後から約二万といわれる兵を動かした謙信は、越中に割拠する諸勢力、能登ほか付近一帯を支配する名門家・畠山氏と激突することとなるのでした…。
さて、越中へ進出した上杉勢は、増山城の「神保長城(じんぼう・ながしろ)」、蓮沼城の「椎名康胤(しいな・やすたね)」など、諸勢力を次々に併呑。
続いてその隣国・能登へ侵攻すると、斯波・細川と並ぶ三管領家の一つ、室町時代からの名族・畠山氏と対立することとなりました。
こちらの畠山氏は、いまだ旧守護大名体制を引きずって「畠山七人衆」と言われる重臣たちの発言力が強く、いわゆる戦国大名化できておりませんでした。
また、それぞれ重臣間には権力目当ての武力抗争が絶えず、再建を狙った当主「畠山義綱」は逆に追放されるという始末。
権威なんてまるでありません。
その後、十二歳という若さで擁立された子「畠山義慶(はたけやま・よしのり)」ですが、天正ニ年(1574)に変死。
さらに、その後を継いだ弟「畠山義隆」も急死しておりました。
…いやぁ、物騒ですね。
(※どちらも暗殺であるという説のほか、同一人物などとも言われております)
そんな不安定な情勢の中、義隆の子「春王丸(はるおうまる)」がわずか二歳という年齢で当主となっておりました。
当然ながら、それを補佐するという名目で、重臣の一人「長続連(ちょう・つぐつら)」が事実上実権を掌握していたのです。
この「長続連」、嫡男「長綱連」親子は勢力を拡大していた織田家に近づくなどして、合議体制をとる重臣らの中で一歩優位に立っておりました。
そんな長親子に対し、密かに不満を募らせていたのが、同じく重臣である「遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)」、「温水景隆(ぬくい・かげたか)」らの重臣たちなのです。
天正四年(1576) [七尾城攻略戦]
越中の諸城を三ヵ月ほどのスピードで攻略した上杉勢は、怒涛のごとく能登へと進出。
その来襲に驚いた「長続連」らは、天嶮の要塞「七尾城」に籠城(※石川県七尾市古城町)しました。
津幡・高松・一ノ宮を経て天神河原へ陣を置き、周囲の支城を次々と攻略した上杉勢はついに「七尾城」を囲むのですが……堅城と名高い「七尾城」に籠もった畠山勢はここでよく防戦し、三ヶ月の籠城戦を耐え抜くのです。
軍神率いるさすがの上杉勢もこれに攻めあぐね、一時撤退することとなったでした。

⇒ つづく。
次回は「軍神vs堅城・七尾城」(3/5)
[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
![]() | 戦国軍神伝 一 織田信長暗殺 歴史群像新書 128-1神宮寺 元学研このアイテムの詳細を見る |
※軍神、でサーチしたらこんな小説が…。
あらすじをみたところ、はちゃめちゃっぷりが見事です。
どんなんか、なにげに読んでみたい気も…。