再び、設計の「思想」・・・・旧・帝国ホテルのロビーに見る

2008-07-21 03:34:58 | 設計法

[説明追加 7.50][文言補足 8.00][文言修正 8.11]
[註記追加 7月22日10.53]

言うまでもなく旧・帝国ホテルはF・Lライトの設計。RCの躯体をスクラッチタイル、大谷石等で被覆している。
設計は大分前からすすめられていたようで、1914年には設計案があったことがわかっている。
工事は1917年から行われ、1923年の9月1日に竣工、同日から営業開始。その竣工・披露式当日、関東大震災に遭った話は有名。そして、周辺の多くの建物が大きく被災したにもかかわらず、地震での被害はきわめて微小であった話も有名である(当時の耐震学者は、この事実について、触れていない)。なお、第二次大戦の末期1940年、隣地の空襲により延焼被災、同年末には修復。


建設地の「日比谷」は、「谷」の字の示す通り、地盤のきわめて悪い所。そのため建物全体は松杭で支えられていた。
今なら重要文化財に指定されて当然の建物だと考えられるが、戦後、地下水位の低下に伴い松杭の腐朽がすすみ、建物が波打つようになり、維持管理費を理由に、1970年の大阪万博を前にした1968年に解体されてしまった(エントランス~ロビー部分だけ「明治村」に移築されている)。
解体後今年で40年。したがって、いま40代以下の方は、実物をまったく観る機会がなかったことになる。

幸い、昭和47年(1972年)、明石信道氏による『旧帝国ホテルの実証的研究』(東光堂書店刊)が公刊された(340mm×265mm、総420頁の大型本)。
同書には、解体前に明石氏らにより実測作成された各部詳細図を含む実測図をはじめ、村井修氏撮影の各所各部の貴重な写真が掲載されており、往年の姿を一定程度知ることができる。

上掲の図と写真②~⑤は同書から転載。写真①は、同様の写真が同書にあるが見開きのためスキャンできず、二川幸夫氏の撮影写真を「フランク・ロイド・ライト全集 第四巻」から転載した。
なお、ロビー周辺の平面図の拡大にあたってはネガ・ポジ反転して作成した。こうすると、昔の「青図」のように、躯体ではなく、躯体により造成される「空間」が分りやすくなるからである。


当時、「帝国ホテル」と言えば、いわば敷居の高い場所。そう滅多に訪れることはない。まして若造には・・・。解体話が出始めていた頃、勇気を出して?友人と見学に訪れた。
敷地は日比谷通りを挟んで日比谷公園に面し、建物の正面入口は、公園側にとられている。
平面図で分るように、左右から張り出す「迎賓室」入口(平面図の26)の前を池に沿って歩き、ポルト・コシエ:porte-cochere 屋根つきの車寄せ:に到達する。車でのアクセスを考えているのかも知れない。

ライトのこの時代につくる建物には、「建築を業とする」という立場をはなれ、そしてまた「建築を観賞する」立場もはなれ、「普通の人:普通にホテルを使う人」の立場で接する必要がある。
何故かというと、とかく建築を業としたり、鑑賞する立場に立つと、どうしても、目の前にある個々の「もの」に目が行きがちだからである。
たとえば、帝国ホテルの場合では、各所の大谷石の装飾などに目が行ってしまう。

しかし、普通の一人の客としてホテルを訪ねるならば、それらそれぞれ個々にではなく、そういった「もの」たちによって生まれている空間そのもの:「自分を取り囲んでいる空間」を感じている筈だ。
これは写真を見る場合も同様で、どうしても目は写真画面の各所の「もの」に目が行ってしまうが、肝腎なのは、そういった「もの」で囲まれた空間を、写真から読み取ることだ。
これは、いかなる建物に接する場合にも共通の注意点だと思うが、とりわけライトの建物の場合は注意が必要ではないだろうか。

   註 先の書の写真を撮影した村井修氏は、先に紹介した
      前川國男設計の建物の撮影者でもある。
      村井氏については渡辺義雄氏の写真とともに以前に触れている
      (「建築写真・・・・何を撮るのか」参照)。
      このお二人は、「目の前に広がる空間」を撮ることにおいて
      きわめてすぐれた写真家である、と私は思う。
      残念ながら、最近の建築写真には「空間」を撮る例が少ない。
      設計者自身も、「もの」をつくることに《専念》する時代だから
      やむを得ないのかも知れないが・・・。
                             [文言修正 8.11]

「車寄せ」から三段階段を上がり建物内に入り、半円形の二段の登り階段を上がると、そこはエントランス・ホワイエ。両側にフロントがある(平面図の位置:6と標記:と異なる配置)。そして幅広の階段を数段、落差で1mほど上がるとロビー。
「車寄せ」から入口扉を開けたとき、たしか、ロビーの床面が見えたと思う。
エントランス・ホワイエからは、ロビーの床が確実に見える。そして天井は、ロビーの高みへと徐々に切り上がり、最後の階段を上がっている途中で、ロビーの大空間に飲み込まれる。
写真①は、ロビー床面の見え方から、エントランス・ホワイエに立ったときの目線の撮影と見てよいだろう(拡大平面図の①の矢印位置の貼り付けは誤り、エントランス・ホワイエ:階段の手前に置くのが正)。

つまり、人はきわめてスムーズに、外界からメインロビーへと誘われ、それとともに、「外界の人」から「ホテル内の人」へと、「気分」が切り替わる。
私は、そのとき、その絶妙さに呆気にとられたことを覚えている。
そしてそのとき、各所の大谷石による装飾などは目に入っていなかったことも覚えている(より正確に言えば、目には入っているが、その個々に目を奪われることはなかった、と言う方がよいだろう)。
この絶妙な空間感の切り替えは、主に、階段と天井高の微妙な切り替えによって生まれていると言えるだろう。天井の高さは、低い場合はおよそ8尺程度、この種の建物としてはかなり低い。
今回は断面図を紹介できないが、断面を見ると、階段と天井高の切り替え位置の微妙な設定が分る。

   註 この「微妙さ」「絶妙さ」は、
      ライトの「人の動き」に対する洞察の深さによるものと思われる。
      この「感性・感覚」は、A・アアルトに共通するものだ。
      なお、この「感性・感覚」は、日本の建物づくりにも見ることが
      できるように思う。それについては下記で触れた。
      「日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成・1」
      「日本の建築技術の展開-17・・・・心象風景の造成・その2」
      「日本の建築技術の展開-18・・・・心象風景の造成・その3」
      「日本の建築技術の展開-19・・・・心象風景の造成・その4」
      「日本の建築技術の展開-20・・・・心象風景の造成・その5」
      「日本の建築技術の展開-21・・・・心象風景の造成・その6」 

   註 帝国ホテル風に、あるいは大谷石をライト風の装飾に用いる
      設計がその後多々見られるが、空間に同化した例は少ない
      のではなかろうか。
  
   註 出入口を入って直ぐの半円形の階段は、それが登り階段だから
      上がりやすく、スムーズに足が動く。
      同じ半円形に「降りる階段」を設けた建物があった。
      これは実に怖かった。
      登るときも降りるときも、目線の行き場がなく(焦点が定まらず)、
      足の位置を定めにくいからのようだ。この設計者は、多分、
      平面図上の《面白さ》だけで階段を設計したに違いない。
      この階段には、「危険」を示す黄色のテープが段端に貼られていた。     

歩みを続けてロビーに出たとき、背後に別な空間の存在を意識させられる。
一つは、今歩んできたエントランス・ホワイエの上にかぶさっているティー・バルコニー、そして脇へと登る階段。
「階段があった」という言い方は正しくないだろう。「その空間へ行ってみたいな」という気分に誘われた、と言う方がいい。気分は前方に、しかし、後方へ行ってみてもいいかな、という感じである。そこで振り返ってみたら上る階段があった、ということ。それはラウンジへの誘いである。写真②がそれである。

そういう気分の創出に効いているのは、ロビーに背後から射しかかる明るさの微妙な状態と言えるだろう。
その誘いに誘われてラウンジに歩むと、そこはロビーとはまったく異なり、気分がゆったりと落ち着く静かな空間。この変容にも驚く。下のロビーの様子を感じながらも、ゆったりと落ち着いていられる。まさにラウンジという言葉の有する本来の意味通りの空間がそこにある。
これは、下のロビーの様子が感じられるからこそ生まれる気分。もしも下の様子がうかがえないとしたら、何でこんな場所に来てしまったのか、と思うに違いない。
つまり、ライトは、このすべてを「お見通し」で設計をしているのだ。

なお、写真②で、下へ降りる階段が見えるが、これは階下のトイレへゆく階段である。[説明追加 7.50]

そして、各部に施される「装飾」は、この「気分の変容」、「空間の変容」を感じさせるための「所作」と考えると理解できる。「装飾」そのものに意味があるわけではない、逆に言えば、「変容」を強調・促すために「装飾」の様態が考えられている、と言えるだろう。
写真③がラウンジの様子。ロビーをはじめ、ここに連なる空間を、すべて感じとることができる。

ラウンジから更に少し上がると、ティー・バルコニーとギャラリーへ至る。その様子が写真④、写真⑤。写真④はティー・バルコニー、写真⑤は、ギャラリーとのつながり。平面図と照合しつつ見ると、納得がゆく。
ここも、下に見えるロビーとは別の世界。しかし、下の世界と隔絶しているわけではない。
おそらく、こういうところが「有機的建築」という評語を生み出した所以であろう。


とにかく、この帝国ホテルの建物は、実際にそこへ行かないと、その実態・様態を理解することができない例の典型と言えるだろう(もっとも、建物というのは、本来、そういうものなのだ)。
ライトの建物は、図面や写真だけでは、想像力を駆使しないと、誤解をかならず生む、と言っても過言ではない。
同じことはA・アアルトの建物でも同じ。ただ、アアルトはライトのような「装飾」を施さないから、《写真映りだけを大事にする》人たちには、「目の行き場がなく」、その空間造成の妙が、さっぱり分らないのではなかろうか。


今、明治村に、帝国ホテルのほんの一部が移築されている。そこへ赴き、前後の空間の存在を想像で補いつつ、空間体験を試みれば、ライトの「設計思想」を、僅かではあるが、垣間見ることができるのではないだろうか。

なお、日本には、ライトの設計思想を知るすぐれた建物が現存している。その一つが遠藤新氏が設計した「甲子園ホテル」、現在の「武庫川女子大学 甲子園会館」である。遠藤新氏は、帝国ホテル建設にあたり、ライトの意志をうけ、現場を差配し、ライトの「設計思想」を熟知し、また受け継いだ人である。
この「甲子園ホテル」のロビー、ラウンジもすばらしい(公開されている)。
遠藤新氏の設計した建物には、このほかに、自由学園、栃木県真岡市の小学校講堂などが現存していて、それらからもライトの設計思想をうかがい知ることができる(「日本インテリへの反省・・・・遠藤新のことば」参照)。[文言補足 8.00]

   註 「自由学園明日館」の内部は、
      「F・Lライトの付け縁:trim-補足・・・・trimは何のため?」
      写真を紹介している。
      この建物でも、ライトの「装飾(付け縁を含む)」の「意味」、
      ライトの建物に対する考え方、設計の思想を見ることができる。
                        [註記追加 7月22日 10.53]

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