鉄道敷設の意味:その変遷-1・・・・「街道の代替としての鉄道」の時代

2008-05-13 03:32:11 | 居住環境

[記述・註記追加:9.35、11.19][地図追加:21.18]
[記述修正:05月14日2.18]

釜石鉱山には、釜石~鉱山間に鉄道が敷かれていた。それは、鉱山が国営の時代、1880年(明治13年)に、当時の工部省の敷設したもので、わが国では3番目の鉄道とのこと。それほど、鉄が重要視されていたのである。
多くの鉱山は国営で運営されていたが、そのほとんどは経営がうまくゆかず、民間に払い下げられる。これは、小坂鉱山も同様であることは以前に触れた(「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山)。釜石の鉱山専用鉄道も、わずか3年で廃線、1884年からは、民間が受け継ぐことになる。

日本で最初の鉄道敷設は1872年(明治5年)の品川~横浜(桜木町)、同年のうちに新橋まで延びる。新橋まで延びた10月15日が鉄道記念日。

その後の鉄道敷設を順に追ってみると、なかなか興味深いことが分ってくる。
東京を中心に調べてみると、新橋~横浜に次いで開通するのは、1883年(明治16年)の上野~熊谷。翌年の1884年に熊谷~高崎~前橋間が開通し、今の高崎線に相当する路線が全通する。

次いで、高崎~横川間が1885年(明治18年)。これは今の信越線にあたる。

今は東海道線が主と考えられているが、明治政府は当初、そうは考えておらず、江戸時代随一の主要街道「中山道」の代替としての鉄道敷設:「中山道線」を考えた。それが、高崎~横川、つまり碓氷峠下までの敷設を急いだ理由である。
だから、現東海道線の着手は、「中山道線」よりも遅れ、横浜~国府津:1887年(明治20年)、国府津~静岡:1889年(明治22年)と、高崎~横川間よりも数年遅い。関西から名古屋、静岡への敷設は進んでいたから、この年に新橋~神戸の輸送路が辛うじてつながる(琵琶湖のあたりは水運に頼ったとのこと)。

   註 関西では、神戸~京都は1877年(明治10年)に開通している。
      ただしそれは、現在の東海道線を意図していたものではなく、
      「東海道」ではなく琵琶湖南岸に沿って「中山道」「美濃路」を
      通っているから、「中山道線」の意図があったのかもしれない。     

一方、現在の東北線は、先の高崎線の大宮を分岐点として進められ、大宮~栗橋(利根川を渡る手前)が1885年(明治18年)、翌年1886年に利根川橋梁が完成し、上野~宇都宮間竣工。盛岡までは1890年(明治23年)、青森まで全通が1891年(明治24年)である。

ところが、「中山道線」は、碓氷峠がネック。横川~軽井沢間の開通は、1896年(明治26年)。どうも、碓氷峠で四苦八苦している頃から、「中山道線」をあきらめ、それは信越方面をつなぐ路線とし、関東関西をつなぐ幹線を東海道線とする方針変更があったらしい。
実際、中山道は碓氷以外にも山地が多く、難工事が予想されるから、当然と言えば当然ではある。

   註 碓氷峠はいちはやく電化されるが、その経緯は下記参照。
      「丸山変電所・・・・近代初頭のレンガ造+鉄骨トラス小屋」

つまり、ここまでを要約すると、①新橋~横浜間に次いで、②上野~高崎・前橋、上野~高崎・横川が完成、続いて③東北方面への上野~宇都宮が、そして④青森までの開通は、東海道線の全通とほぼ変らないことになる。

そして、今では主要路線とは見なされていない両毛(りょうもう)線(前橋~小山)、水戸線(小山~水戸)が、1889年(明治22年)に全通している。
これは、関東平野の北辺を東西につなぐ路線が、重要視されていたことを物語っている。
なお、この両線とほぼ同じ時期に、中央線も着工されている。新宿~八王子:1889年(明治22年)、~上の原:1901年(明治34年)、全通1906年。

ちなみに、常磐線は、水戸方から敷設が始まり、水戸線の友部~土浦が1895年(明治28年)、土浦~田端が1896年と、着工は大分遅れ、さらに現在のように上野につながるのは1905年(明治38年)である。つまり、それほど重要視されていない。

なぜ両毛線、水戸線がかくも早く先行敷設されたのか。
それは、その路線の通っている経路を見れば、自ずと分ってくる。
先ず、両毛線の経路は、「両毛」、つまり「上毛野国(かみつけの の くに)」と「下毛野国(しもつけの の くに)」とを通り、東北へと抜ける古代の「東山道」、「例幣使(れいへいし)街道」(江戸時代、朝廷からの日光:徳川廟を詣でる使が例年決まって通る街道)にほぼ沿っている。
その一帯の道を示したのが上の地図(12月22日に載せた地図:下註:と対照してみてください)。[記述、下記註追加]

   註 鉄道は前橋から東進せず、例幣使街道筋の伊勢崎へと南下し、
      東山道すじの赤城山麓の古い町が、鉄道からは遠くなる。

      この一帯の古代の状況については、07年12月22日の
      関東平野開拓の歴史-2・・・・西関東の古墳分布参照。
      そのあたりの現在の地図も掲載。
 
そして水戸線は、古代「東山道」から分れ、その支線として「常陸国」へと至る街道。江戸時代も、その道筋は重要であった。なお、「常陸国」へは、「東海道」が、神奈川・三浦半島から海を越え房総半島に入り、霞ヶ浦をと至っていて、「東山道」の支線と合流する。そういう構図になっていた。[記述追加]

とりわけ、「東山道」「例幣使街道」の通った関東平野の北辺は、関東平野開拓を担った東国の武士たちの故郷。古代よりの繁栄の地。徳川氏発祥の地もこのあたり。
これについては、07年12月18日記事屋敷構え-4・・・・坂野家・補足に少し紹介している。「記述修正追加]

しかも、江戸時代は、一帯は江戸へ流れ下る諸河川の上流に位置する。
江戸時代の諸河川は、重要な物資の運送路(舟運・水運)。その上流筋には、商業拠点が栄えた。だから、東山道筋には幕府直轄地が多い。一例は関東の蔵の町と言われる「栃木」。
明治政府は、江戸期の重要な街道筋を、時代が変っても、その重要さは変らない、と判断していた、と考えてよいだろう。
このことは、東京・上野~高崎・前橋の経路も同様で、それはまさに江戸期の「中山道」を踏襲している。
「中央線」もまた、「中山道」の脇街道の位置にあった「甲州街道」「信州往還」の代替と考えてよい。

つまり、明治政府にとって、鉄道は、かつての輸送陸路:街道の代替として考えられていたのである。

また、東北線を先行させたのは、古代以来延々と続いている江戸期以前の「征夷大将軍」の「世界観」:そのための陸路:街道を維持するという考え:を引継いだものと考えることができる。

ただ、唯一、代替の鉄道が敷設されなかった主要街道がある。
それは現在の国道4号、かつての陸羽街道(奥州街道)のうちの、江戸~古河・小山間(千住~草加~越谷~春日部~幸手~栗橋~古河)である。
「東北線」が、「大宮」から分離してしまった結果、主要街道の中で、唯一ここだけ鉄道敷設から取り残された。

   註 大宮分岐になったのは外国人技術者の進言によるという。


かくして、関東平野の主要鉄道網は、ほぼ19世紀中に、その骨格はできあがる。そして、関東地方東部:埼玉東部~茨城にかけてだけ、鉄道からいわば見放された地域が生じてしまう。それは、言ってみれば、「国の施策」から見放された地域と言ってもよい。
そこで、この鉄道空白地域では、新たな別の動きが生まれる。
それについては次回。

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