鉄道敷設の意味:その変遷-3・・・・「儲けるため」に鉄道をつくる時代

2008-05-22 15:13:16 | 居住環境

[記述追加:18.07、18.17][訂正・註記追加:5月23日 11.19、11.49]
[字句修正:5月26日 9.08]

鉄道敷設が、当初、それまでの街道や水運の代替として考えられたのは、関西においても同様である。

国策としての鉄道は、関西では、「神戸~大阪」間が1874年(明治7年)、「大阪~京都」間が1877年(明治10年)に開通し「神戸~京都」が全通する。

   註 上の地図は、下記より抜粋、筆者が加筆編集したもの
      京阪神地域の現況:「日本大地図帳」平凡社
      明治20年の測量図:「京都府の地名」「大阪府の地名」平凡社

   註 「新橋~横浜間」は1872年(明治5年)開通だから、
      「神戸~大阪」は、その2年後、「京都~神戸」全通は5年後。
      [神戸~大阪間開通和暦年訂正、註記追加:05月23日11.19]

明治20年の京阪、阪神地域の測量図には、すでにこの鉄道が記入されている。

京都~大阪間は、近世末には、「淀川」の右岸:北側の山系の裾を通る「山崎街道(近世以前は「西国街道」と呼ばれていたようだ)」と「淀川」の左岸を通る「京街道」の2ルートが主であった。「淀川」は、「賀茂川」「宇治川」「木津川」など多数の河川が「山崎」のあたりで合流したあと、大阪までの部分の呼称である。

地形的な利点から、古代~中世は、当然ではあるが「山崎街道」が主である。
低湿地を横切らなければならない「京街道」を重視したのは、徳川になってからで、江戸に上る西国の大名が、京都で朝廷に接するのを避けるため、「伏見」から宇治川に沿って「大津」に至る経路を奨めたらしい(以上来歴は、平凡社「京都府の地名」による)。

   註 上の地図の「伏見」の南で、東から「大池」(「巨椋池(おぐらいけ)」)に
      注いでいるのが「宇治川」。
      「巨椋池」は水深の浅い淡水湖で、自然の遊水地だった。
      明治年間から干拓が行われ1941年(昭和16年)に完了している。
      私が学生の頃、奈良線で近くを通ると、一帯はただ茫洋として、
      いつも靄(もや)がかかっていた。

   註 「山崎」については、
      日本の建築技術の展開-18 の補足・・・・妙喜庵のある場所で触れた。

この京阪間の国策鉄道の経路は、地図で明らかなように、「京都」から「山崎街道」に沿って南下し、途中「高槻」(地図に記入の「山崎街道」の文字の下あたり)からは「亀山街道」に沿って「大阪」に至る経路をとっている(なお、「亀山街道」の「亀山」は、現在の「亀岡」市亀山に「亀山城」があったことからの命名、今は「亀岡街道」と呼ばれる)。

「大阪~神戸」の経路は、「山崎街道」が「中国街道」に合わさる「西宮」以西は、ほぼ「中国街道」の山側を並行して敷設されているが、「大阪」~「西宮」は、「中国街道」の北を、かなり離れて通る(それゆえ、「尼崎」駅は「尼崎」の街からは2km以上も離れている)。おそらく、敷設工事にあたり、その一帯が低湿地であることを嫌ったのだと思われる。

この国策の鉄道開通後、鉄道の通らなかった街道筋で、民間による鉄道敷設が始まるのは関西でも同じである。
その中でも早いのが、国策の鉄道が通らなかった「中国街道」を忠実になぞる鉄道で、1905年(明治38年)に「神戸~大阪」間が開通する。現在の「阪神電鉄」の本線である。
次いで、1910年(明治43年)には、「京街道」筋の「京都~大阪」間と、「能勢街道」に沿う「大阪~石橋~池田~宝塚」「石橋~箕面」間が開通している。
前者が現在の「京阪電車」の本線、後者は現在の「阪急電車」の宝塚線である。「池田~宝塚」以外は、旧主要街道の代替と考えてよい。

ところが、明治が終り、大正にはいる頃:1910年代中頃になると、少し様相が変り、近世の陸運・水運の代替とは無縁な鉄道の敷設を考える経営者が現れる。[字句修正]
その最初の例と言えるのが、1920年(大正9年)に、国策の鉄道:現東海道線の北側に並行して開通する「大阪~神戸」間の鉄道:現在の「阪急神戸線」で、「大阪~神戸」間の三本目になる鉄道である。

先行の二本の路線が主に旧街道筋の町々を結んでいるのに対して、この鉄道は、街道筋ではなく、大きな町も少ない六甲山系の山麓に沿って敷設されている。どう考えても、利用者は前二者に比べて少ない。
この鉄道の「発想」は、敷設地域の既存の居住者を利用者と考えたのではなく、「新たな利用者を敷設地域に住まわせる」、すなわち、大阪や神戸周辺の都市生活者向けに鉄道沿線に住宅地を開発し、その人たちに鉄道を利用させることを考えた敷設なのである。そのため宅地購入費用の分割による販売も行った。

その後「阪急」は、「大阪~京都」間にも三本目の鉄道を開設するが(現「阪急・京都線」)、これも同様の考え方で、既存の街道等とは無関係に路線を敷き、観光地「嵐山」への支線も設けている。

おそらくこれは、徳川幕府崩壊後およそ50年、以来進んできた「近代化」思想:「西欧風近代合理主義:資本主義」の考え方が、それまでの江戸期を通じて維持されてきたわが国の「商いの思想」:それは「近江商人の理念・思想」(「近江商人の理念」参照)に代表されると見てよい:を駆逐しはじめた一つの表れと見ることができるだろう。

「阪急」の創業者は、東武鉄道の根津嘉一郎と同じく甲州商人の家の出。福沢諭吉の慶応義塾を卒業後、財閥系企業に就職、後に「阪急」を創設する。
しかし、「神戸線」「京都線」とも、周辺に人口がない段階には、経営は必ずしも成り立ったとは言えなかった。経営の継続には、かつて知己を得ていた関西の銀行筋の支援と、小林の独特の発想が支えになったようだ。
小林は、「大阪~神戸」「大阪~京都」を、既存の二本の鉄道よりも短い時間で結ぶことを考えたのである。それが阪神「急行」電鉄の名のいわれ。「阪急」は「阪神急行電鉄」の略称である。

現在、多くの鉄道は、沿線に遊園地その他「観光施設」等を経営し、利用客を呼ぶことを常道としているが、それをいちはやく手がけたのも「阪急」である。
「阪急」は、その策の一つとして、「大阪~池田」線の最奥の山あいの地に(地図参照)、人寄せのため、1911年(明治43年)に「宝塚新温泉」を、1913年(大正2年)には「宝塚唱歌隊」:後の「宝塚歌劇団」をつくっている。また、集客のために、ターミナル駅に百貨店を併設するアイディアを最初に実行に移したのも「阪急」であった。

この「考え方」は、他の鉄道にも影響を与える。昭和に入ると、既存の「観光地」へ向けて鉄道を延伸したり、新設する動きが生まれ、ターミナルに百貨店がつくられるようになる。
関東では、観光路線として、東武鉄道が1929年(昭和4年)「日光」への路線を延伸し、「小田急(小田原急行電鉄)」によって、1927年(昭和2年)「箱根」に直行する鉄道が「小田原」まで、1929年(昭和4年)「江ノ島」直行の「江ノ島線」が開通する。「小田急」は、創業と同時に「向ヶ丘遊園地」を開設している。

そして、関東の「東急」は、最初から「阪急・神戸線」的発想で鉄道経営を手がけるようになる。「東横線」などがそれで、駅名には「田園調布」「自由が丘」などの名前が付けられる。言葉のイメージで人の心をゆすぶる作戦である。

   註 各地の住宅地や、鉄道の駅名に、雲雀も住めないのに
      「ひばりが丘」、「あざみ」など生える場所もないのに
      「あざみ野」等と名付け、あるいは「粕壁」はイメージが悪いから
      「春日部」に、「十余四」を「豊四季」に変える、などという
      「開発業者」の《習性》も、元をただせばこの時期からのものだ。
      「十余四」は開拓地に付けられた「14番目の新田」の意。
      当然、「十余一」~「十余三」もある。[記述追加]
      なお、「春日部」や「豊四季」の改名は、旧「住宅公団」の仕業。
                               [記述追加]

そういった駅を中心にした「都市計画?」は、今でも残っている。新設の鉄道「小田急」沿線の「成城学園」や、既存の「西武鉄道」の「大泉学園」なども、その影響を受けた例である。
「小田急」「東急」の「急」は、明らかに「阪急」の影響である。


民間の鉄道が、このような「近代合理主義:資本主義」的経営に進む一方、国策の鉄道は、依然として、「地域住民の利便性を重視した、つまり採算度外視の鉄道の敷設・経営」を継続していた。

けれども、戦後間もなくはともかく、1960年代以降になると、いわゆる《高度経済成長》の波の中で、《経済》界の趨勢は、「近代合理主義」を越えて「採算重視:費用対効果重視主義・市場原理主義」の方向へと急激に変ってゆく。端的に言えば、儲からないことはやらない、手を引く、という考え方。
当然、「住民の利便重視・採算度外視」の敷設・経営の鉄道は、存在が危くなる。その結果が、すなわち「国鉄民営化」「地域鉄道の廃線、または第三セクター化」なのである。

理の当然ながら、「採算:費用対効果重視、市場原理主義」に拠るかぎり、人口の多い地域に於いては、「住民の利便」は見かけの上では大事にされているように見えるが、人口の少ない地域に於いては「住民の利便」は無視されることになる。
すなわち、鉄道の利用者は、一見、鉄道会社のサービスの享受者のようでいて、実は、鉄道会社にとっての、単なる商売のための品物:儲けを生むための物品:にすぎなくなった、と言っても過言ではない

このような《最も現代的、最新の考え方》に拠るかぎり、「利益」を生む品物が少なくなれば、「サービス」は行う意味がないから、「サービスの提供」から手を引くことになる。
現実に、都市以外に於いては、その現象が起きている。この「主義」に拠るかぎり、都市以外の地域が疲弊するのはあたりまえなのだ。
都市近辺に住む人は、日ごろ「不便」を感じていないから、この「事実」に気が付いてもいないが、都市以外に暮す人びとは、とっくの昔から、身をもって知っている。[記述追加]


1960年代以降の都市への人口集中とともに、各地で住宅地開発を携えた鉄道敷設や、更なる《経済的発展》を意図した開発が行われるようになる。人口の少ない、土地に空地が目立つと思われる(実際は空地ではないが、開発計画者には、農耕地でさえ空地に見えるのだ)地域は開発対象地として狙われた。「田園都市線」などは、その最たるもので、先に触れたように、都市住民の心をくすぐるような駅名や地名、住宅地名が次々につくりだされていった。

その際留意すべきは、これは先に筑波新線の開発に於いても触れたが(「開発」計画・・・・その拠りどころは何なのか参照)、開発計画地に於いては、数が少ない先住の居住者たちは、それゆえに大事にされず、相手にもされず、その人たちの暮しや居住地の環境が、次々に押しつぶされていくことだ。その先駆的代表・典型は、「成田空港」と「筑波研究都市」の開発と言ってよいだろう。

「成田」の強引な開港の理由は、「羽田」が限界に達しているから、であった筈だが、最近は「羽田」を拡幅し、国際線も受け入れる方向に動き出している。
東京への一極集中を避ける目的で行われた筈の「筑波研究学園都市」は、今、筑波新線の敷設で、東京圏の一部に取り込まれつつある。
どうも、最近の「開発」には、「定見」「理念」がない。仮にあるように見えても、それは「当面を取り繕うための言葉」に過ぎない。咽喉下すぎれば何とやら、人の噂も75日、平然と前言を取り消して知らん顔。
要は、「儲かる」ためなら何でもやり、「儲けにならない」ことは、一切やらなくなったのだ。
明治期の鉄道創業者はもちろん、少なくとも、当初の「阪急」の創業者にも、そこまでの「割切り」はなかった。

このような「費用対効果を最重要視する《現代的な思考法》:簡単に言えば、儲からないことはしないという《理念》」を、私たちは是認していて、はたしてよいのだろうか。
そして、明治の鉄道人は、はたして非合理的、非近代的な思考の持ち主だったのだろうか。彼らの理念は、忌むべきものだったのだろうか。
そしてさらに、明治以前の為政者は、明治の人びとにもまして、非合理的、非近代的だったのだろうか。
そしてまた、江戸時代の商人は、儲けに直結しない「ばからしいこと」ばかりする非合理的、非近代的な考えをする人たちだったのだろうか。[記述追加]


ところで、筑波新線の開業とともに筑波周辺で進んでいる開発事業で、ある「滑稽な、しかし笑えない、事態」が起きているらしい。折りをみて、それを紹介する。

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