鉄道敷設の意味:その変遷-2・・・・採算度外視で鉄道をつくった時代

2008-05-16 08:31:36 | 居住環境

鉄道の敷設に対して、場所によると、反対運動で路線を迂回させた地域もあった。しかし、実際に鉄道が開通すると、その影響は、予想を越えて大きかった。
先回、初期の鉄道は、主としてそれまでの陸路・街道の代替を意図して計画されたことを紹介した。
その際、街道筋でありながら、路線からはずれてしまった地域が生じているが、その地域で、特に鉄道の影響が顕著に現われだす。物流が鉄道に流れ、それぞれの町の拠って立っていた物資集積地としての役割が急激に奪われていったのである。

先回、両毛線、水戸線は、旧来の街道筋であり、かつ、江戸時代の物流の主役の河川舟運の上流拠点を結んでいることを紹介したが、そこに集積された物資は、鉄道により運ばれることとなり、人もまた鉄道利用に変っていった。
その結果、かつての交通・物流の要衝でありながら鉄道からいわば見放された旧街道筋、旧水運筋(河川筋)の町々の衰退は目に見えて明らかになっていく。
例を挙げれば、東北へ向う鉄道が大宮分岐になった結果、唯一鉄道が通らなかった旧主要街道:陸羽街道(現国道4号)の千住~栗橋間がそれである。

その結果、鉄道に反対した地域を含め、鉄道敷設を望む動きが各地で起きるようになる。
先の陸羽街道筋でも、民間の手による鉄道敷設が実現する。

   註 先回紹介した主要な鉄道の敷設にも民間がかかわっているが、
      その場合は、いずれも国の施策に従った形の「民間」である。

1889年(明治32年)、国家的事業の上野~前橋間全通に遅れること5年にして、千住~草加~越谷~粕壁(現 春日部)~久喜・栗橋の間に、街道筋の町を丁寧に結ぶ民間による鉄道が開通する。現在の東武鉄道・伊勢崎線の前身である。

この鉄道のほかにも、主要鉄道の路線からはずれてしまった北関東の町々をつなぐ小鉄道もこの時期敷設されているが、この伊勢崎線の前身の鉄道は、これらの小鉄道を併せながら、北関東各地の「主要鉄道から見放された町々」をつなぎ、遂には伊勢崎まで到達する。そして1910年(明治43年)、現在の浅草~伊勢崎が全通する。

その経路を見ると、各町々に寄るため、路線は曲折を繰り返す。つまり、この鉄道の敷設の最大の意図は、主要鉄道の通らなかった町々に鉄道の「恩恵」を届けることにあった、見てよいだろう。

   註 両毛線が伊勢崎に直行したため鉄道からはずれた旧街道筋の
     前橋~大胡~桐生でも「上毛電鉄」が敷設されている。


しかし、このような鉄道であったため、私が子どもの頃は、東武鉄道は「儲からない鉄道」の代表と言ってもよく、車両もお世辞にもよいとは言えなかった。なぜなら、沿線には町と田畑が交互に広がり(田畑が圧倒的に多い)、沿線人口も少なく、明らかに「儲け」が少なかったからだ。いわゆる「田舎の電車」。
しかし、第二次大戦後、特に1950年代後半以降、沿線の田畑が宅地化され、人口が増え、通勤電車化するにつれ、他の都市内私鉄風に徐々に変ってくる。住宅公団の団地ができてから「粕壁」は「春日部」に変り、そして、古くからの地名であった「杉戸」駅は、「東武動物公園」に変ってしまった。

なお、東武鉄道と言えば、日光直通の観光路線と思いがちだが、日光への路線ができるのは、かなり遅く1929年(昭和4年)である。
この鉄道経営者には、当初、観光による商売という意図はなかったのだ。

このような東武鉄道の経営にあたったのは、「甲州商人」の出の根津嘉一郎である(主体は穀物商。当初からではなく、窮乏を見かねて経営を引継いだ)。

   註 二代目も嘉一郎を襲名。
      南海電気鉄道などの経営に参画。
      「根津美術館」は根津家の収集品を収蔵・展示。
      旧制高校の「武蔵高等学校」の設立にもかかわる。

      なお、以上に記載の各鉄道の建設年次は、
      各「〇〇県の地名」(平凡社)記載のデータを集めたもの。


上の地図(「日本大地図帳」平凡社 より転載)は現在の関東平野東部地域。
この地図上で、先に紹介した「国策鉄道」高崎線、東北線、水戸線のみ残して他がない状況を想像すると、鹿島灘まで、鉄道路線が何もない広大な地域が広がっている。
しかし、その地域には、大きいものだけでも、利根川に注ぐ鬼怒川、小貝川、霞ヶ浦に入る桜川、恋瀬川などの河川がほぼ南北に平野を下っている。そしてこれらの河川は、いずれも、平野の産する物資(穀類、薪炭類、醸造製品など)を江戸に運ぶ重要な水運路であった。それゆえ、これらの河川に沿って、河岸・町が発達し(水海道、下妻、土浦、高浜などには、古い町並みがのこる)、それらの河岸・町を結ぶ街道も、河川に並行して生まれていた。

しかし、「国策」鉄道の開通は、一挙に水運・舟運の需要を減らす。物資は上流の水戸線に集められ、東京に向うようになった。
そこで、先の東武伊勢崎線の前身の鉄道同様、かつての水運路・街道を踏襲代替する鉄道の開設意欲が各地で生まれる。
この地域では、鬼怒川と小貝川の間を南北に取手~下館を結ぶ常総鉄道(現在の関東鉄道常総線)が1913年(大正13年)、桜川に沿って土浦から筑波、真壁、岩瀬をつなぐ筑波鉄道が1918年(大正17年)に開通している。
恋瀬川に沿って、石岡と柿岡を結ぶ鉄道も計画されたが、実現しなかった。
これらはいずれも、1889年(明治22年)全通の水戸線と、1896年(明治23年)に開通した常磐線とを結ぶことを意図したものだった。

すでに少し触れたが、次々に生まれたこれらの鉄道は、現在の鉄道とは異なり、いわば「採算度外視の経営」「儲からない鉄道」であったことは注目してよい。
東武鉄道の経営を引継いだ根津嘉一郎も、鉄道の存続・経営には、おそらく、他の事業で得た資金を注ぎ込んでいたと考えられる。
これは、各地で生まれた後発の鉄道にも共通し、今風に言えば、各地の資産家のいわばボランティアに近い経営であったと言える。
ただしそれは、事業に参画した資産家たちが、今風のボランティアを意識していたのではなく、「それを担うのが当然の義務」と考えていたからなのである。これは、以前紹介した「近江商人」の思想・理念に共通する(近江商人の理念参照)。

   註 根津嘉一郎は、「社会から得た利益を社会に還元するのは
      当然の義務」と言っているという。

もちろん、先に紹介してきた「国策」の鉄道も、現在のように採算第一ではなく、鉄道の持つ役割:住民の利便=「公益性」を重視したものであったことに留意する必要がある。
つまり、採算第一、採算重視であったならば、当初の鉄道はすべて、経営が成り立たなかった、と考えてよい。
当時の「施策」や「社会の気運」を、現在の「《経済》合理主義」で計ることはできないし、計ってもならないだろう。


そして、これら各地に生まれた鉄道は、《合理化》が経営の主流の「思想」となる1960年代以降になると、自動車の普及にともない利用者、物資輸送とも激減し、採算度外視の運営は許されなくなる。
たとえば筑波鉄道は、やむなく1987年(昭和62年)に廃線に追い込まれる(線路跡地は、サイクリングロードとなっている)。
常総線は、辛うじて東京に近いため沿線にベッドタウンが生まれ、乗降人員を確保でき、とりあえず採算がとれ、「当初の意図とは別の形」で生き永らえている。

「採算第一」「《経済》合理主義」「市場原理主義」が重視されるかぎり、経営が成り立つのは、人口:利用者の多い都会周辺に限定されるのは目に見えている。
そして、地域住民の利便重視から採算重視へと「判断の尺度」が変ってしまった結果、かつて、各地に建設された「国策」鉄道もまた、国鉄の民営化以後、廃線や第三セクター化に追い込まれる。各地の「地域間路線」=「生活路線」(いわゆる《ローカル線》)では、特にそれが著しい(「地域間路線」をローカル線と呼ぶのは、語の誤用である⇒山手線はlocal線だ)。
阿仁・異人館で紹介した「秋田内陸縦貫鉄道」もその一例である。

   註 茨城県では、一戸当たり3台程度、自動車を保有している。
      バスを乗り継ぐなどに比べ、移動にとって便がよいからである。
      その結果、バス利用も減り、各地のバス路線は縮小される。
      私の住む一帯は、最近では、土浦までのバスが
      一日5本程度に減ってしまっている。悪循環。
      利用者は、主に高校生と病院通いの高齢者。ダイヤもそれ向き。

次回は、もっぱら「利益を生む」ことを考えた鉄道の出現について。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 急いでコメント・・・・中国... | トップ | 鉄道敷設の意味:その変遷-... »
最新の画像もっと見る

居住環境」カテゴリの最新記事