鶴岡八幡宮の大銀杏の続々々々々報

 時節柄「お座敷」が続き、胃袋と財布が疲れ気味なだけではなく駄文を書く暇もない一週間でした。と先に云い訳を書いてから今日の本題(^^;

 昨日の神奈川新聞によると、傾いた元大銀杏をまっすぐにする作業も無事に終えて、再生を願う神事も行われたれたようであるがその記事によれば、参拝客の要望により大銀杏の再生とひこばえの芽吹きを祈る記帳所が設置され、初日にだけで約1,200人が記帳したとか。

 大銀杏の再生とひこばえの芽吹きを願い祈るのは良いとしても、なぜ記帳が必要なのか、郷秋<Gauche>にはちょっと理解できないぞ。願うならば、祈るならが自分の心の中ですればよいこと。それを記帳所で自分の名前を記す行為とはどういうことを意味するのだろう。私は願っています、祈っていますと誰かに伝える必要があるのだろうか。

 この記事を読んで郷秋<Gauche>は、時々墓地で見かける「名刺入」を思い出なんだろうな。例えばそう云う墓に参ったとき「私はいついつに墓参しましたよ」と名刺を入れる。そうするとしばらく後にご遺族から「先般は墓参いただきありがとうございました」と云う礼状が届くのだろうか。あるいは、「亡くなった主人がお世話した○○さんは年に3回も墓参に来られるのに、仲人までしてあげた△△さんは一度も来ていないのよ」みたいな話になるのだろうか。あぁ、郷秋<Gauche>はそう云うのは嫌だな。

 誰かの死を悼むのであろうと、病気快癒を祈るのであろうと、大銀杏の再生を願うのであろうと、自分の心の中ですればよいことで、「私は願っています」と名前を書く行為には、郷秋<Gauche>は違和感を覚える。祈った願ったりするのって、例えば遠藤周作が『深い河』の中で「玉ねぎ」と表現した何(者)かが見て知っているだけではダメなのか。誰かに知らせる必要があるのかと、しつこいようだが、郷秋<Gauche>は思うぞ。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、長閑な春の谷戸奥。
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