ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞのこれる 」
「百人一首」の81番目の歌です。情景がぱっと浮かんでくるような風流な歌ですよね。歌の意味は、「ほととぎすの鳴き声がしたのでそちらの方を見てみましたが、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月がはかなく輝いていました。」ということでしょうか。
ほととぎすは夏の訪れを告げる鳥、そして有明の月は明け方にはかなく輝く月…。つまり、この歌が詠まれたのは初夏の明け方ということになります。一瞬の間鳴いていたほととぎすと、はかない有明の月のコントラストが胸に迫ってきます。そして、明け方というと夜を一緒に過ごした恋人が別れる時刻、この歌からはそんな切なさも伝わってくるような気がします。
このような風流でありながら、ちょっと切ない歌を詠んだ後徳大寺左大臣、藤原実定という人はいったいどのような人だったのでしょうか?
彼は、先日UPした藤原多子の兄に当たる人です。それではまず、プロフィールから書いてみますね。
☆藤原実定(1139~1191)
父・藤原公能 母・藤原豪子 二人の嫡男として生まれました。姉には後白河天皇中宮の忻子、妹には近衛天皇皇后、後に二条天皇の後宮に入った多子、弟には大納言実家などがいます。
父の公能は、徳大寺家の祖となった左大臣実能の嫡男で、最終的には右大臣にまで出世した人物です。母の豪子は藤原俊忠の女でした。つまり、歌人として有名な俊成は実定のおじ、その息子定家はいとこに当たり、この親子とは親しい交流があったようです。実定の歌才は、母方の血を受け継いだものと思われます。
そんな両親の間に生まれた実定は官位の昇進もなかなか順調で、永治元年(1141)従五位下に叙され、左兵衛佐、左近衛権中将等を経て、保元元年(1156)、姉の忻子が後白河天皇の中宮に立てられたことから中宮権亮となり、その年のうちに従三位に叙されます。
長寛二年(1164)26歳の実定は権大納言に任じられます。ところが、翌年にはこれを辞して正二位に叙されています。『古今著聞集』には、同じ閑院流の藤原実長(1130~1182)に同官で位階を超えられたことに悔しがり、権大納言を辞すことによって実長より上の正二位をもらったと記述されています。つまり、官職を辞めてまで、実長より上位になろうとしたわけです。実定の、実長に対するライバル心のすさまじさがうかがえる話です。
実定が権大納言に還任するのは、それから12年後の治承元年(1177)三月のことでした。この間彼は復任運動を行っていたようですが、世は平家の全盛時代、福任はなかなか実現しませんでした。そのため彼は和歌に没頭していたようです。
さらに、同年十二月には左大将を兼ねます。この任左大将の人事に関して、『平家物語』二は、実定が平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したからだと描かれています。またこの頃、藤原兼実主催の歌合わせに出詠しています。このように、平家とも摂関家ともつかず離れずで要領よくつきあっていたようです。このあたりは、平家を倒そうと謀反を企てて流罪になり、その後殺された藤原成親と対照的と言えます。
こののち、寿永二年(1183)に内大臣、文治二年(1186)に右大臣と昇進し、文治五年(1189)には左大臣に任じられました。祖父の実能が「徳大寺左大臣」と呼ばれていたため、実定は「後徳大寺左大臣」と称しました。
しかし翌年、左大臣を辞し、建久二年(1191)六月二十日病により出家、法名を如円。同年閏十二月十六日薨去、五十三歳。源頼朝も、その死を深く嘆いたと伝えられています。家集に『林下集』があり、『千載』以下の勅撰集に七十三首入集しています。
こうして彼の生涯を見てみると、乱世を要領よく生き抜き、最終的には左大臣という朝廷の実力者にのし上がったと言えそうです。世捨て人のような生活をしていた妹の多子にとっては頼もしいお兄さんだったであろうことが想像されます。『平家物語』巻五『月見』の項では、新都福原から京に戻り、多子のもとを訪れた実定が、多子や女房たちと月見をしながら昔語りをする様子が描かれていますが、多子が兄の訪れを喜んでいる様子が伝わってきます。
ただ、よくわからないのは彼の性格や実像です。
彼については説話文学に様々な逸話が描かれていますが、どうも権力者にこびたり昇進運動に躍起になったりするといったあまり良くないイメージがあります。実際彼は、平清盛の盟友で、大富豪として知られた藤原邦綱の婿になろうとして清盛に制止され、世の中の失笑を買ったようです。でも、考えてみるとこの時代は激動の時代、古い秩序が壊れ、新しい芽が吹き出して来るという時代でした。そんな時代だからこそ、権力者にある程度こびることは必要なことだったかもしれません。
実は実定は、不遇なおじの俊成に皇太后宮大夫を譲るなどの優しい面もありました。また、和歌、今様、管絃など各種の文化に優れ、俊成・定家親子だけでなく、西行、源頼政、待宵の小侍従など階級を問わず、交際範囲も広かったようです。なかなか面倒見の良いところもあったのかもしれませんね。
ところで、実定が40歳を過ぎた頃になると、あれほどの栄華を極めた平家は没落し、源氏に追われて西海に滅び去っていきました。壇ノ浦で救われ、京に戻って落飾された建礼門院平ら徳子(高倉天皇中宮・安徳天皇母)を後白河院が大原に訪ねたのは文治二年(1186)の春のことでした。実定もその際、院に供奉して大原を訪れました。墨染めの衣姿の女院と対面し、実定も哀れに思ったのでしょうか。彼は庵室の柱に次のような歌を書きました。
いにしへは 月にたとへし 君なれど その光なき 深山辺の里
「昔はまるで月の光のように輝いていましたのに、今ではその面影もございません。こんな山里でこのようなお姿を拝見しようとは夢にも思いませんでした。」という意味でしょうか。世の移り変わりの早さを女院の姿と重ね合わせた歌とも言えそうです。
実定が「百人一首」にとられているほととぎすと有明の月の歌を詠んだのは、50歳頃のことなのだそうです。激動の時代を生き抜いてきた彼の人生を、はかないほととぎすの鳴き声と有明の月に重ね合わせたのでしょうか。彼は要領の良い政治家である前に、自然と文化を愛する風流人だったような気がします。
☆参考文献
『平安時代史事典』 角田文衞 監修 角川学芸出版
『平家物語を知る事典』 日下力 鈴木彰 出口久徳 東京堂出版
『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫
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「百人一首」の81番目の歌です。情景がぱっと浮かんでくるような風流な歌ですよね。歌の意味は、「ほととぎすの鳴き声がしたのでそちらの方を見てみましたが、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月がはかなく輝いていました。」ということでしょうか。
ほととぎすは夏の訪れを告げる鳥、そして有明の月は明け方にはかなく輝く月…。つまり、この歌が詠まれたのは初夏の明け方ということになります。一瞬の間鳴いていたほととぎすと、はかない有明の月のコントラストが胸に迫ってきます。そして、明け方というと夜を一緒に過ごした恋人が別れる時刻、この歌からはそんな切なさも伝わってくるような気がします。
このような風流でありながら、ちょっと切ない歌を詠んだ後徳大寺左大臣、藤原実定という人はいったいどのような人だったのでしょうか?
彼は、先日UPした藤原多子の兄に当たる人です。それではまず、プロフィールから書いてみますね。
☆藤原実定(1139~1191)
父・藤原公能 母・藤原豪子 二人の嫡男として生まれました。姉には後白河天皇中宮の忻子、妹には近衛天皇皇后、後に二条天皇の後宮に入った多子、弟には大納言実家などがいます。
父の公能は、徳大寺家の祖となった左大臣実能の嫡男で、最終的には右大臣にまで出世した人物です。母の豪子は藤原俊忠の女でした。つまり、歌人として有名な俊成は実定のおじ、その息子定家はいとこに当たり、この親子とは親しい交流があったようです。実定の歌才は、母方の血を受け継いだものと思われます。
そんな両親の間に生まれた実定は官位の昇進もなかなか順調で、永治元年(1141)従五位下に叙され、左兵衛佐、左近衛権中将等を経て、保元元年(1156)、姉の忻子が後白河天皇の中宮に立てられたことから中宮権亮となり、その年のうちに従三位に叙されます。
長寛二年(1164)26歳の実定は権大納言に任じられます。ところが、翌年にはこれを辞して正二位に叙されています。『古今著聞集』には、同じ閑院流の藤原実長(1130~1182)に同官で位階を超えられたことに悔しがり、権大納言を辞すことによって実長より上の正二位をもらったと記述されています。つまり、官職を辞めてまで、実長より上位になろうとしたわけです。実定の、実長に対するライバル心のすさまじさがうかがえる話です。
実定が権大納言に還任するのは、それから12年後の治承元年(1177)三月のことでした。この間彼は復任運動を行っていたようですが、世は平家の全盛時代、福任はなかなか実現しませんでした。そのため彼は和歌に没頭していたようです。
さらに、同年十二月には左大将を兼ねます。この任左大将の人事に関して、『平家物語』二は、実定が平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したからだと描かれています。またこの頃、藤原兼実主催の歌合わせに出詠しています。このように、平家とも摂関家ともつかず離れずで要領よくつきあっていたようです。このあたりは、平家を倒そうと謀反を企てて流罪になり、その後殺された藤原成親と対照的と言えます。
こののち、寿永二年(1183)に内大臣、文治二年(1186)に右大臣と昇進し、文治五年(1189)には左大臣に任じられました。祖父の実能が「徳大寺左大臣」と呼ばれていたため、実定は「後徳大寺左大臣」と称しました。
しかし翌年、左大臣を辞し、建久二年(1191)六月二十日病により出家、法名を如円。同年閏十二月十六日薨去、五十三歳。源頼朝も、その死を深く嘆いたと伝えられています。家集に『林下集』があり、『千載』以下の勅撰集に七十三首入集しています。
こうして彼の生涯を見てみると、乱世を要領よく生き抜き、最終的には左大臣という朝廷の実力者にのし上がったと言えそうです。世捨て人のような生活をしていた妹の多子にとっては頼もしいお兄さんだったであろうことが想像されます。『平家物語』巻五『月見』の項では、新都福原から京に戻り、多子のもとを訪れた実定が、多子や女房たちと月見をしながら昔語りをする様子が描かれていますが、多子が兄の訪れを喜んでいる様子が伝わってきます。
ただ、よくわからないのは彼の性格や実像です。
彼については説話文学に様々な逸話が描かれていますが、どうも権力者にこびたり昇進運動に躍起になったりするといったあまり良くないイメージがあります。実際彼は、平清盛の盟友で、大富豪として知られた藤原邦綱の婿になろうとして清盛に制止され、世の中の失笑を買ったようです。でも、考えてみるとこの時代は激動の時代、古い秩序が壊れ、新しい芽が吹き出して来るという時代でした。そんな時代だからこそ、権力者にある程度こびることは必要なことだったかもしれません。
実は実定は、不遇なおじの俊成に皇太后宮大夫を譲るなどの優しい面もありました。また、和歌、今様、管絃など各種の文化に優れ、俊成・定家親子だけでなく、西行、源頼政、待宵の小侍従など階級を問わず、交際範囲も広かったようです。なかなか面倒見の良いところもあったのかもしれませんね。
ところで、実定が40歳を過ぎた頃になると、あれほどの栄華を極めた平家は没落し、源氏に追われて西海に滅び去っていきました。壇ノ浦で救われ、京に戻って落飾された建礼門院平ら徳子(高倉天皇中宮・安徳天皇母)を後白河院が大原に訪ねたのは文治二年(1186)の春のことでした。実定もその際、院に供奉して大原を訪れました。墨染めの衣姿の女院と対面し、実定も哀れに思ったのでしょうか。彼は庵室の柱に次のような歌を書きました。
いにしへは 月にたとへし 君なれど その光なき 深山辺の里
「昔はまるで月の光のように輝いていましたのに、今ではその面影もございません。こんな山里でこのようなお姿を拝見しようとは夢にも思いませんでした。」という意味でしょうか。世の移り変わりの早さを女院の姿と重ね合わせた歌とも言えそうです。
実定が「百人一首」にとられているほととぎすと有明の月の歌を詠んだのは、50歳頃のことなのだそうです。激動の時代を生き抜いてきた彼の人生を、はかないほととぎすの鳴き声と有明の月に重ね合わせたのでしょうか。彼は要領の良い政治家である前に、自然と文化を愛する風流人だったような気がします。
☆参考文献
『平安時代史事典』 角田文衞 監修 角川学芸出版
『平家物語を知る事典』 日下力 鈴木彰 出口久徳 東京堂出版
『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫
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