平安夢柔話

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第75代 崇徳天皇

2009-06-02 16:26:40 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1119~1164
☆在位期間 1123~1141

☆両親
 父・鳥羽天皇 母・藤原璋子(藤原公実女)
*崇徳天皇は白河天皇の皇子であるという説もありますが、ここでは通説通り鳥羽天皇の皇子として話を進めさせていただきます。

☆略歴

 名は顕仁。鳥羽天皇の第一皇子。

 元永二年(1119)五月二十八日、三条西殿において誕生。保安四年(1123)正月、5歳で皇太子に立てられ、翌月即位しました。顕仁親王は白河上皇に大変かわいがられ、5歳での即位にも上皇の意志が強く動いていたと言われます。

 しかし大治四年(1129)、白河上皇が崩御し、鳥羽上皇による院政が始まると、崇徳天皇の運命は一変します。鳥羽上皇は次第に崇徳天皇の母である待賢門院璋子を遠ざけ、藤原得子(のちの美福門院)を寵愛するようになります。得子は保延五年(1139)に躰仁親王を生みました。
 するとたちまち鳥羽上皇は躰仁を皇太子に立て、、その2年後に崇徳を退位させ、躰仁親王を即位させます(近衛天皇)。こうして崇徳は、権力のない上皇となってしまったのでした。実は崇徳は白河上皇の子であるという噂があり、鳥羽上皇も、「あれは叔父子だ。」(白河上皇は鳥羽上皇の祖父なので、祖父の子、つまり叔父だということでしょうか)と言っていたようです。つまり、鳥羽と崇徳の間には埋めることのできない確執があったようなのですよね。

 しかし、崇徳上皇は、我が子の重仁親王の即位を信じて待ち続けました。そして久寿二年(1155)、近衛天皇が17歳の若さで崩御したとき、「ついに願いがかなう」と期待を膨らませたに違いありません。しかし、即位したのは弟の雅仁親王(後白河天皇)でした。そしてその皇太子には雅仁の子、守仁が立てられます。こうして崇徳の望みは絶たれてしまったのでした。

 それでも、「鳥羽上皇が崩御すれば何とかなる」と崇徳上皇は思ったのでしょうか。翌保元元年(1156)七月、かねてから重病だった鳥羽上皇が崩御すると、摂関家内で不遇な立場にあった藤原頼長と手を結び挙兵しようとしますが、藤原忠通・後白河天皇方の兵の思わぬ奇襲攻撃にあって敗北します(保元の乱)。頼長は逃亡中に討ち死にし、崇徳は讃岐の白峯に配流されてしまいます。そして8年後の長寛二年(1164)八月二十六日、京に帰ることなく流刑地でその波瀾の生涯を閉じました。

 崇徳上皇の崩御後、世の中では悪天候や飢饉など凶事が続き、「これは上皇の怨霊である」と恐れられます。そこで、治承元年(1177)、朝廷は「讃岐院」の称号を改めて「崇徳院」の諡号を贈りました。更に粟田宮を建立し、その霊を慰めました。

 崇徳上皇は和歌にすぐれていたことでも知られます。『詞花』以下の勅撰集にも80首近く入集し、「瀬を早み 岩に堰かるゝ 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」は「百人一首」にも採られていて有名です。

       (参考)「平安時代史事典」


☆父方の親族

祖父・堀河天皇 祖母・藤原苡子(藤原実季女)

主なおじ
 寛暁 最雲法親王

主なおば
 宗子内親王(賀茂斎院 「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) 喜子内親王(伊勢斎宮) 


☆母方の親族

祖父・藤原公実 祖母・藤原光子(藤原隆方女)

おじ
 藤原実隆 藤原実行 藤原通季 藤原実能 藤原季成

おば
 女子(源有仁室) 女子(藤原経実室)

主ないとこ
 藤原公教(父は藤原実行)
 藤原公通(父は藤原通季)
 藤原公能・藤原幸子(藤原頼長室)・藤原育子(二条天皇中宮) (以上、父は藤原実能)
 藤原成子(高倉三位 以仁王・式子内親王などの母 父は藤原季成)
 藤原懿子(二条天皇母)・藤原経宗(以上、母は藤原経実室)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○雅仁親王(後白河天皇) ○通仁親王 ○君仁親王 ○本仁親王(覚性法親王) *近衛天皇

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○統子内親王(上西門院) ○禧子内親王 *子内親王(八条院) *(女朱)子内親王(高松院) *叡子内親王 *妍子内親王(伊勢斎宮) *頌子内親王(賀茂斎院)

主なおいとめい

 守仁親王(二条天皇) 憲仁親王(高倉天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王 観子内親王(宣陽門院) 以上 父は後白河天皇
 海恵(母は(女朱)子内親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原聖子(藤原忠通女 皇嘉門院)

 兵衛佐(法勝寺執行信縁女) → 重仁親王


☆末裔たち

 崇徳天皇のあとは、異母弟の近衛天皇、続いて同母弟の後白河天皇が即位し、結局皇位は後白河の子孫たちに受け継がれることとなりました。そのため、崇徳天皇の系統は皇位につくことはできませんでした。

 そこで、ここでは崇徳天皇が即位を熱望していた重仁親王について、簡単に述べたいと思います。

・重仁親王(1140~1162)
 崇徳天皇の第一皇子。母は法勝寺執行信縁女、兵衛佐。
 兵衛佐は中宮、藤原聖子の女房でしたが、天皇の寵愛を受けて重仁親王を生みました。重仁はその後、藤原得子(美福門院)に引き取られて成長します。
 永治元年(1141)に親王宣下され、久安六年(1150)に元服、三品に叙されます。
 久寿二年(1155)、近衛天皇が崩御すると、父の崇徳天皇に帝位を期待されますが、雅仁親王の即位(後白河天皇)によってその望みを絶たれます。

 翌年、保元の乱が起こると、女房車で仁和寺に逃れようとして捕らえられます。のち、仁和寺に入って出家、応保二年(1162)正月二十八日に薨去しました。何か、父崇徳の悲運を背負い込んでしまったような、短くて気の毒な生涯のように思えます。


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