☆生没年 850~880
☆在位期間 858~876
☆両親
ちち・文徳天皇 母・藤原明子(藤原良房女)
☆略歴
名は惟仁。文徳天皇の第四皇子。
嘉承三年(850)、三月誕生。同年十一月、皇太子に立てられる。文徳天皇は第一皇子惟喬親王の立太子を望んでいたが、惟仁の外祖父である藤原良房に遠慮し、惟仁を皇太子に立てたと言われています。
天安二年(858)、文徳天皇の崩御により九歳で即位。幼少の天皇に替わり、外祖父良房が政治を執り行った。
貞観八年(866)、春に良房の染殿第にて盛大な観桜の饗宴が催される。天皇は釣殿から魚釣りを、東門からは農夫の耕田光景を観覧し、終日楽しんだ。
この十日後、応天門炎上事件が起き、大納言伴善男が犯人として捕らえられ、伊豆国に流罪となる。この事件の後、良房は正式に摂政となるが、これが初の人臣摂政であり、藤原氏の摂関独占の基礎を作った。
元慶元年(876)、二七歳で突如退位、太上天皇となる。
元慶三年(879)、出家。法諱は素真。山中にて厳しい仏道修行を行った。翌年の十二月四日に粟田山荘の円覚寺にて三十一歳で崩御。御陵は京都市右京区嵯峨の水尾山陵。
清和天皇の後宮には、二十数人の后妃がおり、多くの皇子皇女が生まれました。これは天皇を後宮に引きつけることによって政治から遠ざけようという、良房の政策であったとも言われています。
そのため鬱屈した思いがあったのでしょうか。晩年は仏道一筋に生きたようです。少しでも心が救われていたことを願いたいです。
☆父方の親族
祖父・仁明天皇 祖母・藤原順子(藤原冬嗣女)
主なおじ
時康親王(光孝天皇) 宗康親王 人康親王 本康親王
常康親王 源多 源光
主なおば
久子内親王(伊勢斎王) 時子内親王(賀茂斎王) 新子内親王
主ないとこ
是忠親王 是貞親王 源定省(後の宇多天皇) 源国紀 為子内親王(醍醐天皇妃) 綏子内親王(陽成天皇妃) 源和子(醍醐天皇女御) 源済子(清和天皇女御) 繁子内親王(伊勢斎王) *以上、父は光孝天皇
操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 *以上、父は人康親王
元子女王(伊勢斎王 *父は本康親王)
☆母方の親族
祖父・藤原良房 祖母・源潔姫(嵯峨天皇皇女)
☆兄弟姉妹と甥、姪
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*惟喬親王 *惟条親王 *惟彦親王 *源能有
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
*恬子内親王(伊勢斎王) *掲子内親王(伊勢斎王) *晏子内親王(伊勢斎王)
主な甥と姪
源厳子(清和天皇女御) 源昭子(藤原忠平室) 女子(貞純親王妃 )*以上 父は源能有
直子女王(賀茂斎院) *父は惟彦親王
☆主な后妃と皇子・皇女
・藤原高子(藤原長良女) → 貞明親王(陽成天皇) 貞輔親王 敦子内親王
・藤原佳珠子(藤原基経女) → 貞辰親王
藤原多美子(藤原良相女)
嘉子女王
兼ね子女王
源 厳子(源 能有女)
源 貞子
源 済子(光孝天皇皇女)
平 寛子
在原文子(在原行平女 → 貞数親王 包子内親王
藤原良近女 → 貞平親王 識子内親王(伊勢斎王)
藤原諸藤女 → 貞真親王
藤原真宗女 → 貞頼親王
佐伯子房女 → 源 長鑒 源 長頼
橘 休蔭女 → 貞固親王
藤原仲統女 → 貞元親王
棟貞王女 → 貞純親王
☆末裔たち
清和天皇が退位したあとは、藤原高子との間にもうけた貞明親王が即位します。これが陽成天皇です。
しかし陽成天皇は、良房のあとを嗣いだ基経と対立することが多く、十七歳で退位させられてしまいます。そのあとを嗣いだのは清和天皇の叔父に当たる光孝天皇です。なので清和天皇の子孫はその後、皇位につくことはありませんでした。
清和源氏貞純親王流
清和天皇が棟貞王女との間にもうけた貞純親王は、源能有女との間に経基王をもうけました。この経基が臣籍降下して「源経基」と名乗ることとなります。経基は諸国の国司を歴任し、平将門の乱や藤原純友の乱の鎮定に当たったりもしました。
経基の子が満仲で、彼は摂関家に使え、武蔵、摂津、越後などの受領を歴任、摂津の多田盆地に所領を持ち、武士団を経営しました。
満仲の子が、頼光、頼親、、頼信です。
・頼光
摂津源氏の祖。大江山の酒呑童子退治で有名。藤原道長に仕えた。彼の子孫には源平時代に活躍した源頼政、源行綱などがいる。*当ブログ内の「こちら」と「こちら」の記事参照。
・頼親
大和守となり、大和国で勢力を拡大、大和源氏の祖となった。
・頼信
河内源氏の祖。平忠常の乱を平定したことで有名。
頼信の子が頼義で、その後、この系統は義家→義親→為義→義朝→頼朝へと続く。また、室町幕府を開くことになる足利氏や、新田氏、武田氏もこの系統。つまり頼信の子孫は日本史上に大きな足跡を残したことになります。
(以上、参考・歴史読本2012年5月号 新人物往来社発行)
*なお、経基は陽成天皇の孫であるという説もあります。詳しくは陽成天皇の系譜のページで記述する予定です。
清和源氏貞元親王流
清和天皇が藤原仲統女との間にもうけた貞元親王には、源氏姓を賜った兼忠、兼信などの子供たちがいました。
兼信は陸奥守となり、任期が終わったのち土着したと言われています。この兼信の子が「百人一首」48番目の歌の作者、源重之です。
重之は、兼信の兄で参議となっていた兼忠の養子とされ、冷泉天皇に仕えたのち、左馬介や相模権守などを歴任、その後、陸奥守となった藤原実方に同行したりなど、東北から九州まで全国を巡りました。三十六歌仙の一人でもあります。
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☆在位期間 858~876
☆両親
ちち・文徳天皇 母・藤原明子(藤原良房女)
☆略歴
名は惟仁。文徳天皇の第四皇子。
嘉承三年(850)、三月誕生。同年十一月、皇太子に立てられる。文徳天皇は第一皇子惟喬親王の立太子を望んでいたが、惟仁の外祖父である藤原良房に遠慮し、惟仁を皇太子に立てたと言われています。
天安二年(858)、文徳天皇の崩御により九歳で即位。幼少の天皇に替わり、外祖父良房が政治を執り行った。
貞観八年(866)、春に良房の染殿第にて盛大な観桜の饗宴が催される。天皇は釣殿から魚釣りを、東門からは農夫の耕田光景を観覧し、終日楽しんだ。
この十日後、応天門炎上事件が起き、大納言伴善男が犯人として捕らえられ、伊豆国に流罪となる。この事件の後、良房は正式に摂政となるが、これが初の人臣摂政であり、藤原氏の摂関独占の基礎を作った。
元慶元年(876)、二七歳で突如退位、太上天皇となる。
元慶三年(879)、出家。法諱は素真。山中にて厳しい仏道修行を行った。翌年の十二月四日に粟田山荘の円覚寺にて三十一歳で崩御。御陵は京都市右京区嵯峨の水尾山陵。
清和天皇の後宮には、二十数人の后妃がおり、多くの皇子皇女が生まれました。これは天皇を後宮に引きつけることによって政治から遠ざけようという、良房の政策であったとも言われています。
そのため鬱屈した思いがあったのでしょうか。晩年は仏道一筋に生きたようです。少しでも心が救われていたことを願いたいです。
☆父方の親族
祖父・仁明天皇 祖母・藤原順子(藤原冬嗣女)
主なおじ
時康親王(光孝天皇) 宗康親王 人康親王 本康親王
常康親王 源多 源光
主なおば
久子内親王(伊勢斎王) 時子内親王(賀茂斎王) 新子内親王
主ないとこ
是忠親王 是貞親王 源定省(後の宇多天皇) 源国紀 為子内親王(醍醐天皇妃) 綏子内親王(陽成天皇妃) 源和子(醍醐天皇女御) 源済子(清和天皇女御) 繁子内親王(伊勢斎王) *以上、父は光孝天皇
操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 *以上、父は人康親王
元子女王(伊勢斎王 *父は本康親王)
☆母方の親族
祖父・藤原良房 祖母・源潔姫(嵯峨天皇皇女)
☆兄弟姉妹と甥、姪
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*惟喬親王 *惟条親王 *惟彦親王 *源能有
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
*恬子内親王(伊勢斎王) *掲子内親王(伊勢斎王) *晏子内親王(伊勢斎王)
主な甥と姪
源厳子(清和天皇女御) 源昭子(藤原忠平室) 女子(貞純親王妃 )*以上 父は源能有
直子女王(賀茂斎院) *父は惟彦親王
☆主な后妃と皇子・皇女
・藤原高子(藤原長良女) → 貞明親王(陽成天皇) 貞輔親王 敦子内親王
・藤原佳珠子(藤原基経女) → 貞辰親王
藤原多美子(藤原良相女)
嘉子女王
兼ね子女王
源 厳子(源 能有女)
源 貞子
源 済子(光孝天皇皇女)
平 寛子
在原文子(在原行平女 → 貞数親王 包子内親王
藤原良近女 → 貞平親王 識子内親王(伊勢斎王)
藤原諸藤女 → 貞真親王
藤原真宗女 → 貞頼親王
佐伯子房女 → 源 長鑒 源 長頼
橘 休蔭女 → 貞固親王
藤原仲統女 → 貞元親王
棟貞王女 → 貞純親王
☆末裔たち
清和天皇が退位したあとは、藤原高子との間にもうけた貞明親王が即位します。これが陽成天皇です。
しかし陽成天皇は、良房のあとを嗣いだ基経と対立することが多く、十七歳で退位させられてしまいます。そのあとを嗣いだのは清和天皇の叔父に当たる光孝天皇です。なので清和天皇の子孫はその後、皇位につくことはありませんでした。
清和源氏貞純親王流
清和天皇が棟貞王女との間にもうけた貞純親王は、源能有女との間に経基王をもうけました。この経基が臣籍降下して「源経基」と名乗ることとなります。経基は諸国の国司を歴任し、平将門の乱や藤原純友の乱の鎮定に当たったりもしました。
経基の子が満仲で、彼は摂関家に使え、武蔵、摂津、越後などの受領を歴任、摂津の多田盆地に所領を持ち、武士団を経営しました。
満仲の子が、頼光、頼親、、頼信です。
・頼光
摂津源氏の祖。大江山の酒呑童子退治で有名。藤原道長に仕えた。彼の子孫には源平時代に活躍した源頼政、源行綱などがいる。*当ブログ内の「こちら」と「こちら」の記事参照。
・頼親
大和守となり、大和国で勢力を拡大、大和源氏の祖となった。
・頼信
河内源氏の祖。平忠常の乱を平定したことで有名。
頼信の子が頼義で、その後、この系統は義家→義親→為義→義朝→頼朝へと続く。また、室町幕府を開くことになる足利氏や、新田氏、武田氏もこの系統。つまり頼信の子孫は日本史上に大きな足跡を残したことになります。
(以上、参考・歴史読本2012年5月号 新人物往来社発行)
*なお、経基は陽成天皇の孫であるという説もあります。詳しくは陽成天皇の系譜のページで記述する予定です。
清和源氏貞元親王流
清和天皇が藤原仲統女との間にもうけた貞元親王には、源氏姓を賜った兼忠、兼信などの子供たちがいました。
兼信は陸奥守となり、任期が終わったのち土着したと言われています。この兼信の子が「百人一首」48番目の歌の作者、源重之です。
重之は、兼信の兄で参議となっていた兼忠の養子とされ、冷泉天皇に仕えたのち、左馬介や相模権守などを歴任、その後、陸奥守となった藤原実方に同行したりなど、東北から九州まで全国を巡りました。三十六歌仙の一人でもあります。
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