平安時代の女性というと、やはり紫式部、清少納言、和泉式部などの女流文学者たちが有名だと思います。しかし、たとえ知名度はなくても彼女たちに負けないくらい、劇的な
生涯を送った女性がたくさんいます。
今から紹介する(女専)子(せんし)女王もそんな劇的な生涯を送った女性の一人だと思います。
とは言うものの、私は彼女について2年ほど前まではほとんど知りませんでした。しかし彼女は斎宮だった時に有名な事件を起こし、斎宮退下後にもまた、思いがけない人生が待っていたのでした。そのことを知り、私は彼女に大変興味を持ちました。
では、彼女の生涯について、書かせていただきたいと思います。
☆(女専)子女王(1005~1081)
父は村上天皇の皇子具平親王 母は為平親王の女。同母の姉に藤原頼通室の隆姫女王、一条天皇と藤原定子の間に生まれた敦康親王の室となった女性、弟には村上源氏の祖となった源師房がいます。また、異母兄弟には紫式部のいとこ藤原伊祐の養子になった藤原頼成がいます。
寛弘六年(1009)、(女専)子5歳の時、父の具平親王が世を去ります。具平親王は漢詩、管絃、学問などに造詣が深く、人柄も大変優れた人物でした。幼くして父を失ったことは彼女にとっては大きな不幸だったと思われます。
長和五年(1016)、三条天皇が退位し、故一条天皇と藤原彰子との間に生まれた敦成親王が後一条天皇として踐祚します。
そして当時、御世代わりとともに卜定されるのが伊勢の斎宮でした。斎宮というのは、天皇に代わって伊勢神宮の神に奉仕する未婚の内親王または女王のことで、奉仕する期間は原則として天皇の御世一代の間…ということになっていました。
そして後一条天皇御代の斎宮に、(女専)子女王が選ばれたのでした。(女専)子女王は、斎宮に卜定されてから1年余りを初斎院で過ごし、その後1年を野宮にて潔斎を受け、寛仁二年(1018)秋に伊勢に出発することとなります。
十代の半ばという多感な年頃であった(女専)子女王はどのような気持ちで伊勢に下っていったのでしょうか。今度京に戻ってくるのは後一条天皇が退位または崩御したとき、あるいは(女専)子女王の近親者の不幸によって喪に服すときのどちらかです。彼女が親しい人たちと引き離されて伊勢に赴かなければならないことを哀しんでいたのか、それとも未知の土地に行くことで心躍らせていたのか、彼女の心中は今となっては想像するしかありません。しかし、彼女が後年、起こすことになる事件のことを考えると、やはり不安な気持ちの方が強かったかもしれません。
万寿二年(1025)の秋、彼女は女性の成人式である裳着を執り行います。20歳を過ぎてからの裳着はちょっと遅いような気がしますが、やはり斎宮という特別な立場であったことから裳着の時期も遅れてしまったのでしょうか。
その裳着の儀式の勅使として京からやってきたのが源資通(宇多源氏)という人でした。彼は「更級日記」の中で作者菅原孝標女と春秋の歌を取り交わしている公達であろうと推定される人物でもあります。「更級日記」には、資通と推定される公達が孝標女に向かって、万寿二年に斎宮の御裳着の勅使として伊勢に下った(このことが、この公達が源資通であろうと推定される根拠になっているようです。)ことを語る場面もあります。
いずれにしても(女専)子女王にとって、京からの勅使を招いての自分の裳着は、人生のビッグイベントだったと思われます。
さて、斎宮に卜定されて十余年、いつ終わるともしれない神に仕える日々を、彼女はどのような思いで送っていたのでしょう。天皇に代わって神に奉仕することに誇りを感じていながらも、彼女は悶々とした日々を送っていたのではないでしょうか。そしてその彼女の悶々とした気持ちが爆発する日がやってきます。
長元四年(1031)六月十七日、暴風雨の伊勢神宮にて、(女専)子女王は突然神がかってしまったのでした。
彼女が絶叫を始めたのは、太玉櫛を神宮に捧げるという大切な儀式の直前でした。「我は神宮別宮の荒祭宮である。」と叫び、斎宮寮の頭である藤原相通とその妻が勝手にのりとを作り、内宮外宮の御座所と称して連日連夜神楽を行い、狂乱している事などの不正を糾弾したのでした。
またその当時、「天皇家は百代で滅びる。」という思想がありました。長元四年当時、天皇家はすでに六十数代を数えていました。なので(女専)子女王は「天皇家は下り坂じゃ!」とも言ったとか…。
その後(女専)子女王は、「歴代の斎宮には罪がない。特に我は優れた斎宮である!」と叫んで浴びるほど酒を飲み、祭主大中臣輔親(百人一首61番の歌の作者伊勢大輔の父)と歌の贈答までやってのけたのだそうです。
とにかく彼女は心神喪失状態でしたので、周りの人たちもどうすることもできず、ただ呆気にとられてながめているだけ……という感じだったのだと思います。
この事件のことは早々に、使いによって京の朝廷に知らされたものと思われます。「斎宮が神がかりをして託宣を行うなど前代未聞…」と、京の朝廷ではかなりの騒ぎになったようです。
そこで関白藤原頼通は公卿を集めてこの事件に対する詮議を行いました。その結果、藤原相通とその妻は供に流罪と決定されます。しかし(女専)子女王には何のおとがめもありませんでした。
この事件は、その後の斎宮制度に少なからず影響を与えました。まず、斎宮の役所である斎宮寮の権力が衰退します。その代わり斎宮本人が重視されるようになったようです。また、平安中期の斎宮は、三条天皇皇女の当子内親王などの例外はあるものの、天皇の二世、三世の「女王」が多く、斎宮制度も衰退の一途をたどっていたのですが、その後は内親王が卜定されることが多くなり(次の後朱雀天皇御代の斎宮は、後朱雀天皇皇女良子内親王)、斎宮制度も復活をとげることとなります。やはり女王よりも内親王の方が権威は上…ということでしょうか。
話を(女専)子女王に戻します。
(女専)子女王にとっては、斎宮という神に仕える自分の立場を誇らしく思いながら、同時に自分がただの飾り物にすぎないことが辛くてたまらなかったのかもしれません。そこで斎宮寮の頭である藤原相通の不正を糾弾し、自分の立場を主張したのでしょう。しかし、鬱屈したその気持ちを「神がかり」「託宣」という形でしか主張できなかった彼女の心中を考えると痛ましく思えます。
(女専)子女王はその後5年間、何もなかったように斎宮として伊勢で過ごし、長元九年(1036)の後一条天皇崩御と供に斎宮の任を解かれて帰京します。彼女はすでに32歳になっていました。
彼女が帰京後しばらく、どこに住んでいたかについては不明です。そして普通なら彼女も、斎宮を退下した多くの内親王や女王のように独身を通し、忘れられた存在になっていったかもしれません。しかし、最初の方で触れたように、彼女には思いがけない後半生が待っていたのでした。
斎宮を退下して15年ほど経った永承六年(1051)頃、(女専)子女王が結婚……。その相手は関白頼通の同母弟、つまり藤原教通その人でした。
教通は(女専)子女王と結婚する前に二人の正室を迎えていましたが、不幸にも次々と先立たれていたのでした。そこで(女専)子女王が3人目の正室として教通と結婚したわけです。
では、どうして(女専)子女王が教通と結ばれることになったのでしょうか?
実は具平親王の子供達は教通の兄頼通と深い縁で結ばれていました。長女隆姫女王は頼通の正室ですし、次女であるその妹と敦康親王との間に産まれた女児は頼通の養子となり、「藤原(女原)子」と名乗って後朱雀天皇の許に入内することとなります。また、嫡男の源師房も頼通の養子となり、一時はその後継者と見なされていたこともありました。
上の方で私は、「斎宮退下後の(女専)子女王がどこに住んでいたかは不明」と書きましたが、以上述べてきたようなことから斎宮退下後の(女専)子女王も、頼通の庇護の許に置かれていたと考えられるような気がします。そして、頼通・隆姫女王夫婦のお声がかりで教通と結ばれたのではないでしょうか。
教通は後年、頼通の後を受けて関白となった人物ですから、(女専)子女王は最後には関白夫人となったわけです。 彼女が幸せであったかどうかは史料が残っていないので推察するしかありませんが、教通が亡くなったときに彼女が大変悲しんだ……という話も伝わっているようです。なので二人は仲の良い夫婦で、幸せな日々を送っていたのではないかと……、そうあって欲しいと、私は思っています。
幼い頃に斎宮に卜定されて伊勢に下り、悶々とした日々の中で斎宮託宣事件を起こし、斎宮退下後に結婚して関白夫人に。なかなかドラマティックな人生を送った(女専)子女王。彼女がどんな女性だったかは想像するしかありませんが、自分の考えや意志をしっかり持った、なかなか頼もしい女性だったように思えます。
(付記1)ちょっと余談
(女専)子女王が神がかりして託宣を行った長元四年六月十七日の伊勢神宮は、本文でもちょっと触れましたが暴風雨が吹き荒れていたそうです。この長元四年六月十七日を現在の暦であるグレゴリオ暦に返還すると、1031年7月15日になるそうです。と言うことは台風が来ても不思議ではない季節ですよね。なのでこの日の伊勢は、台風の影響で暴風雨が吹き荒れていたのでは…と、ちょっと妄想してしまいました。
(付記2)斎宮について
天皇に代わって賀茂神社あるいは伊勢神宮の神に奉仕する内親王または女王については正式には「斎王」と呼ばれていました。しかし、この二つを区別するために便宜上、賀茂神社に奉仕する内親王または女王を「斎院」、伊勢神宮に奉仕する内親王または女王を「斎宮」と呼んでいたようです。そこで、この文章では「斎宮」で通させていただきました。
☆参考文献
「伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち」 榎村寛之著 塙書房
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生涯を送った女性がたくさんいます。
今から紹介する(女専)子(せんし)女王もそんな劇的な生涯を送った女性の一人だと思います。
とは言うものの、私は彼女について2年ほど前まではほとんど知りませんでした。しかし彼女は斎宮だった時に有名な事件を起こし、斎宮退下後にもまた、思いがけない人生が待っていたのでした。そのことを知り、私は彼女に大変興味を持ちました。
では、彼女の生涯について、書かせていただきたいと思います。
☆(女専)子女王(1005~1081)
父は村上天皇の皇子具平親王 母は為平親王の女。同母の姉に藤原頼通室の隆姫女王、一条天皇と藤原定子の間に生まれた敦康親王の室となった女性、弟には村上源氏の祖となった源師房がいます。また、異母兄弟には紫式部のいとこ藤原伊祐の養子になった藤原頼成がいます。
寛弘六年(1009)、(女専)子5歳の時、父の具平親王が世を去ります。具平親王は漢詩、管絃、学問などに造詣が深く、人柄も大変優れた人物でした。幼くして父を失ったことは彼女にとっては大きな不幸だったと思われます。
長和五年(1016)、三条天皇が退位し、故一条天皇と藤原彰子との間に生まれた敦成親王が後一条天皇として踐祚します。
そして当時、御世代わりとともに卜定されるのが伊勢の斎宮でした。斎宮というのは、天皇に代わって伊勢神宮の神に奉仕する未婚の内親王または女王のことで、奉仕する期間は原則として天皇の御世一代の間…ということになっていました。
そして後一条天皇御代の斎宮に、(女専)子女王が選ばれたのでした。(女専)子女王は、斎宮に卜定されてから1年余りを初斎院で過ごし、その後1年を野宮にて潔斎を受け、寛仁二年(1018)秋に伊勢に出発することとなります。
十代の半ばという多感な年頃であった(女専)子女王はどのような気持ちで伊勢に下っていったのでしょうか。今度京に戻ってくるのは後一条天皇が退位または崩御したとき、あるいは(女専)子女王の近親者の不幸によって喪に服すときのどちらかです。彼女が親しい人たちと引き離されて伊勢に赴かなければならないことを哀しんでいたのか、それとも未知の土地に行くことで心躍らせていたのか、彼女の心中は今となっては想像するしかありません。しかし、彼女が後年、起こすことになる事件のことを考えると、やはり不安な気持ちの方が強かったかもしれません。
万寿二年(1025)の秋、彼女は女性の成人式である裳着を執り行います。20歳を過ぎてからの裳着はちょっと遅いような気がしますが、やはり斎宮という特別な立場であったことから裳着の時期も遅れてしまったのでしょうか。
その裳着の儀式の勅使として京からやってきたのが源資通(宇多源氏)という人でした。彼は「更級日記」の中で作者菅原孝標女と春秋の歌を取り交わしている公達であろうと推定される人物でもあります。「更級日記」には、資通と推定される公達が孝標女に向かって、万寿二年に斎宮の御裳着の勅使として伊勢に下った(このことが、この公達が源資通であろうと推定される根拠になっているようです。)ことを語る場面もあります。
いずれにしても(女専)子女王にとって、京からの勅使を招いての自分の裳着は、人生のビッグイベントだったと思われます。
さて、斎宮に卜定されて十余年、いつ終わるともしれない神に仕える日々を、彼女はどのような思いで送っていたのでしょう。天皇に代わって神に奉仕することに誇りを感じていながらも、彼女は悶々とした日々を送っていたのではないでしょうか。そしてその彼女の悶々とした気持ちが爆発する日がやってきます。
長元四年(1031)六月十七日、暴風雨の伊勢神宮にて、(女専)子女王は突然神がかってしまったのでした。
彼女が絶叫を始めたのは、太玉櫛を神宮に捧げるという大切な儀式の直前でした。「我は神宮別宮の荒祭宮である。」と叫び、斎宮寮の頭である藤原相通とその妻が勝手にのりとを作り、内宮外宮の御座所と称して連日連夜神楽を行い、狂乱している事などの不正を糾弾したのでした。
またその当時、「天皇家は百代で滅びる。」という思想がありました。長元四年当時、天皇家はすでに六十数代を数えていました。なので(女専)子女王は「天皇家は下り坂じゃ!」とも言ったとか…。
その後(女専)子女王は、「歴代の斎宮には罪がない。特に我は優れた斎宮である!」と叫んで浴びるほど酒を飲み、祭主大中臣輔親(百人一首61番の歌の作者伊勢大輔の父)と歌の贈答までやってのけたのだそうです。
とにかく彼女は心神喪失状態でしたので、周りの人たちもどうすることもできず、ただ呆気にとられてながめているだけ……という感じだったのだと思います。
この事件のことは早々に、使いによって京の朝廷に知らされたものと思われます。「斎宮が神がかりをして託宣を行うなど前代未聞…」と、京の朝廷ではかなりの騒ぎになったようです。
そこで関白藤原頼通は公卿を集めてこの事件に対する詮議を行いました。その結果、藤原相通とその妻は供に流罪と決定されます。しかし(女専)子女王には何のおとがめもありませんでした。
この事件は、その後の斎宮制度に少なからず影響を与えました。まず、斎宮の役所である斎宮寮の権力が衰退します。その代わり斎宮本人が重視されるようになったようです。また、平安中期の斎宮は、三条天皇皇女の当子内親王などの例外はあるものの、天皇の二世、三世の「女王」が多く、斎宮制度も衰退の一途をたどっていたのですが、その後は内親王が卜定されることが多くなり(次の後朱雀天皇御代の斎宮は、後朱雀天皇皇女良子内親王)、斎宮制度も復活をとげることとなります。やはり女王よりも内親王の方が権威は上…ということでしょうか。
話を(女専)子女王に戻します。
(女専)子女王にとっては、斎宮という神に仕える自分の立場を誇らしく思いながら、同時に自分がただの飾り物にすぎないことが辛くてたまらなかったのかもしれません。そこで斎宮寮の頭である藤原相通の不正を糾弾し、自分の立場を主張したのでしょう。しかし、鬱屈したその気持ちを「神がかり」「託宣」という形でしか主張できなかった彼女の心中を考えると痛ましく思えます。
(女専)子女王はその後5年間、何もなかったように斎宮として伊勢で過ごし、長元九年(1036)の後一条天皇崩御と供に斎宮の任を解かれて帰京します。彼女はすでに32歳になっていました。
彼女が帰京後しばらく、どこに住んでいたかについては不明です。そして普通なら彼女も、斎宮を退下した多くの内親王や女王のように独身を通し、忘れられた存在になっていったかもしれません。しかし、最初の方で触れたように、彼女には思いがけない後半生が待っていたのでした。
斎宮を退下して15年ほど経った永承六年(1051)頃、(女専)子女王が結婚……。その相手は関白頼通の同母弟、つまり藤原教通その人でした。
教通は(女専)子女王と結婚する前に二人の正室を迎えていましたが、不幸にも次々と先立たれていたのでした。そこで(女専)子女王が3人目の正室として教通と結婚したわけです。
では、どうして(女専)子女王が教通と結ばれることになったのでしょうか?
実は具平親王の子供達は教通の兄頼通と深い縁で結ばれていました。長女隆姫女王は頼通の正室ですし、次女であるその妹と敦康親王との間に産まれた女児は頼通の養子となり、「藤原(女原)子」と名乗って後朱雀天皇の許に入内することとなります。また、嫡男の源師房も頼通の養子となり、一時はその後継者と見なされていたこともありました。
上の方で私は、「斎宮退下後の(女専)子女王がどこに住んでいたかは不明」と書きましたが、以上述べてきたようなことから斎宮退下後の(女専)子女王も、頼通の庇護の許に置かれていたと考えられるような気がします。そして、頼通・隆姫女王夫婦のお声がかりで教通と結ばれたのではないでしょうか。
教通は後年、頼通の後を受けて関白となった人物ですから、(女専)子女王は最後には関白夫人となったわけです。 彼女が幸せであったかどうかは史料が残っていないので推察するしかありませんが、教通が亡くなったときに彼女が大変悲しんだ……という話も伝わっているようです。なので二人は仲の良い夫婦で、幸せな日々を送っていたのではないかと……、そうあって欲しいと、私は思っています。
幼い頃に斎宮に卜定されて伊勢に下り、悶々とした日々の中で斎宮託宣事件を起こし、斎宮退下後に結婚して関白夫人に。なかなかドラマティックな人生を送った(女専)子女王。彼女がどんな女性だったかは想像するしかありませんが、自分の考えや意志をしっかり持った、なかなか頼もしい女性だったように思えます。
(付記1)ちょっと余談
(女専)子女王が神がかりして託宣を行った長元四年六月十七日の伊勢神宮は、本文でもちょっと触れましたが暴風雨が吹き荒れていたそうです。この長元四年六月十七日を現在の暦であるグレゴリオ暦に返還すると、1031年7月15日になるそうです。と言うことは台風が来ても不思議ではない季節ですよね。なのでこの日の伊勢は、台風の影響で暴風雨が吹き荒れていたのでは…と、ちょっと妄想してしまいました。
(付記2)斎宮について
天皇に代わって賀茂神社あるいは伊勢神宮の神に奉仕する内親王または女王については正式には「斎王」と呼ばれていました。しかし、この二つを区別するために便宜上、賀茂神社に奉仕する内親王または女王を「斎院」、伊勢神宮に奉仕する内親王または女王を「斎宮」と呼んでいたようです。そこで、この文章では「斎宮」で通させていただきました。
☆参考文献
「伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち」 榎村寛之著 塙書房
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