平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

小式部内侍 ~和泉式部の娘

2007-04-02 10:34:48 | 歴史人物伝
 和泉式部というと、冷泉天皇の皇子、為尊親王や敦道親王を恋人にし、多くの情熱的な恋の歌を詠んだことで知られる平安中期の女流歌人です。

 彼女には、最初の夫、橘道貞との間に娘が一人ありました。そしてその娘も、母に劣らず恋人も多く、その事績は説話文学にもなっています。その生涯もなかなか波乱に富んでいますし、彼女自身もとても魅力的な人だと思います。今回の人物伝では、和泉式部の娘、小式部内侍にスポットを当ててみることにします。

 小式部内侍(以下は小式部と記します)の両親、橘道貞と和泉式部が結婚したのは、長徳二年(996)頃のことでした。小式部は、その翌年、長徳三年(997)頃の出生であると推定されます。

 しかし、母の和泉式部は長保二年(1000)頃から冷泉天皇皇子の為尊親王と恋仲になります。為尊親王はその2年後に世を去るのですが、親王の一周忌の頃から、その弟の敦道親王と恋仲になることとなります。「和泉式部日記」は、敦道親王との出会いから、親王の邸に引き取られるまでのことを綴ったもので、二人の大胆な恋の様子が贈答歌とともに描かれています。

 こうして和泉式部は敦道親王の召人のようになってしまったため、橘道貞とは当然のように離別ということになりました。小式部はそんな両親の間で子供時代を過ごしたわけです。

 なお、和泉式部と橘道貞の不和の原因については、和泉式部が為尊親王や敦道親王と恋仲になったからであるという理由ももちろんありますが、他にも理由があるようなのです。

実は和泉式部の父、大江雅致は、冷泉天皇の皇后、昌子内親王に仕えており、道貞はその部下でもありました。つまり和泉式部も道貞も、元々は冷泉天皇系の人だったのです。しかし道貞が和泉守に任じられ(和泉式部の名前は、和泉守という夫の官職にちなんでいるようです)、昌子内親王が崩御した長保元年頃より、彼は道長側にしきりに接近し、冷泉天皇系の人脈から離れていきました。
 道貞は、昌子内親王の七十七日の法事について藤原道長に指示を受けています。(『小右記』)
 また、道長の一男頼通は病気療養のために道貞の家に渡ったこともあるようです。(『御堂関白記』寛弘元年(1004)二月には、頼通が春日祭に立つ時に、道長の枇杷第に来て色々と世話をしています。
 このように、道貞は道長の家司のようになっていった、つまり冷泉天皇系の人脈に属していた道貞が道長側、すなわち円融天皇系(道長の婿、一条天皇は円融天皇の皇子)の人脈に接近するようになったことが、和泉式部との不和の原因の一つとも考えられるようです。

 話を和泉式部の方に戻しますと、寛弘四年(1007)、敦道親王が世を去ります。その際、和泉式部は数多くの悲痛な挽歌を詠んでいます。その歌の数々からは、和泉式部の敦道親王への深い愛情が感じられます。

 敦道親王に先立たれて途方にくれた和泉式部は、一時は出家しようと思ったようですが、権力者藤原道長にすすめられ、寛弘六年(1009)、一条天皇中宮で、道長の娘の彰子の宮廷に出仕します。彰子の宮廷には、紫式部赤染衛門といった才女が多く仕えており、華やかなサロンのようになっていました。そのため道長は娘の宮廷をさらに華やかにすべく、当時すでに歌人として世に知られていた和泉式部にも目をつけていたようです。
 そして、娘の小式部も母とともに彰子の許に出仕したのでした。彼女は当時13歳くらいであったと推定されます。なお、「小式部」という女房名は、「和泉式部の娘」という意味もあったのでしょう。彼女が彰子への出仕以前に誰とどこに住んでいたかは不明ですが、この女房名から母和泉式部との親密さを感じます。たとえ離れて暮らしていたとしても、和泉式部はいつも、娘のことを気にかけていたのだと思います。

 さて、母とともに彰子中宮の女房となった小式部は、才能に優れ、また頭も良かったために彰子に気に入られ、掌侍(内侍)に任じられ、「小式部内侍」と呼ばれるようになります。また、貴公子たちからも人気があり、様々な男性を恋人に持ちました。それだけ小式部は魅力的な女性だったのでしょうね。

 では、小式部の恋人だったと言われている男性たちを紹介しましょう。


☆藤原頼宗(993~1065)

 藤原道長と源明子の間に生まれた息子。
 どうやら、小式部が最初に関係を持ったのはこの頼宗のようです。しかし、二人の仲は長続きしませんでした。

☆藤原教通(996~1075)

 藤原道長と源倫子の間に生まれた息子。頼宗の異母弟に当たります。

 教通は、一条天皇崩御後皇太后となった彰子の皇太后宮権大夫であり、その関係で彰子つきの小式部と親しくなったと考えられます。小式部も教通にひかれていき、頼宗とは疎遠になったようです。小式部にふられてしまった頼宗は大変悔しがったようですが…。

 ある時、教通がひどい病気になり、やっと回復したのち、小式部に向かって
「なぜ私の家にお見舞いに来なかったのか?」と問いかけたとき、小式部は

 死ぬばかり 嘆きにこそは 嘆きしか いきてとふべき 身にしあらねば

という歌を詠みました。「私はあなたの病気のことを死ぬような思いで心配していましたのよ。そんな気持ちでしたので、辛くてたまらず、とてもお見舞いに行くことができませんでした。」という意味でしょうか。教通はかわいさのあまり思わず小式部をかき抱き、局に入って懐抱したということです。

 長和五年(1016)、小式部は教通との間に男の子を生みました。後に「木幡権僧正」と称された静円(1016~1074)です。彼は歌人としても知られています。母や祖母の才能を受け継いだのでしょうか。


☆藤原範永(生没年未詳)

 尾張守藤原仲清の男。
 長和五年(1016)、蔵人に任じられて昇殿を許されているので、その頃から小式部と親しくなったのかもしれません。また、後にいくつかの歌合わせに出詠するなど、歌人としても有名な人なので、小式部とは和歌を通じての友人で、それが恋愛に発展したとも考えられると思います。

 小式部は範永との間に女の子を生んだと言われていますが、これは根拠がなく、疑問だということです。小式部と範永が恋仲であったことは事実かもしれませんが、多分一時的な短い間のことで、彼が他の女性との間に生んだ娘の母が、いつの間にか小式部だと間違って伝えられたのではないでしょうか。
 ちなみにこの娘は、後に白河院女御(能長女の道子か)に仕えて尾張と呼ばれました。


☆藤原定頼(995~1045)

 小式部が定頼と関係を持ったかどうかはよくわかりません。定頼と小式部、または小式部の娘との間に子供がいたという説もあるようですが、詳細については調べられませんでした。すみません。

 しかし、定頼と小式部との間にはあまりにも有名なエピソードがありますし、そのエピソードからも、二人はかなり親しかったのではないかな…と思いましたので、定頼にも小式部の恋人の一人として登場していただくことにしました。

 では、その有名なエピソードについて紹介しましょう。

 母の和泉式部から歌の才能と美貌をあますことなく受けついた小式部ですが、当時、「小式部の歌はみんな和泉式部が代作しているらしい。」という噂が流れていました。

 その和泉式部は、彰子に出仕したのちに道長の家司、藤原保昌と再婚していました。寛仁四年(1020)、保昌が丹後守に任じられると、和泉式部も夫とともに丹後に同行します。

 そんなとき、京では歌合わせがあり、小式部も歌人の一人に加えられていました。そこで藤原定頼は小式部に向かい、
「もう歌はおできになりましたか?丹後からの使者はもう戻ってきていますか?さぞ心細いことでしょうね。」
と、小式部をからかいました。その時小式部が定頼への返事のかわりに詠んだのが「百人一首」にもとられているこの歌です。

 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

「丹後は遠すぎてまだ行ったことがございません。大江山、いく野の道、天の橋立、あまりにも遠すぎて、私はまだ母の文も見ていませんの。」という意味、つまり、「丹後になんて使者は送っていませんよ!!」と、小式部は言いたかったのでしょう。小式部にすっかりやりこめられてしまった定頼は、返歌もせずにこそこそと逃げていったといいます。

 このエピソードからは、小式部の才気があふれているような気がします。そして、しっかりした気性の持ち主であったこともうかがえます。
 また、小式部と定頼の親密さを感じてしまうのは私だけでしょうか。好きな女性をからかって楽しんでいる定頼と、そのユーモアをしっかりと受け止めている小式部…。何かほほえましいです。

*定頼については、当ブログ内の「藤原高光とその子孫たち」もご覧下さいませ。定頼の系譜が書いてあります。


☆藤原公成(999~1043)

 藤原実成の一男。祖父である藤原公季の養子となった人物です。最終的には権中納言にまで出世しました。余談ながら、娘には白河天皇の母茂子(小式部の書生ではありません)がいます。この一家はそのため、天皇の外戚として繁栄することになるのですが、公成はそれよりもずっと前に世を去ってしまいましたので、自分の家が繁栄した姿を見ることはできませんでした。

 そんな公成は若き日、小式部の恋人の一人でした。二人がいつ親しくなったかはよくわかりませんが、教通があまりにも出世(教通は治安元年=1021年に内大臣に任じられています)してしまったために小式部と疎遠になり、そんな彼女の寂しい心を慰めたのが公成だったのでは…と、想像してしまいます。

 ところが小式部は、万寿二年(1025)、公成との間に男子を生み、そのまま帰らぬ人となってしまいました。まだ28、9歳の若さでした。

 娘の死を嘆き悲しんだ和泉式部は哀切な挽歌を詠みました。

 とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさりけり 子はまさるらむ

 小式部の子供、つまり和泉式部にとっては孫を抱いて詠んだ歌です。「娘は親の私やこの小さな子供を残して逝ってしまった。あの子は、私とこの幼い子と、どちらが気がかりだったのかしら?きっとこの子に違いないわ。だって私も、親が死んだときよりも我が子に先立たれた今の方がずっと悲しいんですもの」という意味です。

 小式部は上でも書きましたように、母から歌の才能と美貌をあますことなく受け継ぎ、才気もあり、気性のしっかりした女性でした。そして、誰からも愛される明るい性格の持ち主だったのだろうなと思います。恋人たちの顔ぶれを見てもとても華やかです。

 しかし、和泉式部の小式部に寄せる哀切な挽歌を読むと、幼い子供たちを残して死ななければならなかった小式部がどんな思いであったのかを考えさせられ、とても哀しい気持ちになります。多くの男性を愛し、愛された小式部の人生は一見華やかに見えますが、母和泉式部以上に波乱に富んだものだったのかもしれません。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CDーROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
 『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫
 『人物叢書 和泉式部』 山中 裕 吉川弘文館

☆トップページに戻る

最新の画像もっと見る