
『いつも手遅れ』 アントニオ・タブッキ ☆☆☆☆☆
去年の秋に買ったアントニオ・タブッキの『いつも手遅れ』を、間を空けながらこれまでに三回読んだが、読むたびに少しずつ印象が変化してきた。最初読んだ時は、これまでのタブッキとはずいぶん違うなと思ったが、三度目に読んだ後には、これまでと何も変わっていないな、と思うようになった。最初にずいぶん違うと思った理由は、以前のようなバロック的着想が陰をひそめ、散文的な題材が増えている(たとえばヘモグロビンや有刺鉄線など)、文体からためらいがちな間がなくなって立て板に水の饒舌体になっている、これまでのタブッキの小説にはなかった単語が出てくる(たとえば「女性器」や「陰茎」など)、センテンスの繋がりが自動書記的になり、ほとんど支離滅裂なまでに飛躍を繰り返す、などである。
ところが何度も読んでいるうちに、表面下に隠れていた、あるいは上記のような要素にくらまされた私の目が見逃していた、従来のタブッキ的要素がだんだんと見えてくる。そうなると、各篇の題材は小さな島や異国への旅、「来世」と書かれた扉、オペラ、音楽、チェーホフ、シェークスピア、死者への語りかけ、行われなかった旅行の記憶、などだし、物語そのものは仄めかすにとどめて周辺をぐるぐる回る断片性、未完性は完全にタブッキ王道のスタイルだし、読者をはぐらかす人を喰ったところも健在、やっぱり変わっていないということになる。
そうした本質的に不変の部分、表面的には変化した部分、などが渾然一体となった本書においていちばん特徴的なのは、いうまでもなく、すべて手紙の形式ということである。が、訳者があとがきで書いているように、本書収録の諸篇はいわゆる書簡体小説とはだいぶ違う。これらタブッキの書いた「手紙」は、通常の、相互に通信するための書簡というよりも、むしろ最初からコミュニケーションを放棄し、すべてが取り返しのつかないものとしてとうの昔に完結してしまっている感覚に貫かれた、断絶の象徴としての逆説的な「手紙」であるように思える。
ではなぜ「手紙」なのか。私が強く感じたのは、これらは要するに独白であるということで、それも単なる独白ではなく誰か特定の人に向けた独白だ。そのために、これらは「手紙」である必要があったのだ。そしてこの形を変えた独白、あるいは形を変えた回想である「手紙」の中では、歳月や、場所の隔たりはやすやすと飛び越えられる。それだけでなく記憶と空想、事実と夢の境界も簡単に越えることが可能であり、これらを自在に混ぜ合わせることができる。結果、時系列のエピソードを配列した通常の物語とはまったく異なる文法で書かれた、濃縮ジュースのようにきわめて濃密な、物語のエキスだけを抽出して混沌のままさらけ出したような、短篇の数々が出現する。
この、事実も記憶も夢も空想も渾然一体となった、長い歳月も世界中の国々もただ一瞬のひらめきの中に凝縮されたような小説には、当然それにふさわしい「語り口」が、つまり文体が用いられる。本書のタブッキの文体は他の作品の時よりもさらに散文詩的で、かつ饒舌である。過去の作品、特に『インド夜想曲』や『レクイエム』で特徴的だった瞑想的な、ゆったりしたテンポの文体ではなく、饒舌で、流暢で、スピード感に満ち、精密で、にもかかわらず読み手を煙に巻くような文体である。ロジックや筋道は無視してどんどんわき道にそれていき、その中に思いがけない飛躍や混在を宿す。とても一筋縄ではいかない。私も最初に読んだ時はそうだったが、この文章を読んで、一つ一つの言葉が意味するところを正確にトレースしていくのは至難の業だ。タブッキの場合は文体の飛躍に加えて物事をはっきり書かずに暗示にとどめるという基本的な姿勢があるため、ますます意味が捉えがたくなってくる。そういう意味では、本書はタブッキを読みなれた人のためのタブッキ作品、いわばタブッキ上級者のための小説であり、初めてタブッキに接するという人には相当手ごわい作品集ではないかと思う。
どの作品にも、タブッキらしく形而上学的な瞑想、思索が含まれていて、部分的には形而上学的散文詩とでもいいたくなるパラグラフが頻出するが、にもかかわらず、物語としての魅力もちゃんと備えている。無論その物語は、前に書いたように順序だててストーリーになっているとは限らず、時系列も空間も混ぜ合わせた濃縮ジュースとなっているために、読者が読み解いていかなければならない場合が多いのだが。またタブッキの小説はどれほど実験的な手法やアイデアであっても、その中にノスタルジーと一体になった物語のリリシズムを包み込んでいるのが魅力である。
本書に収録された数々の「手紙」たちも、どれも非常に複雑で多面的、多義的でありながら、やはり物語としてのユニークな魅力を備えている。光に溢れた島での「別れ」の情景が語られなかったラブストーリーを暗示する、ロマンティックな「海にあずけたチケット」。ヘモグロビン宛てという設定がユニークな、形而上学的な散文詩ともいうべき「血のめぐり」。せつない「会いにいったけれど君はいなかった」。かつてのタブッキ作品を髣髴とさせる、死んだ妻に宛てた手紙「わが家からの朗報」。この手紙の中では過去のある劇的な事件について触れられるが、その事件が何だったのかだけは書かれない。
それからある事件で祖国から逃げ出した男が、悔恨と郷愁をこめてかつての恋人宛てに綴る「ただ一弦のハープは何の役に立つのか?」。男の嫉妬が招く復讐譚「あなたはいいひとだから」。もちろんこの復讐とはモンテクリスト伯みたいなものではなく、心理的な復讐であり、言葉による復讐である。タブッキの十八番であるところの存在しない記憶を語る「書かなかった本、果たせなかった旅」。ハムレットとオフィーリアに仮託する俳優たちの人生「仮面は疲れて」。そしておそらくは本書中もっともロマンティックな、とても短い「書かなければならない手紙」。
濃密な、あまりに濃密な「手紙」=「物語」の数々。すべてに共通するのは、まさに本書タイトルがあらかじめ語っているように、すべては手遅れであり、もはや取り返しがつかないという強烈な感覚だ。これはつまり、本来はそうでないはずだったのにそうなってしまった、本来あるべきものがあるべき形にならなかった、成就しなかった、という感覚である。いってみれば喪失であり、悔恨であり、諦めであり、時にはかなわないと知りつつ求める憧れかも知れない。いずれも人生につきものの、根源的な感覚ばかりだ。そしてこれらは「自分がそこにいないことによって引き起こされる苦しみ」、すなわちノスタルジアに集約されていく。
ところでこの『いつも手遅れ』は、日本では先行して刊行された『他人まかせの自伝』の中で取り上げられている。その中でタブッキ自身が解説しており、といってもそれは解説というよりタブッキ一流の韜晦に満ちた文章による「作品に付け加えられたテキスト」とでも言うべきものなのだが、その中でタブッキはいくつかの指摘をしている。すなわち、書簡は声でもある、書き手たちはみな頭痛をかかえている、書き手は(手紙とはすべて一方的なものなので)全面的には信用できない、どの手紙ももはやすべて手遅れの感じがする、など。そして非常に重要なことに、もう一つの「手紙」が追加されている。その「手紙」は本書『いつも手遅れ』に収録されるはずのものだったということで(これもタブッキ一流の「詐術」かも知れず、どこまで本当か分からないが)、「わが淡い瞳、蜜のような髪」の後日談、続編ということにもなっている。だから本書を読んだ読者は、ぜひそちらも読んでいただきたい。
そしてもう一つ、『他人まかせの自伝』の中で、イタリアで刊行された『いつも手遅れ』原書の表紙に使われたという写真にまつわるエピソードが紹介されている。それは二人の男女が抱擁する写真だが、二人の顔は、大きな帽子に隠れていて見えない。この二人の関係は何なのか、これは喜びの抱擁なのか悲しみの抱擁なのか、色々なことを謎めいて感じさせる、不思議な写真で、タブッキはそれを気に入って本書の表紙に使い、撮影者を探すがなかなか見つからない。ところがある日……という話。
幻のような、蜃気楼のような、タブッキの書く小説のように謎めいた、しかし美しい写真である。日本語版では表紙ではなく、中表紙に使われている。
去年の秋に買ったアントニオ・タブッキの『いつも手遅れ』を、間を空けながらこれまでに三回読んだが、読むたびに少しずつ印象が変化してきた。最初読んだ時は、これまでのタブッキとはずいぶん違うなと思ったが、三度目に読んだ後には、これまでと何も変わっていないな、と思うようになった。最初にずいぶん違うと思った理由は、以前のようなバロック的着想が陰をひそめ、散文的な題材が増えている(たとえばヘモグロビンや有刺鉄線など)、文体からためらいがちな間がなくなって立て板に水の饒舌体になっている、これまでのタブッキの小説にはなかった単語が出てくる(たとえば「女性器」や「陰茎」など)、センテンスの繋がりが自動書記的になり、ほとんど支離滅裂なまでに飛躍を繰り返す、などである。
ところが何度も読んでいるうちに、表面下に隠れていた、あるいは上記のような要素にくらまされた私の目が見逃していた、従来のタブッキ的要素がだんだんと見えてくる。そうなると、各篇の題材は小さな島や異国への旅、「来世」と書かれた扉、オペラ、音楽、チェーホフ、シェークスピア、死者への語りかけ、行われなかった旅行の記憶、などだし、物語そのものは仄めかすにとどめて周辺をぐるぐる回る断片性、未完性は完全にタブッキ王道のスタイルだし、読者をはぐらかす人を喰ったところも健在、やっぱり変わっていないということになる。
そうした本質的に不変の部分、表面的には変化した部分、などが渾然一体となった本書においていちばん特徴的なのは、いうまでもなく、すべて手紙の形式ということである。が、訳者があとがきで書いているように、本書収録の諸篇はいわゆる書簡体小説とはだいぶ違う。これらタブッキの書いた「手紙」は、通常の、相互に通信するための書簡というよりも、むしろ最初からコミュニケーションを放棄し、すべてが取り返しのつかないものとしてとうの昔に完結してしまっている感覚に貫かれた、断絶の象徴としての逆説的な「手紙」であるように思える。
ではなぜ「手紙」なのか。私が強く感じたのは、これらは要するに独白であるということで、それも単なる独白ではなく誰か特定の人に向けた独白だ。そのために、これらは「手紙」である必要があったのだ。そしてこの形を変えた独白、あるいは形を変えた回想である「手紙」の中では、歳月や、場所の隔たりはやすやすと飛び越えられる。それだけでなく記憶と空想、事実と夢の境界も簡単に越えることが可能であり、これらを自在に混ぜ合わせることができる。結果、時系列のエピソードを配列した通常の物語とはまったく異なる文法で書かれた、濃縮ジュースのようにきわめて濃密な、物語のエキスだけを抽出して混沌のままさらけ出したような、短篇の数々が出現する。
この、事実も記憶も夢も空想も渾然一体となった、長い歳月も世界中の国々もただ一瞬のひらめきの中に凝縮されたような小説には、当然それにふさわしい「語り口」が、つまり文体が用いられる。本書のタブッキの文体は他の作品の時よりもさらに散文詩的で、かつ饒舌である。過去の作品、特に『インド夜想曲』や『レクイエム』で特徴的だった瞑想的な、ゆったりしたテンポの文体ではなく、饒舌で、流暢で、スピード感に満ち、精密で、にもかかわらず読み手を煙に巻くような文体である。ロジックや筋道は無視してどんどんわき道にそれていき、その中に思いがけない飛躍や混在を宿す。とても一筋縄ではいかない。私も最初に読んだ時はそうだったが、この文章を読んで、一つ一つの言葉が意味するところを正確にトレースしていくのは至難の業だ。タブッキの場合は文体の飛躍に加えて物事をはっきり書かずに暗示にとどめるという基本的な姿勢があるため、ますます意味が捉えがたくなってくる。そういう意味では、本書はタブッキを読みなれた人のためのタブッキ作品、いわばタブッキ上級者のための小説であり、初めてタブッキに接するという人には相当手ごわい作品集ではないかと思う。
どの作品にも、タブッキらしく形而上学的な瞑想、思索が含まれていて、部分的には形而上学的散文詩とでもいいたくなるパラグラフが頻出するが、にもかかわらず、物語としての魅力もちゃんと備えている。無論その物語は、前に書いたように順序だててストーリーになっているとは限らず、時系列も空間も混ぜ合わせた濃縮ジュースとなっているために、読者が読み解いていかなければならない場合が多いのだが。またタブッキの小説はどれほど実験的な手法やアイデアであっても、その中にノスタルジーと一体になった物語のリリシズムを包み込んでいるのが魅力である。
本書に収録された数々の「手紙」たちも、どれも非常に複雑で多面的、多義的でありながら、やはり物語としてのユニークな魅力を備えている。光に溢れた島での「別れ」の情景が語られなかったラブストーリーを暗示する、ロマンティックな「海にあずけたチケット」。ヘモグロビン宛てという設定がユニークな、形而上学的な散文詩ともいうべき「血のめぐり」。せつない「会いにいったけれど君はいなかった」。かつてのタブッキ作品を髣髴とさせる、死んだ妻に宛てた手紙「わが家からの朗報」。この手紙の中では過去のある劇的な事件について触れられるが、その事件が何だったのかだけは書かれない。
それからある事件で祖国から逃げ出した男が、悔恨と郷愁をこめてかつての恋人宛てに綴る「ただ一弦のハープは何の役に立つのか?」。男の嫉妬が招く復讐譚「あなたはいいひとだから」。もちろんこの復讐とはモンテクリスト伯みたいなものではなく、心理的な復讐であり、言葉による復讐である。タブッキの十八番であるところの存在しない記憶を語る「書かなかった本、果たせなかった旅」。ハムレットとオフィーリアに仮託する俳優たちの人生「仮面は疲れて」。そしておそらくは本書中もっともロマンティックな、とても短い「書かなければならない手紙」。
濃密な、あまりに濃密な「手紙」=「物語」の数々。すべてに共通するのは、まさに本書タイトルがあらかじめ語っているように、すべては手遅れであり、もはや取り返しがつかないという強烈な感覚だ。これはつまり、本来はそうでないはずだったのにそうなってしまった、本来あるべきものがあるべき形にならなかった、成就しなかった、という感覚である。いってみれば喪失であり、悔恨であり、諦めであり、時にはかなわないと知りつつ求める憧れかも知れない。いずれも人生につきものの、根源的な感覚ばかりだ。そしてこれらは「自分がそこにいないことによって引き起こされる苦しみ」、すなわちノスタルジアに集約されていく。
ところでこの『いつも手遅れ』は、日本では先行して刊行された『他人まかせの自伝』の中で取り上げられている。その中でタブッキ自身が解説しており、といってもそれは解説というよりタブッキ一流の韜晦に満ちた文章による「作品に付け加えられたテキスト」とでも言うべきものなのだが、その中でタブッキはいくつかの指摘をしている。すなわち、書簡は声でもある、書き手たちはみな頭痛をかかえている、書き手は(手紙とはすべて一方的なものなので)全面的には信用できない、どの手紙ももはやすべて手遅れの感じがする、など。そして非常に重要なことに、もう一つの「手紙」が追加されている。その「手紙」は本書『いつも手遅れ』に収録されるはずのものだったということで(これもタブッキ一流の「詐術」かも知れず、どこまで本当か分からないが)、「わが淡い瞳、蜜のような髪」の後日談、続編ということにもなっている。だから本書を読んだ読者は、ぜひそちらも読んでいただきたい。
そしてもう一つ、『他人まかせの自伝』の中で、イタリアで刊行された『いつも手遅れ』原書の表紙に使われたという写真にまつわるエピソードが紹介されている。それは二人の男女が抱擁する写真だが、二人の顔は、大きな帽子に隠れていて見えない。この二人の関係は何なのか、これは喜びの抱擁なのか悲しみの抱擁なのか、色々なことを謎めいて感じさせる、不思議な写真で、タブッキはそれを気に入って本書の表紙に使い、撮影者を探すがなかなか見つからない。ところがある日……という話。
幻のような、蜃気楼のような、タブッキの書く小説のように謎めいた、しかし美しい写真である。日本語版では表紙ではなく、中表紙に使われている。
この難解なタブッキの小説に対する考察は、私の読了時に感じていたモヤモヤの原因をうまく文章化してくれました。感謝してます。
最初にこの作品を読んだとき、タブッキらしくないと私も思いました。文章は饒舌であり、話があちこちにとんだりするので、読みづらかったと記憶しています。この読みにくさから話の内容がなかなか理解できず、一度しか読んでませんでした。
しかし、ego_danceさんの考察を読むとタブッキらしさは確かにあるらしい。しかも、巧妙に手紙という手段とそれに合う文体とかけ合わさった形で。うーむ、私にはまだまだタブッキの文章を読み取る能力が足りていないなと思います。
この考察を読んで、もう一度頑張って読んでみようかと思った次第です。