マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

染井通り

2010年03月31日 | 身辺雑記

 六義園から染井霊園に真っすぐに一本の道が約1Kmに亘って延びています。この道沿いに、江戸から明治に掛けて数多くの植木屋さんが軒を並べていたそうです。
 万延元年(1860年)に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチェンはこの辺りの様子について
 (『江戸と北京』)と述べたと「染井植木の里」の立看板に書かれています。

 その道に沿って今では、霊園に向かって左側に、金メダリスト北島康介選手が通った
「東京スイミングクラブ」や「本郷高校」が立ち並び、その間には「染井温泉サクラ」もあります。右側には「旧丹羽家腕木門」の残る「門と蔵のある広場」が作られています。

 この「染井通り」を私達が初めて訪れたのは今から36年ほど前のこと。新婚当時、都電荒川線「西ケ原」駅付近に住んでいた私達は、近辺があまりに”鄙っぽい”ので、散歩には都市の匂いの感じられる都心方向を目指しました。その当時は存在していた東京外国語大学の前を通り、染井霊園を抜けると、真っすぐに一本の道が延びていました。その道に沿って1Kmほど歩くと山手線に出会い、駒込駅や六義園を発見し、とても嬉しくなりました。
 以来何回となくこの道を歩み、”都心”に出て来たのです。ふと見た新聞チラシで駒込駅付近のマンションが販売されている事を知り、一度の閲覧で、7年間住んだ以前のマンションを購入しました。

  
 その道を今日は、36年前とは逆方向に散歩に出掛けました。この二日間私は染井霊園の桜が気になり早朝散歩でこの近辺を歩きまわっていました。妻を案内し、まずは「門と蔵のある広場」へ。丁度蔵は公開されていて、ボランティアの方が説明をしてくれました。





 昭和11年に建造されたこの蔵、内部からみると実にしっかりした骨組みであることが分かります。

    (右は広場内にある蔵)







  
       (蔵は公開中でした)

                                    門は江戸時代にこの近辺にあった大名藤堂家から植木職人の丹羽家に移築され、更にマンション建築に伴い現在に場所に移動された”腕木門”だそうです。

  (左が旧丹羽家腕木門)



 

                       

 「染井よしの桜の里公園」は出来たばかりの公園らしく、桜の樹々もまだ植えたばかりの様子ですが、ここにも「染井よしの桜祭り」の幟が翻り、3月27日~4月4日の桜祭りの雰囲気を醸し出していました。


自転車レーン完成

2010年03月30日 | 身辺雑記

 
 3月26日(金)、文京区内にある国道17号線の、東大農学部前から千石駅前交差点までの自転車レーン1200mが完成しました。自転車レーンとは正式には『自転車専用通行帯』の事。今回完成した自転車レーンは国道上のものとしては都内で初めてのものだそうで、今まで10mほどの幅の車道を7mにして、1.5mの専用帯を2本作りました。
 確かに東大農学部前から地下鉄千石駅付近までの歩道は非常に狭く、歩道上で歩行者と自転車利用者の錯そうが起こりがちで、これがレーン創設の大きな理由だったと思います。



 東大農学部前は「追分」と呼ばれていた地域で、日本橋からの中山道は,、
ここ追分で中山道と岩槻街道に分かれます。岩槻街道は別名「おなり街道」とも呼ばれました。現在の本郷通りです。中山道は、東洋大の前から千石を抜け、とげぬき地蔵通りに続きます。この道路の両端の歩道は極端に狭く、自転車走行は歩く人には危険なもの。かと言って車道で自転車を走らせるのは怖いものがあり、車から見ても自転車は危ないものに感じられていることでしょう。3者の共存を図ろうとの結論の一つが自転車レーンだった訳です。

 千石駅までは我が家から自転車で5分。昨日、早速”試乗”に出掛けました。ブルーに塗られたレーンの始点の手前には「このレーンを自動車やオートバイは走行禁止」と書かれた立て看板が置かれています。気持ち良く走り始めるとすぐに、道を塞いでる車に出合いました。已む無く歩道か車道にレーンを変えねばなりません。生憎歩道へは段差が厳しく変えられません。車道を行かねばなりませんが、いきなりの飛び出しはより危険なので、何台かの車をやり過ごして、車道に出ました。
 東大農学部前までに何台もの車が駐停車していました。実際利用の段階になると使いづらいものでした。そこで文京区役所に早速携帯で電話をし、実情を話し、このレーンに駐車をしても良いのか尋ねると「駐車は禁止ですが、停車は可能です」との回答。車を路上に止めて、運転手が席を離れなければ停車、離れれば駐車。どちらもしばしば起こる事であり、又ブルーの帯が自転車レーンとの認識も、現段階では運転者には薄いことでしょう。現状では前方に車を発見したら、早めに走行車線を歩道に変え、歩道をゆっくり走行するのがベストかなと考えました。

 不完全とは言え、この様なレーンが都内のみならず都市のあちこちに沢山出来て欲しいと思います。車道を拡げる工事が必要とされるかも知れません。この面でも欧米諸国と比較して大幅に遅れている日本。車から自転車への転換は二酸化炭素削減にも貢献するはずです。
 帰り道、「吉祥寺」前に戻ってくると、対抗車線には何と人力車が。車を眼の前にして已む無く車道のセンターラインに出る為、車をやり過ごしています。30分ほど前に私が経験したことです。信号が青に変わった瞬間、とっさの判断で対抗車線に渡り、人力車を牽くお兄さんに「何処が起点なの」と聞いてみました。「浅草です。宜しかったらご利用下さい」と。浅草から人力車に来てもらい、東京巡りをする”オツ”な事をする人もいるんだと、車上のご婦人を見上げました。

 


東京大空襲

2010年03月28日 | 身辺雑記

 一昨日登場した光源寺の十一面観音像は1945年の空襲で焼失したと、朝日新聞の記事にありました。柏からの帰りに光源寺に行くことを決め、更に、その前に、やはり空襲で焼け出されたとの記録のある「延命地蔵」にお参りしようと考えました。

          
       (延命地蔵尊)
 
                                                  
 その延命地蔵は、大好きな「よみせ通り」に面して、とても小さなお堂の中にひっそりとおわします。どこかのお寺様の像ではなく、ご近所の篤志家によって祀られているように感じられます。その地蔵尊の脇に、よみせ通りの盛衰が描かれていました。少し長いのですが引用します。



 

 <昔から此の通りには駒込染井から上野不忍池まで藍染川が流れていた。大正12年に暗渠になり、立派な通りが完成すると各商店が調い、安八百屋横丁が栄え、朝市が立ち、生活必需品全てが取り揃った便利で活気溢れる買物通りとなった。人通りも盛んで、其の上、毎日午後から露店が夜店を並べ(中略)歩くこともままならぬほどで、その盛況さは夜更けまで続き、誰云うとなく夜店通りと広く呼ばれるようになった。が、その繁栄も、空襲によって途絶えて仕舞いました>

 東京大空襲として知られる1945年3月10日の空襲による焼失はどうかは分かりませんが、光源寺とよみせ通りは徒歩で20分ほど。おそらく同一の日の空襲によって、その時までの繁栄の全てを一瞬に失ったのでしょう。

 目黒にあった我が家が空襲により焼失したのも同じ頃だったと思います。母から聞いた話によると、空襲が激しくなって来て、”離れ”を取り壊し、そこに防空壕を掘り、そこへ避難する日々が続いたようです。
 その日もご近所数軒と防空壕に避難していると、当時3歳の私は恐怖心からこの防空壕にも爆弾が落ちると泣き喚いたようです。中にいた誰もが、何を馬鹿なと思った直後、焼夷弾が防空壕を直撃します。運が良い事にこの焼夷弾は不発弾に終わりましたが、吃驚仰天した皆は一斉に防空壕を飛び出しました。
 私の記憶に残るのはこの直後です。外は焼夷弾が雨の様に降り注ぎ、火を吹いていました。それをかいくぐるように、母に手を引かれ逃げ惑いました。ここから記憶は暫く途絶えますが、続いて再び記憶に残る場面は、ご近所の「蛸薬師」境内で、米軍飛行機の眼から逃れようとトタンを被り、息を潜めている様子です。
 この日の出来事は、大きな恐怖だったのでしょう。私は気がふれてしまったようだったと母は語っていました。僅か3歳の身に起こった事柄を鮮明に覚えているくらいですから、そうだったと思います。

 東京大空襲で20万人近くの方が亡くなったり行方不明になりました。より多くの方の生活が根こそぎ破壊された事でしょう。多くの寺院や文化財も灰塵に帰してしまいました。この大空襲だけではありませんが、戦争とはいえ、生活圏に向けて爆弾を投下する、打ち込むという事が許されるはずがありません。原爆投下も含め、国際法違反、国際道議に大きく反する事と思えてなりません。忘れかけていた怒りが蘇りました。
 


4人で「やねせん」散策

2010年03月27日 | 身辺雑記

 今を去る丁度40年前、都立O高定時制で、4人全員が顔を合わせました。I先生と私は1967年に私がO高校に赴任した時にお会いしました。Sさんは1968年に新潟県からの、引越しに伴う転学でした。Fさんは1970年に某私立高校定時制から転学して来ました。彼女たちが在学中、F君やM君ら数人の生徒も交えて、部活ではありませんがよく山に登りました。記憶に残る山々は奥秩父連峰と八ヶ岳と尾瀬燧岳です。

 5年前、山行を共にしたF君を交えて I 先生、Fさん、Sさんの4人が蓼科にある私の山小屋に遊びに来てくれました。蓼科山の懐にある「御泉水」を5人でのんびり歩いた事を昨日の事の様に鮮明に覚えています。そのF君が昨年の夏、50歳代の若さで急逝されました。
 葬儀に参列出来なかった私達4人は、後日お宅にお邪魔してお線香をあげさせて頂きました。F君とは色々な繋がりが、私にもFさんSさんにもありました。伺った夜は、帰路既に9時を回っていましたので、思い出を語り合う時間がなく、想いを残して別れました。別れ際にI先生が「近いうちに”偲ぶ会”をやりましょう。お声を掛けて下さい」と。私には母の死亡が重なり、延び延びになっていましたが、今日「やねせん」散策を兼ねて、「彬」での会となりました。

 「彬」ではコースを注文しておきました。隣の魚屋さんが親元のこのお店、出てくる魚が全て新鮮です。今日は蟹がおまけに出てきました。鍋物にも魚が豊富に入り、食べきれないほどの量。今日も満足度高く会食が出来ました。話題の中心は山と40年前の思い出。F君の思い出はほんの少しでしたが、共通に過ごした日々に、思いは巡りました。
 さんさき坂を昇り、江戸指物店を覗き、芸大脇を通り抜け、東京博物館の庭で桜を愛でて帰路につきました。


        
(東京博物館裏庭風景)


        (裏庭:満開に近い枝垂れ桜)

          


仏像頭すげ替え「復元」は不要

2010年03月26日 | 身辺雑記

 「駒込大観音」として知られる「光源寺」を巡る判決が知財高裁であった、との報道が、今日の朝刊で報道されました。

 我が家から徒歩15分のところにある光源寺は、高さ8mの十一面観音像で有名です。その観音像は江戸時代の1697年の建立。1945年の東京大空襲で焼失しましたが、先代住職は1987年、観音像の再建を仏師に依頼、93年に完成しました。しかし、にらみつけるような眼差しに見えることから、参拝者らから「慈悲深い顔にしてほしい」との声が上がりました。そこで仏師の死去後、現住職が仏師の弟子に依頼して頭部を作り直し、すげ替えていました。
 このすげ替え、仏師の遺族が著作権を侵害されたと東京地裁に訴えを起こしていました。第1審は仏師遺族側の勝訴。「すげ替えは著作権侵害にあたる」として「原状回復をし、損害賠償1800万円の支払い」を寺側に命じる判決が出ました。
 これに対して、寺側が知財高等裁判所に控訴。昨日、逆転判決が出ました。著作権侵害は認めつつも、「頭部を新たに制作し交換した行為には相応の事情があり、すげ替えの頭部は保管されており、拝観することも不可能ではない。事実経過を説明する広告を掲載すれば十分」との言い渡しでした。(控訴審にあたり、現在の仏頭を希望する地域住民ら約2千人分の署名が掲出されたようです)

 この新聞記事を読み、丁度今日、借りたまま机上に置いてあるパソコンを返却する為、勤務校のある柏まで出掛けなければならいマーちゃんは、柏からの帰り、日暮里で下車し、よみせ通りの「延命地蔵」にお参りし、「彬」(昨年9月14日のブログに登場)
で昼食を摂り、光源寺に向おうとの計画を立てました。
 
       (ここに十一面観音像がおわします)
 光源寺に到着し、写真撮影ののち、少し躊躇いましたが受付のインタホーンで「裁判は最終決着をみたのですか」とお聞きすると、「今住職が参りますからお待ちください」との事。間もなくご住職が、笑みをたたえた表情で現れました。「新聞報道がまちまちですが、読売新聞と東京新聞の表現が適切です」と2紙をコピーしたA4版の用紙を渡してくれました。
    



 「著作権侵害は認めていましたが、お寺さん側の勝利とお考えですか」とお聞きすると「謝罪文では無く、事実経過を載せればいいし、観音様はあのままでよいし、損賠賠償も払わなくていいし、こう言ってはなんですが、勝ったと思います。応援有難うございました」と。私はなんとなく寺側贔屓の心境ではありましたが、応援したいた訳ではありません。その部分は素通りして「これで確定ですか」と一番聞きたかった事に話題を変えますと、「憲法に係わる面もないので、最高裁には上告しないのでは」との判断を示されました。
 
 最後に「私は元都高教組合員です。昨年のコンサート(10月14日のブログに登場)でもこちらに伺いました」と話すと、ご住職、突然奥に引っ込んで「御供物」を持ってきて下さいました。お寺さんへ供え物をする事は多々ありますが、頂いた事は初めて。有難く頂戴して来ました。心の閊えが降りたのでしょうか、島田昭博住職の晴れやかな心映えが伝わって来ました。