マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

信濃町から四谷へ、坂を巡る(その1)

2012年03月31日 | 

 前回のブログの続きです。
 という訳で、比較的好天に恵まれた3月26日(月)信濃町から四谷に掛けての坂を巡って来ました。
 都営線のみでJR信濃町駅へは行かれません。千石→(三田線)→春日→(大江戸線)→都庁前→(大江戸線)→国立競技場と地下鉄を乗り継いで、国立競技場で下車。ここからスタート地点の信濃町駅へは徒歩5分です。



 実は「江戸と東京の坂」には江戸切絵図にも現在マップにも坂巡りの道順が赤い線で示されています。更に本文は、例えば「外苑東通りに引き返し、四谷三丁目方向に進み、信濃町駅の先を右折」と、まるで手に取るような道案内です。私はこの道順に従いました。

 その上、行く先々の寺院とその謂れや、所縁の人々も紹介されていて便利な事この上無しの案内書です。それに従い歩いた坂は、千日坂や観音坂などを含めて13。辿ったお寺は10数寺院。全てのお寺さんを丁寧にお参りすることは出来ませんでしたが、最終目標「四谷写真会館」までの所用時間は3時間半。歩数計は2万5千歩を越えていました。(写真:観音坂)



 四谷台地と信濃町側台地(こちら台地の名前は分かりません)間には鮫河谷があり、そこに流れを発するのが鮫川(赤坂川)です。信濃駅側台地には多くの寺が密集し、四谷台地は高級住宅街で学習院初等科などが存在し、甲州道(現新宿通り)が走ります。2本の台地と鮫河谷を結ぶのが江戸時代からある坂なのです。(戒行寺内火附盗賊改方”鬼平”の碑)






 特に興味を感じた3つの事柄を語ります。


 その1 多くの坂から江戸情緒が感じられますが、私の一押しは「闇(くらやみ)坂」。永心寺と松巌寺に挟まれた細い坂で、その日も殆ど人通りは無く、江戸時代、昼間でも薄暗かったであろう事が推測できるのでした。(写真:闇坂)








 その2 鮫川の現在です。今は暗渠となっていて「鮫河橋」にその名残を残すのみですが、かってはこの川は、信濃町駅南側の「千日谷」からの流れをあわせ、赤坂離宮の中を進み、離宮内の渓谷の水をあわせて赤坂見附で平地に出ていました。その日、赤坂迎賓館の門の前には二人の男性が立ち、ものものしい警備で、その内部で流れがどうなっているかは残念ながら分かりません。
 鮫河谷沿いの、こじんまりした商店街では売り手と買い手が話し込み、街の真ん中には銭湯「若葉湯」もあり、庶民の日常生活が垣間見えます。(写真:鮫河橋地名の由来の碑)


 その3 新御所トンネル。散策の終わり近く、鮫河橋坂へ向かう小道を行くと、突然視界が開け、跨線橋の朝日橋がありました。眼下に中央線と総武線の線路が見下ろせ、四谷側に目を転じるとトンネル入口が3本見えました。総武線に乗って不思議な思いを抱きながらもそこを通った新御所トンネルの入口でした。好みの風景に出くわし、何本もの列車が通り過ぎるのを飽かず眺めていました。(写真:新御所トンネル。右端の線路の先にあるのが旧御所トンエル)
(旧御所トンネルについては別の機会に)

 最後に四谷駅前に到着し、坂巡りは終わり四谷写真写真会館へと向かったのですが、坂巡り第2ステージが待っていました。次回グロブに。
 


『江戸と東京の坂』(著:上野 勝 出版:日本文芸社)を読む

2012年03月29日 | 

 日本坂道学会会長上野勝さんが、1月27日の朝日新聞夕刊に「坂を歩けば江戸情緒」として登場し、彼の一押しの坂として、文京区にある菊坂のすぐ傍にある「鐙坂」を挙げていました。その記事を読んだ後、雪の日に鐙坂へ写真撮影に出掛けた話は2月29日のブログに「東京に、又雪が降る」と題して書きました。
 その一方で、彼の著作をオンライン検索して「江戸と東京の坂」があることを知り、予約をすると既に5人待ち。意外に人気の高い事を知りつつ、本の到着を待っていると3月24日に手元に届き、早速読んで見ました。坂好きな人間には、わくわくさせられる内容の本でした。
  

 プロローグでこう語っています。
 『江戸と東京の坂を隈なく歩き回って二十数年が経つ。明治維新後、東京という街は、江戸時代の街並みに大改造が施されて大変貌を遂げたと思われがちだが、こと道路に関してはさほどの変化はない』と。そこで江戸切絵図と現代地図とを照らし合わせながら、江戸時代から今へと続く道筋を丹念に辿ることが可能となりました。本の構成も江戸切絵図と現在マップのカラフルな図が各章の冒頭に載り、その後に9章からなる坂案内が書かれています。
 







 坂の達人から見て、どの辺の坂が面白く感じられたかを知る意味でも、その9章を全て掲げてみます、
 第1章 本郷    第2章 湯島    第3章 谷中~西日暮里
 第4章 春日~小石川   第5章 関口~目白台   第6章 信濃町~四谷
 第7章 赤坂    第8章 虎ノ門~麻布台   第9章 高輪~三田
 です。
 第3章は荒川区・台東区の坂ですが、第1章から第5章はその殆どが文京区の坂。特徴ある坂が文京区に集中している事が分かります。私は第5章の関口~目白台の坂はあまり歩いていませんから、今後ここを訪れたいとは思っていました。
 第6章以下は断片的にしか歩いたことがありません。この本で紹介される名だたる坂巡りをしようと思いながら、読み進んでいて、ふと3月26日(月)には四谷に行く予定を立てていたことを思い出しました。
 私の中学時代のクラスメイトMさんの夫さんが所属している三修会の第17回写真展が「四季燦々」と題して、四谷写真会館5階で行われ、その案内状を頂いていました。何回かこの写真展を拝見し、山と花の見事な写真の数々に魅せられていた私は、今年も是非と思っていました。
 前置きが長くなりましたが、そんな訳で3月26日(月)信濃町から四谷への散策を楽しみ、写真展へと廻りました。そのレポートは次回のブログで。
 


『冬姫』(著:葉室麟 出版:集英社)を読む

2012年03月27日 | 読書

 我が愛する作家の一人葉室麟が「蜩の記」で、第146回直木賞を受賞しました。まずは”お目出度とうございます”の言葉を贈りたいと思います。2005年に「乾山晩愁」で歴史文学賞受賞、2007年に「銀漢の賦」で松本清張賞受賞後、この4年間は「いのちなりけり」「秋月記」「花や散るらん」「恋しぐれ」がいずれも直木賞候補作品に留まっていました。「蜩の記」は5度目のノミネート作品でした。
 あるインタビューで「主人公は中年で、悲哀があって地味。これが僕の三点セットです」と答えて笑いを誘っていました。今回の受賞作はその通りですが、愛読者の一人として一言付け加えれば、多くの作品には必ず”凛とした、美しい”女性が登場して来ていました。
 
 織田信長の娘冬は永禄12年(1569年)僅か12歳で、その後蒲生氏郷を名乗る14歳の蒲生忠三郎の元に腰入れします。以来寛永18年(1641年)71歳で没するまでの物語です。
 信長の近習として仕えた蒲生氏郷は、才気煥発かつ美貌と風雅の武将として描かれます。信長亡き後は秀吉に仕え、会津42万石の大領を与えられます。文禄4年(1595年)40歳で死去。その後数十年、藩主に嗣子が無かった為、寛永11年(1634年)蒲生家廃絶。冬姫が蒲生家の行く末を見届けるまでの物語でもあります。
 戦国の世が”国盗り”を目指す男たちの戦いであったのに対し女たちの戦いとは?。冬姫の戦いは具体的には、まずは信長の側室との戦いです。その後信長の妹お市との、最後は淀君との戦いが待っていました。
 信長の妻「濃姫」物語は先日テレビドラマとして放映されました。信長周辺の女性達が色々話題になるなかで、題材に取り上げられることの少なかった「冬姫」は何を目指して戦ったのか。
 著者は、強烈な意志で物事を動かそうとする女性として冬姫を描いています。父・信長へのまっすぐな敬慕と夫・蒲生氏郷へのひたむきな愛を胸に、激動の時代を生き抜いた冬姫は、「お江」に優るとも劣らない波乱万丈の生涯を送りました。”女の闘い”も面白く読みました。NHK大河ドラマに登場しそうな予感さえします。

 


渡良瀬遊水池を見学(その2)

2012年03月26日 | 江戸の川・東京の川

 渡良瀬遊水池が位置しているのは利根川の中流部付近。渡良瀬川・思川・巴波川(うずまがわ)の3河川が流入し、すぐ下流で利根川と合流します。
 3300haもの広さを持つ巨大貯水池で、その面積の多くが栃木県栃木市に属します。内部にはゴルフ場などもありますが、建物は一切ありません。第1貯水池から第3貯水池まであり、中でも第1貯水池はハート型をした谷中湖を含み、この谷中湖のことを渡良瀬遊水池とも呼ぶようです。(写真:渡良瀬遊水池の右側にJR宇都宮線、左側に東武日光線)









 パンフレットに書かれた事柄を整理すると
 『谷中村廃村という犠牲の上に築かれた貯水池は、かっては洪水防止がその目的でしたが、現在は洪水対策・都市用水の確保・流水の正常な機能維持などの多目的の役割を担います。しかし、最大の目的はやはり洪水対策です。渡良瀬川・思川・巴波川の洪水をいったん引き受けてここに貯め、洪水時に利根川に流れ込む水量を軽減するのがその最大の目的です。(写真:パンフレット表紙。ハート型の池が狭い意味での渡良瀬貯水池)






 1947年(昭和22年)のカスリーン台風は関東各地に甚大な被害をもたらし、そこから「貯水池化事業」が本格的に行われることとなります。更には20
02年(平成14年)の台風6号のときは遊水池の総貯水留量は7,800万トンに達っし、利根川の水位を1mも下げる効果を上げたものの、思川ははん濫危険水域を上回り、巴波川は漏水が起こりました。治水事業未だ完成せずで、渡良瀬遊水池の治水容量の更なる確保が求められている』そうです。(写真:貯水池風景。背景は筑波山)



         (貯水池内風景)



          (貯水池内風景)



 渡良瀬遊水池を見学後”巨大地下神殿”を目指す途中で昼食となりました。会費1000円しか払っていませんから、簡単なお弁当が車内で配られるだろうと思っていましたが、さにあらず。春日部市で名高い「天下一うどん 味亭」で御膳を味わうことと相成りました。ここ味亭は三船敏郎ゆかりの別荘を移築した日本の伝統的家屋です。その家屋内でこだわりのうどんを食するオマケまで付きました。(写真:移築された建物)


 北千住到着間際、事務局長の女性曰く「こんなに費用を使って会社大丈夫かとよく聞かれますが、この程度の出費で会社は潰れません。秋の台風で瓦が飛ぶような被害に遭われたら、我が社に電話一本下さい」と。会社の宣伝が入ったのはこの一言のみ。政党の機関誌を通じてのイベントでしたから、政党の宣伝もありかと覚悟はしていましたが、それも一切なし。昨年は横浜にある東京ガスを見学したという「ミニ学習会」に来年も参加しようという気になりました。

 


渡良瀬遊水池を見学(その1)

2012年03月24日 | 江戸の川・東京の川

 「ミニ見学」の乗客46名を乗せてバスは、東北自動車道を北上し渡良瀬川を目指しました。主催者の(株)新協建設からは3名ほどの参加で、私たちにお茶やお菓子を配るなどサーブスに努めてくれます。更には、途中、やや年配の事務局長(と名乗った様に聞こえましたが)の女性から、渡良瀬川についての”講義”がありました。簡にして要を得た説明で、敢えてまとめてみます。
 『明治20年以降、渡良瀬川上流にある足尾銅山の生産が増大するとともに、その下流地域の農作物や魚の被害は渡良瀬川流域の広範囲に及びました。栃木県出身の衆議院議員田中正造は帝国議会で被害状況を何度も訴え、明治34年には天皇に直訴しました。被害民の足尾銅山操業停止要求に対し政府は原因は洪水にあると決めつけ、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削と遊水池設置を、一方的に決定しました。谷中村はその大半が遊水池となることとなり、土地の
買収が開始され、幾星霜の変遷をへて明治39年、谷中村は廃村となりました』と。


 とうい訳でしょうか、遊水池へと入っていく前に、旧谷中村の先祖代々の墓を移した「旧谷中村合同慰霊碑」を訪ね、お参りをしました。墓には宝暦三年の文字も見え、お墓が江戸時代から続いていたことが窺い知れるのでした。









      (写真:慰霊碑立つ敷地内のお墓)



 その後バスは貯水池の中へ。展望台に昇り、貯水池を見渡しますが、3.
300ヘクタールという広大な面積の遊水池はただ茫漠としてその果てが見えません。それもそのはず、この貯水池が位置しているのは栃木・群馬・埼玉・茨木の4県の県境にまたがります。その展望台から見える風景は貯水池より山が印象的でした。快晴で強風のこの日、関東平野を一望にすることが出来る高台から富士山を筆頭にして時計方向に目を転じると、浅間山・日光白根山・男体山・筑波山などの百名山が見渡せます。(写真:貯水池内にある展望台)



     (展望台から見る貯水池のほんの一部)




            (富士山)



             (浅間山)




          (日光の山々)   


 展望台を後にして次に向ったのが谷中村跡地。旧村役場を中心にして小高い丘の上にあった民家は跡かたもなく、ただ「旧谷中村跡の碑」と「田中正造翁生誕百五十年の碑」にその名残を見るのみでした。(写真:旧谷中村役場跡地)

 この項、次回ブログに続きます。