マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

江戸城外堀跡を歩く(その1)

2022年05月27日 | 東京散歩

 1ヶ月ほど前の東京新聞に江戸城外堀跡に関する記事が載り、希望者にはそのガイドマップが千代田区立日比谷図書館などで配布されるとも記されていた。早速、私は日比谷公園へと出掛け、その地図を手にした。B2サイズの用紙の裏表に、外堀跡全体の地図や歴史的な事実がびっしり書かれたものだった。外堀跡周辺の史跡めぐりマップも記載されていて、一目見て、外堀を歩きたくなった。
 外堀は比較的身近にあり、何度も目にしているが、その全体像などを把握するのが難しそうに思えていたが、絶好の案内書を手にしたこの機会に集中的にここを訪れようと思い、まずは5月20日(金)に出かけたのだった。(野火止用水散策は1月半ごとに1度位を考えていて、その合間に外堀跡へのつもり)

 その時の様子は次回に綴ることにして、今回は江戸城外堀跡に関すること事柄を概観しよう。
 千代田区、港区、新宿区は、国史跡江戸城跡を歴史遺産として保存継承するために「史跡江戸城外堀跡保存管理計画策定委員会」を組織し、2007(平成19)年度に「計画書」をまとめた。その計画を多くの都民に知ってもらおうと、ガイドマップを作製したのだった。

 江戸城では、1636(寛永13.将軍は家光)年に雉子橋から時計回りに虎ノ門、溜池、赤坂・牛込門、神田川までの延長約14kmに及ぶ長大な外堀が築かれた。近世最大の城郭だった。(下記地図参照。紫色の線で囲まれた部分が外堀跡)
 牛込門から赤坂門までの江戸城西方の台地の堀は45の東国大名に、雉子橋から虎ノ門までの石垣を主体として低地の堀が60家の西国大名に割り当てられた。合計で105家の大名を動員した天下普請だった。私は低地に築かれた外堀跡から歩こうとして、雉子橋を目指したのだった。


6174は神秘の数か

2022年05月20日 | 数学

 最近、『数学、それは宇宙の言葉』という、数学のエッセイ集を読み始めた。冒頭には「どの話もすてきなアイディアと鮮やかな結果で輝いている」と紹介され、50人の数学者が50の話を語っている。第1話が『神秘の数6174』で、ここに書かれた事実を私は初めて知ったのだが、引き算さえ出来れば小学生でも理解可能で、電卓さえあれば多くの人が体験できる事なので、ここで紹介してみたい。







 まず4桁の数で同じ数字だけで表されないものを選ぶ(つまり、1111,2222,・・・9999以外の数を選ぶ)。それから、その4つの数字を並べ直して最大の数と最小の数を作る。それから、最大の数から最小の数を引くという演算をすると新しい数が得られる。新しい数が得られる度にこの演算を繰り返す。
 具体的に説明しよう。

 例えば、今年の西暦年数2022を選べば、この2、0、2,2から作られる最大の4桁数は2220で、最小数は0222。引き算をすると、2220−0222=1998。
 今度はこの1998から出発し、最大数9981−最小数1899=8082。以下同様に、
 8082から出発し8820−0188=8352

 8352から出発し8532−2358=6174
 6174から出発し7641−1467=6174
 ここまで来ると、これ以降、何度演算を続けても6174 が繰り返し現れることになる。この繰り返し現れる数を核と呼ぶことにする。

 他の数で、もう少し見栄え良くやってみる。
 1938から始めてみると
   9831−1389=8442 → 8442−2448=5994
 → 9954−4599=5355 → 5553−3555=1998
 → 9981−1899=8082   →   8820−0288=8532
 → 8532−2358=6174  これも、7回の演算で6174に達した。
 このブログを読まれている方もやってみてほしい。実はどんな4桁の数からスタートしても6174 に到達するらしいのだ。この演算は1949年にインドの数学者D.R.カプレラが考案し、今ではカプレラの演算と呼ばれている。
 ほとんどの4桁の数がこの特定数6174に達するのは何故かと、その理由が考えられ、その証明を通して、どんな4桁の数から出発しても、6174という唯一の核に到達することが明らかにされた。(ここではその証明は省略する)
 実に簡単な演算の結果が面白い、6174を神秘の数と見るかは判断の分かれるところだが、魅力的な結果には違いない。 数学者の思考は2桁、3桁、5桁・・・に向かった。その結果を簡単に記しておくと、
 2桁、5桁、7桁の数では核は現れない。
 3桁の数では核は495
   6桁の数では核は549945 と631764 となる。
 

 さて私の思考は何回の演算をすれば6174に達するかに向かった。それを調べるにはエクセルの演算に頼るのが素早いと考えプログラムを組んだ。その結果1000~9998までの8991個の全ての4桁の数が最大7回の演算で6147に達することが確認出来た。(以下がエクセルによる計算結果。赤字の8991は7回目の演算結果6174が8991個あることを示している。それは1111,2222,3333,・・・,8888,9999を除く全ての4桁の数に等しい。)




 


野火止用水行(その2)

2022年05月13日 | 江戸の川・東京の川

 5月7日(土)、石川さん、菅原さんと私の3人で、西武拝島線玉川上水駅から西武新宿線久米川駅まで野火止用水を歩いて来た。(写真:野火止用水の一風景)
 天気予報によれば7日は7時頃までは雨、それ以降は曇りで、8日は概ね晴れとのことだった。どちらの日にしようか迷ったが、7日にしましょうとお二人には電話連絡した。早く歩き始めたい気持ちが勝ったのだ。朝5時頃からヤキモキしながら雨空を見上げていたが、予報通り7時には雨は上がり、歩く途中では日差しも見えてきた。結果オーライだったが、このような場合、8日(日)に順延しておいた方が選択としては良かったのではと少し反省。玉川上水駅へは前回は多摩都市モノレール線を利用したが、今回は高田馬場駅から拝島駅行き準急を利用した。直通で39分で行けて、このルートの方がより便利だった。
 さてこの日は次の様に進んだ。
 玉川上水駅→小平監視所→野火止用水分岐点→松の木通り→東大和市駅→青梅橋跡→清流復活の碑→九道の辻→台湾料理「秀味軒」→久米川駅
 スタートが9時15分頃でゴールが12時過ぎ。歩数にして13000歩。
 野火止用水は玉川上水と比べると“小川”と呼ぶのが相応しい細い流れの清流で、鯉も小魚も鴨も生息していた。子供が川遊び出来るような場所もあった。人との関係が身近に感じられる川で、その様になるには“清流の復活”があったことを知った。今回は主として清流の復活について綴る。
 ①小平監視所
 小平監視所の役割を誤解していた。ここは羽村から流れてきた玉川用水にゴミ除去などの浄化をして再度玉川上水に流しているものと思っていた。それは間違いだった。浄化後、東村山浄水場に送られ、水道水となるのだった。
 実は多摩川の流れは羽村の下流、昭島市に造られた「多摩川上流水再生センター」で砂ろ過とオゾン処理され、オゾン処理することにより脱臭・脱色・殺菌された水が導水経路でここ小平監視所に送られ来る。1986(昭和61)年から小平監視所の下流の玉川上水に導流されるようになり、清流が復活したのだった。導水経路を経て送られて来たオゾン処理された水は、野火止用水側では青梅橋跡の先で姿を現し、用水の出発点となっている。(上図参照)
 実は野火止用水の清流復活は1984(昭和59)年で、玉川上水より2年早いのが面白い。
 ②松の木通り
 分岐点からは拝島線に沿って東大和市駅先まで緑道が伸びている。気持ちの良い散歩道だが、実は暗渠とは言い切れないように思う。既にかっての野火止用水は完全に埋められてしまい、地中に設置された導水経路からの流水が青梅橋の先から野火止用水として流されているのだ。







 ③青梅橋跡
 青梅街道が渡っていた橋で、東大和市駅は昭和54年3月までは青梅橋駅だった。木の根元に庚申塔の祠と青梅橋の親柱がある。(写真右は青梅橋先の野火止用水。下は野火止用水と交差する拝島線)


 

 ④ホタル生息中
 野火止緑地と呼ばれる辺りでは野火止用水は小川だ。その小川は蛍が生息するように2本のより細い水路に分けられ、一方には金網が被せられていた。この辺りに住む方々の上水への愛情が案じられた。







 ⑤ふれあい橋
 この近辺の橋は平成に入り作り替えられた。小振りな橋も多く見られた。



 ⑥九道の辻
 かつて、江戸道、引股道、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道などの9つの街道の分岐点となっていたので九道の辻と呼ばれている。旧鎌倉街道の中間地点に位置し、ここから鎌倉や前橋までが、ちょうど72Kmであったそうな
 ここを過ぎた頃3人とも空腹を感じ始め、久米川駅近辺で昼食出来そうなお店を探し始めた。


 ⑦台湾料理店「秀味軒」
 
 飛び込みで入ったお店だが、ネットを見ると地元の評判の高いお店。私は好みの焼きそばを注文したが、初めて食する台湾焼きそば、予想以上に美味だった。3人で生ビールで乾杯。本日の散策はここまでで終了した。
 
 


野火止用水行(その1)

2022年05月06日 | 江戸の川・東京の川

 中学時代のクラスメイトに、住所が「埼玉県新座市野火止」という友がいる。「野火止」とは一度聞いたら忘れられない地名だ。あるいは又、所沢ICに向かう車のなかで、「あれが野火止用水」と何度か教えられた。12月20日に出かけた、第3回玉川上水行の時は小平監視所付近で玉川上水と野火止用水が分岐する掲示板を見た。いつかは歩こうと思っていた野火止用水が玉川上水と一体に見え始めてきて、次は野火止用水を歩こうと思った。今回は歩き始める前に色々調べてみた。参考にしたのは『野火止用水 歴史と清流復活の讃歌』と新座市のホームぺージ。




 新座市のホームぺージで、まず知ったことは両上水の開削が密接な関係にあったこと。玉川上水行では書き足らなかった点もあるので、まずはこのことに触れておくと、
 「承応2年(1653)幕府は多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許しました。総奉行として老中の松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いました。難工事になり、信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じて工事を続行させ、承応3年(1654)完成しました。
 信綱はその功績が認められ、領内の野火止に玉川上水の分水を許されました。承応4年(1655)、関東ローム層の乾燥した台地のため、生活用水に難渋していた野火止の地に、野火止用水が開削されました。工事担当を安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。現在の東京都小平市から掘りおこし、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約24キロメートルにも及ぶ用水路です」とある。
 

 松平伊豆守信綱は当時川越藩主で両上水開削の総奉行。両工事の工事責任者、家臣の安松金右衛門は測量に詳しく、玉川上水の開削では実際に玉川兄弟を手助けをしたとも伝えれられている。玉川上水の完成した翌年に野火止用水は完成。玉川上水は開削に2度失敗し、その度に多摩川からの取水点の標高は次第に高くなったいった。その故、台地の野火止に用水が流れる事が可能になったといっても過言ではない。
 「工事開始は2月10日で、その40日後の3月20日には野火止に水が流れてきたと記されています。用水の分水割合は、玉川上水7分、野火止用水3分といわれ、主として飲料水や生活用水に使われました」とも書かれている。

 用水の目的は当初は農業用水よりも生活用水としての使用で、小平市から東大和市・東村山市・清瀬市・東久留米市を経て埼玉県新座市に入り、新河岸川へ流れ込んだ。分水が始まるのは新座市に入ってからで、そこまでは単に通過点に過ぎない。この上水の目的は野火止新田の開発であり、この土地で人々が生活できるようにすることであった。開削に前後し川越藩では農民や家臣を多数入植させたことに見られるように川越藩に多くの益をもたらすものであったことがよく分かる。この用水は別名“伊豆殿堀”とも呼ばれている。川幅は狭いところで1.8メートルあつたそうな。(右上の地図は「野火止用水散策Map 東京編」より)
  明日から下流にある新河岸川を目指して、3・4回に分けて、野火止上水を歩き始める予定。