マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

都高教退職者会「東京歴史散歩」に参加して(その1)

2023年10月29日 | 東京散歩

 10月28日(土)に都高教退職者会主催「東京散歩~門前仲町周辺をのんびりと」に参加してきた。実は2年前の定期総会の席で、私は退職者会の幹事を辞任し、「歴史散歩」の担当者は星野さんと片山さんのお二人にチェンジしていた。昨年も実施されたのだが、私は妻の介護に忙しく参加出来なかった。今年の担当は片山さんで、介護してあげたい妻は既に旅立ってしまっていたので、今年は参加が可能になっていた。
 集合は東西線門前仲町駅1番出口。かっては門前仲町駅へ行くには当然東西線利用だったが、31年前に開通した大江戸線も門前仲町駅に止まるので、全コースシルバーパス利用で出掛けていった。その両駅は地下道で繋がってはいなかったので、地上に出てから東西線門仲駅の1番出口を探すのに苦労する羽目になってしまった。
 1番出口は深川不動堂への参道脇にあり、集合時刻9時半にはほぼ全員が集合。この日の参加は12名だった。
 この日は次の様に廻った。東西線門前仲町→深川不動堂→深川公園→石造燈明台→鶴岡八幡→横綱力士像→八幡橋(橋を潜る)→江戸三十三間堂跡→八幡橋(橋を渡る)→門前仲町駅→懇親会 (写真はいずれも深川不動堂)





  

 深川は母の生まれ故郷でもあり、親しみを込めて耳に入ってくる地名でもあるが。「深川」という駅名はJR線にも地下鉄にもない。どの駅で降りてどこを散歩すれば、母の遊び育った周辺«深川»に到達できるのかは、何度かこの辺を訪れても良くは分からなかった。
 片山さん作成のプリントで少しは分かった気がしてきた。「江東区南西部に位置する深川は江戸時代以前には海や葦の茂る低湿地帯であった。慶長年間、漁民だった摂津出身の深川八郎右衛門がこの地に移住し、埋め立てによってこの地を開拓した。深川の地名は、深川八郎右衛門に由来している。
 深川が発展する大きな要素となったのは明暦の大火で、その後幕府は再開発都市計画で深川築地15万坪を埋め立て、都心部からの寺社の移転、新大橋・永代橋の架橋などを完成させ、深川は江戸の一部として発展していった。切絵図「本庄深川絵図」の範囲は都営地下鉄森下駅から門前仲町駅の周辺である」・・・深川といってもピンポイントの地名ではなく。広大な地域をなしているのだ。

 さて最初に行ったのが深川不動堂。江戸時代には神仏習合によって富岡八幡宮地に別当寺として永代寺が建立された。その永代寺において、成田山新勝寺の不動明王像がしばしば出開帳され、江戸っ子たちの間では大評判になっていた。それが明治初年の神仏分離令によって永代寺は廃寺となってしまい、不動明王像のお出ましはなくなってしまった。そこは江戸っ子の熱意、当地でも不動尊を参拝したいとの願いが叶い、明治11(1878)年に深川公園内に成田山の東京別院(現在の深川不動堂)が置かれることとなった。(その2に続く)


大野さんのお墓詣りへ

2023年10月23日 | 身辺雑記

 昨年12月、享年67歳で亡くなった、元向丘高校同僚大野勉さんのお墓詣りに、千葉県船橋市営の馬込霊園に行ってきた。
 今年の寒中見舞で妻の永眠を多くの方に連絡してから直ぐに、折り返す様に、大野夫人から夫君勉さんの死去の知らせが届いた。まだ60代の若さである。その頃は年賀状のやり取りもしていなかったし、病におかされているという話も聞いていなかったので、非常に驚き、愕然とし、若くして旅立っていった大野さんの死を悼んだ。
 3月にあったか吉池での、花見の宴の席でも皆さんそのことを知らなかった。いづれお墓参りに行きましょうとの話になったが、何方もメールアドレスや電話番号を知らなかったので連絡の取りようがなかった。
 そこで私はハガキを出して大野夫人の携帯電話の番号をお聞きした。電話番号させ分かれば、後はSMSで色々な事が伝え合える。大野さん死去の様子も聞き出せた。昨年の12月22日に、闘病生活2年半の末、癌で亡くなられたとのこと。船橋市馬込霊園にあるお墓を新しく立て直しする予定なので、お墓が完成したら、再度連絡しますとのことだった。
 お墓が完成しましたとのメール連絡は7月末に届いた。ただ、私は妻の銀行口座の名義変更の事務などで身動きがとれない状況だったので、打合わせの役割を草野さんにお願いすると快諾して下さり、それ以降の連絡は大野夫人と草野さんとの間でなされ、10月22日(日)のお墓参りが決まった。飛鳥山花見の宴の参加者を中心にご案内を差し上げると最終的に11名の参加となり、大野夫人と併せて12名で、昨日お墓参りをしてきた。


 私は1979年に向丘高校に赴任したが、赴任すると直ぐ新一年生の担任となり、その同じ学年の担任に、1年前に新任として向丘高校に赴任してきた大野さんがいた。草野さんも大野さんと同時期の新任で、担任団の一員だった。大野さんの人柄は忖度とうい文字とは無縁の、自分の思ったことを率直にいう人だった。その面では古参教員などからは«生意気な奴»と煙たがられていたかもしれない。しかし13歳も離れた私とは、帰宅途中で何度も一献傾けるほど気が合い、山に一緒に行くようにもなった。剣岳・巻機山・北岳・北穂岳・雲ノ平など一緒に行った名山は10を下らないだろう。多くの山行や旅行・温泉も共にした。スポーツマンでもあり、テニスやバトミントンは教員仲間で1・2を争う実力者。彼が軟式テニス部、私が陸上部の顧問として黒姫での合同合宿にも何度も行ったこともあった。そんな健康的で活動的な彼を知っているだけに、吉池での席でも、異口同音に«どうして»の声があがった。
 ただ、彼も私も向丘を去り、他の何校かに転勤するうちに、赴任先の新しい仲間と一献の会が増えるにつれて、彼と会うことが少なくなっていった。

  さて昨日、東武アーバンパークラインで船橋から3つ目の馬込沢駅が下車駅。この駅に降り立ったことのある人は殆どいなかった。それか故か何名かの方が遅刻をしてきた。そこから徒歩で霊園まで20分以上はかかっただろ、ほとんど畑だったところに住居が建てられ、霊園が造られた。大野家の墓も土台から立て直され、墓石前面には«穏»の文字が刻まれていた。お花は霊園内で購入する予定だったが、大野夫人が朝早く来て既に供えられていた。お線香も大野家のほうで用意されていた。参列者は皆それぞれの思いで大野さんを偲び合掌した。お墓と集合写真を撮影し馬込沢駅に戻ってきた。駅周辺には飲めそうなお店は「庄屋」のみ。その場は期せずして「大野さんを偲ぶ会」となった。



 


差額ベッド代は払わずに済ませられるのか

2023年10月17日 | 医療

 自分の健康問題や介護問題に以前より遥かに関心が向くようになってきている。中でも金銭が絡む「差額ベッド料」は特に気にかかることのひとつだ。折しもこの問題を「しんぶん赤旗日曜版」が6月4日号で、朝日新聞が9月9日(土)の朝刊で取り上げていて、それを読んで理解が進んだ。
 入院した時に「大部屋は空いていないので、1日8580円(消費税込)の個室になります」と言われ、出来れは、安い部屋への入室を希望するにもかかわらず、(大部屋の空きがあるに)より料金の高い部屋への入院となってしまった話を良く聞く。当然この費用は公的医療保険対象外である。
 「差額ベッド」問題に長年かかわって来た「ささえあい医療人権センターCOML」の山口育子理事長はこう語る。「政府の答弁書には『緊急を要し、患者の選択によらずに特別室に入院させた場合は、差額ベッド料を求めてはならない』と書いてあります。その上で患者の希望する病室に空きベッドが出たら移すとうい対応が想定されます」と。この通知があれば患者側に有利にものが進むはずである。(写真:ささえあい医療人権センター理事長山口育子氏)
 ところが、そうは問屋が卸さない、らしい。山口さんは続ける。「ここで重要になるのが『同意書』の存在です。厚労省は、『設備や料金について明確かつ懇切に説明した上で、患者の同意が得られる場合には、料金を徴収できる』としています。同意書があれば『患者が納得した』と見なされるのです」と。厚労省の通知は、病院の用意する『同意書』の前では絵に描いた餅になってしまうのだ。だから『同意書』にサインしなければ良いのだが、、同意を拒んだら医療者との関係が壊れてしまうのではないかと不安になり、サインに応じてしまう患者は多いはずだ。
 赤旗日曜版ではこんな例が紹介されていた。黒田節子さんという方が「個室だと経済的に大変なので、大部屋に移してほしい。厚労省から『大部屋がいっぱいだという理由では差額ベッド料を請求できない』という通知がきています」と看護師に訴えると、看護師長にまで話が通じ、最終的に差額ベッド代を払わないで済んだそうな。厚労省通知を知っていることを示すことが大事なのだ。
 さて、私が当事者になった時にどうするか。方針は既に決めてある。私(私の代理人かもしれないが)は「ささえあい医療人権センター」(本部は文京区本郷3丁目にある)に相談し、更には、朝日新聞と日曜赤旗のこの記事の切り抜きを病院係者に示すのだ。
  最後に山口さんは次のように語った。
 「医療者に依存するのではなく、人間関係を良好に保ち、うまくコミュニケーションを取る。『差額ベッドの支払いに納得できない』という病院にとって困るメッセージを人間関係をこわさずに伝えられるのか。患者が『賢くなる』努力とコミュニケーション能力も問われているのです」・・・「受け身ではない、伝えられる患者におなり下さい」と語るのだが、これは生易しいこことではない。


「むずむず脚症候群」(別名レストレスレッグス症候群)ではなかった

2023年10月09日 | 身辺雑記

 眠れぬ夜がやって来たのは今年の2月頃だった。その原因は多分心理的なものだったのだろう、たまたま、泌尿科の細部先生に相談すると睡眠導入剤を処方され、良く眠れるようになった。
 ところが4・5月頃から寝床に入ると脚の痙攣が始まる症状が出始めた。2011/01/27のブログに書いた“むずむず脚症候群”(別名レストレスレッグス症候群)が再度出始めたと思った。それも以前より激しく頻度も多い形で。それが睡眠を妨げた。そこで、今度は掛かりつけ医の谷口先生に相談すると、漢方薬68番を勧められ飲み始めたが、効果は薄かった。脚の痙攣が激しくなり、30秒に一度くらいの頻度で痙攣(ぴくぴく)が起こった。これは「ㇾストレスレッグス症候群」の専門医に診てもらうのが良いでしょうかと谷口先生に相談すると、適切な医師を紹介して下さるとのことだった。しかし、今後の成り行きを考え、自分の所属している「都立学校教職員互助会」付属の「三楽病院」の方がより便利・有利ではないかと思い、三楽病院の「精神科」に予約を入れた。
 担当の先生は私の経歴から始まって病歴・現在の精神状態に至るまで1時間以上にわって質問をされ、私が述べた「レストレスレッグス症候群」については、そうではないように思えます。」と話された上で、デエビゴ錠(所謂睡眠導入剤)1錠とリポトリール錠(発作を抑える薬)2錠を処方してくれた。この薬の組み合わせが大当たりで、これ以降2週間、途中起きることはあっても、私に安眠が訪れて来た。
 2週間後の再来院の際、私がお礼を言い終わらないうちに、「たまたま、貴方に合った薬だったようです。ただ、貴方の病名は「周期性四肢運動障害」で「レストレスレッグス症候群ではありません」。ただその2つは兄弟の様な関係にあります。「レストレスレッグス症候群が、かゆいなどで本人が勝手に脚を動かしてしまうのに対し、「周期性四肢運動障害」は不随意運動によって脚のピクピクが周期的に起こり、睡眠を妨げるのです。処方はほぼ同じになります」とのお話だった。
 私の話の眠りの様子から医師は«発作を抑える薬»は1錠で良い判断したらしく、寝る前の薬は“発作を抑える薬は1錠にします”と言われた。しかし私は少し躊躇した。1錠で眠れなかったとき時は他の曜日の薬をも飲むわけで、薬が足りなくなるかもしれないと判断し、やはり2錠にして下いと言った。この辺は医師と患者の合意で決めるらしい。兎も角、発作を抑える薬は2錠のままだった。
 帰って来たその日1錠飲んで睡眠に入ったのだが、眠れなかった。2錠を依頼しておいて良かったと胸をなれ下した。兎も角今は三楽医院処方の薬で比較的良く眠れている。


妹からの誕生日プレゼント

2023年10月04日 | 身辺雑記

 8月だったか、妹が夕食持参で、わが家にやって来た時に、一枚のパンフレットを私に見せながら、「お誕生日のプレゼントをするからどの色が好み?」と聞いて来た。古希や還暦のお祝いには互いにプレゼントを贈ってはいたが、特別の誕生日ではない時のプレゼントに私が吃驚すると、妹は言った。「今までだったらサッチャンからの誕生日プレゼントがあったでしょうけれど、これからはそうはいかなくなってしまったから、私からプレゼンを贈るよ」と。その心配りが非常に嬉しかった。
 パンフレットには牛革のスマホポシェットが幾つか載っていたが、私は躊躇わずにオレンジ色のポシェットを指さした。10月1日で満82歳を迎えてしまった。体力の、その中でも特に足の筋力の衰えを実感し、脚こそわが命と思い込んでいた私は、寂しく無念の思いにかられ、落ち込むことの多い日々だが、このプレゼントには嬉しいだけでなく元気付けられもした。人気のある製品らしくまだ手元に届いてはいないが心待ちしているところである。
 身内の兄が書くのもなんだが、妹は心優しく親切で、人の世話を焼くのが好きな人柄である。多くの人に愛され、「宏子さん、宏子さん」と頼りにされている。良く、仲の良い兄妹ですねと言われることが多い。性格が似ている面もある。中学校卒業以来、お互いに助け合わなければやっていけない家計環境も大きく影響していると思う。妹は中学を卒業すると金融機関で働き始めたが、一般的に金融機関は他の職より給料の面で恵まれており、私が勤めを辞めて大学に入学してしまってからは、妹の給料が大きく家計を支えていたのだ。(私も奨学資金を受け、家庭教師で稼いではいたが)。母も働いていたが、それだけでは不十分で、兄妹が力を合わせて家計を支えてきた、いわば戦友だったことが、仲良く過ごしてきた根っこにあると思っている。
 妹が務めた金融機関での仕事は、お客さんと接する窓口業務で気を遣わねばならないことが多く、数年の勤務でそこを辞め、その後製図の仕事に従事する会社に転職し、結婚後も子育てが一段落すると又働き始めた。妹も私も長期に亘って働いて来たのだった。妹の子供3人ともそれぞれ結婚し、4人の孫にも恵まれ、かっては海外旅行が趣味だったが、今は夫婦して御代田の別荘生活を楽しんだり、東急ハーベストクラブで過ごしたり、あちこち国内旅行したりの恵まれた生活をしている。その様な余裕が、私へのプレゼントにも向かう気持となって現れたのだろうと思っている。