マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

白鷺か?コサギか?

2020年08月31日 | 自然

 8月の25日(火)と27日(木)の早朝散歩は不忍池に行ったが、行き帰りとも都バスを利用した。こうすると不忍池で過ごせる時が増え、しかもゆったり出来る。池の周りをたった一周しただけで帰宅を急いでは勿体ないと思い始めていたのだ。
 27日、のんびりと景色を眺めながら池の周りを散策していたとき、数人の方がカメラを向けている場面に遭遇した。何だろうと池を覗くと、可愛らしい白い鳥が目に入ってきた。その時は珍しく動画撮影をした。
 現在、LINE(以下ライン)でグループには2つ入っている。その中の一つ「LAST源氏」の皆さんにその動画を投稿すると概ね好評だったので、気をよくして翌日には10数名の「友だち」に動画送信をした。「素敵です」、「珍しい写真をありがとう」、「本当に良く撮れていますね」、「こんなのナカナカ撮れないですよね」等などの返信が多々あり嬉しくなった。







 ただこの鳥さんは何鳥なのか?意見がいろいろ分かれて、白鷺ですか?という感想とコサギですか?との意見に分かれた。私にはとても分からない話なので、大泉高校の元同僚で、生物が専門の石川さんに写真添付のメールを送信した。(パソコンで動画を送ることは容量の問題で難しい。ここで動画をお見せ出来ないのは残念だが、私はYou Tubeに投稿できるまでに至っていない。その点でもラインは動画送信も簡単にでき、ラインの優れた点の一つだと思う)






 石川さんからの返信内容は2っあった。
 (1)「写真のサギはコサギです。足指の黄色が決め手です。嘴の黒色も大事な特徴ですが、他のサギでも季節によって黒くなります。コサギは年中黒色です。」
 白鷺と呼ばれがちだが、コサギが正解で、黄色い足指がポイントだった。
 (2)「写真をよく見ると尾の辺りが毛羽立っているように見えますが、夏にだけ見られる繁殖用の飾り羽です。換羽で落ちたのを昔拾ったものの写真を添付します。これでは飛ぶのには役立ちません。」その毛羽の写真も添付されていた。(上の写真)
 石川さんは「日本野鳥の会々員」で、鳥の声を聞くと鳥名がわかる、その道の専門家。そこで安心して(1)をラインに送信した。
 コサギと知って、「覚えました!いつか会えることを期待して~」、「新しい事を知るのは楽しいです」などの返信を頂きこれまた有難かった。


『じんかん』(著:今村翔吾 出版:講談社)を読む

2020年08月28日 | 読書

 “人間”は“じんかん”とも読める。これを書名としたのが本書だ。
 些か旧聞に属するが、6月27日(土)のこと、朝日新聞の読書欄を拡げながら妻は「この本面白いわよ」と言った。そこには大矢博子氏の評による『じんかん』が紹介されていた。実は妻は『小説現代4月号』に掲載された『じんかん』を読み終えていて、雑誌を私に手渡してくれたのだった。
 読み始めると実に面白かったが、一挙掲載700枚の本書、直ぐには読み終えられそうもなく、返却予定日が翌日に迫り困った。到底読み終えられないと語ると、「単行本の方は予約殺到のはずだが、雑誌の方は予約少ないはず」と言ったので、区の図書館の予約状況を調べると、在庫が2冊ある雑誌のうち1冊は予約ゼロ。そこでその雑誌を借りて読み出し、再読も出来た。(現在、文京区の場合単行本『じんかん』は90人待ち) 
 戦国時代の武将・松永弾正久秀の物語である。久秀についての私の理解は、主家乗っ取り・将軍暗殺・東大寺焼き討ちの三悪を犯した大悪人、程度しかなかった。しかし、本書を読むと久秀が非常に魅力的な人物に思えて来るのだ。祐筆として三好長慶に仕えるまでの久秀の出自などは不明で、その部分は作家今村翔吾氏の大胆な創作だろが、九兵衛と名乗った少年時代から堺で活躍するあたりまでの物語が特に面白かった。
 物語は、天正5(1577)年、久秀が織田信長へ2度目の謀反を起こしたという書状を、小姓狩野又九朗が信長に取り次ぐところから始まる。以降、物語は信長が久秀のことを小姓に語って聞かせるという構成・手法を取りながら進んでいく。 
 久秀は九兵衛という名で登場してくる。青年期までの彼に大きな影響を与えた人物が4人いた。多聞丸・本山寺和尚宗慶・新五郎(後の武野紹鴎)と三好元長だ。
 九兵衛と弟の勘助は京に近い西岡で生まれたことになっている。幼くして父を殺され、母を亡くし故郷を出ていった兄弟。二人は多聞丸をリーダーとする小集団に救われ以後行動を共にする。多聞丸の夢は「いつか自分の国を作る」こと。多聞丸とその仲間が無残に殺され後、九兵衛は多聞丸の夢を実現しようと心に誓う。
 九兵衛の聡明さを見抜いたのは本山寺和尚宗慶だった。色々尋ねる九兵衛に宗慶は多くのことを語って聞かせた。寺は阿波の情報基地であること。その御方三好元長の理想は“武士を残らず駆逐すること”等々。数日後三好元長にお目通りを願う九兵衛に和尚は「堺へ行け」と。

 宗慶の紹介で九兵衛兄弟は堺に住む武野新五郎(後の武野紹鴎)を訪ね、そこで暮らし始める。何事にも興味を持ち、達筆な九兵衛の賢さに驚いた新五郎。九兵衛は新五郎を兄のように慕い、彼から茶を教えてもらったりする。新五郎が堺を去るときには“平蜘蛛”をもらうほど九兵衛は愛されていた。
 九兵衛は堺を訪れた三好元長に目通りかない、直接その夢を聞かされた。「武士を駆逐し、民が政を執る世を作りたい」と語る元長に、九兵衛はこの人に会いたいと思ったのは間違いではなかったと確信し、元長の「来るか」に、「はい」と答え、共に夢を追うことになる。
以後九兵衛(松永久秀)は三好元長に家臣として仕え、元長亡き後は長男三好長慶を補佐していくことになる。

 永禄11(1568)年、織田信長は足利義昭を擁立して上洛。久秀は信長に降り、名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出し、大和の支配を認められる。
 元亀3(1572)年、信長に対する1度目の反乱。織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏。
 天正5(1577)年、2度目の反乱。反信長勢力と呼応して信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確にする。 
 落城寸前、織田信忠からの、平蜘蛛の茶釜を差し出せば降ることを認めるとの伝言はこれを拒否。天平5年10月10日、平蜘蛛の茶釜もろ共、梟雄松永久秀は信貴山城にて焼死。

 自分に背いた者には容赦なく、徹底的に押しつぶした信長。その信長が何故久秀の反乱は許したのか。平蜘蛛さえ差し出せば2度目も許そうとしたこととなる。何故か?私はこの物語でそこが一番知りたかった。
 信長は又九朗にこう語るのだ。
 朝倉・浅井連合軍に挟み撃ちされた合戦で信長は敗走したが、久秀の機転により九死に一生を得た。織田軍が西近江を抜けて京へ帰る交渉も久秀がやってのけ窮地を脱した。一夜信長と久秀は夜を徹して語り合った。信長は久秀の過去と目指すものを知り、自己弁護しない、懐深い人物に好感を持った。二度とも、背いたのは己を捨てても主家三好家を守ろうとした為と信長は推測し、それ故許したのだ、と。
 久秀の前半生を読み進めて来た私の胸にすとんと落ちるストーリだった。本書は残念がら直木賞受賞には至らなかった。

 間もなく『麒麟がくる』が再開される。吉田鋼太郎演じる松永久秀を今までとは違った思いで見るだろうな、と思う。久秀の死を明智光秀はどこで、どんな思いで受け止めるのか興味津々である。
 
 

 
 



赤水門の上を蒸気機関車は走っていたか?(その2)

2020年08月25日 | 江戸の川・東京の川

 以前のブログを調べると、前回荒川知水資料館を訪ねたのは2011年3月19日のことだったから、9年以上の前のことになる。その時はクロスバイクで行ったが、8月18日(火)の今回は南北線を利用することにした。志茂駅徒歩15分とあった。
 「志茂銀座」通りに沿って進めば最短だったが、通りを離れ隅田川を目指し、川に突き当たって左折し川沿いを上流に進んだ。予約時刻より早めに着いてしまったので、赤水門の対岸にある小公園を散策した。ここから上流側を眺めると、荒川が滔々と流れていることが良くわかる。(写真:荒川上流側を望む)





 10時少し前資料館玄関に立つとまだ戸は開いていない。インターホーンを押すと係員到着。現在は、予約者が到着するごとに戸を開けるようになっているらしい。資料は1階から3階までに展示されているが、企画展「ありがとう 岩淵水門」は2階を中心に展示されていたので、まずは2階へ。この企画、本来は4月26日までだったのだが、コロナの影響で資料館は一時閉館となり開館後8月まで延長となっていたのでラッキーだった。(写真:青水門)
 ①数字で知る岩淵水門(その歴史を中心に)
 ②台風19号接近時
   ③水門に携わる人々
 ④岩淵水門を体験しよう
   などのコーナーが設置されていた。


 今回見学の最大の目的はこれら多数の写真の中から赤水門の上を走る機関車を見つけることだった。慎重にすべての写真を見たがそれらしき写真はなかった。ただ荒川放水路の建設を指揮した青山土(あきら)のコーナーに右写真が展示されていた。赤水門の上に電気機関車!かと思ったが、はっきりとは確認できない。




 機関車よりも昨年の台風19号時の水門の役割に興味がいった。その時の写真が展示されていて、荒川の増水の様子がよく分かる。青水門が閉門され隅田川は危うきを逃れたのだった。(右は増水時の、下は平常時の荒川)






 その重要性が認識された岩淵水門。感謝の声も多数寄せられていた。「信頼しています」「感謝しています」「守ってくれてありがとう」など多数の声が寄せられたそうな。
 結局、赤水門の上を電気機関車が走っていた写真は見つけられなかった。
 3階には学芸員かと思える方がいたので聞いてみた。造られた当初、水門は上下ではなく左右に開閉され、それを動かすのに用いられたのは電気機関車だったとの話。具体的にどのように動かしたかはイメージ出来なかった。
 
 


赤水門の上を蒸気機関車は走っていたか?(その1)

2020年08月22日 | 江戸の川・東京の川

 7月19日(日)の東京新聞に<首都残影>(14)として旧岩淵水門が紹介されていた。1924(大正13)年に完成し1982(昭和57)年まで使用され、赤水門の愛称で呼ばれる旧水門だ。岩淵には赤水門と青水門の二つがあるが、老朽化した赤水門の役割を引き継いだのが青水門だ。
 記事にはその両水門が紹介されていた。 
 現役の青水門の活躍は昨年10月の台風19号上陸時で、荒川は増水し青水門は12年ぶりに閉門した。もし水門がなければ隅田川の水は堤を越えていたと見られると伝えていた。
 赤水門については2つのことが記されていた。「幅9メートルの通水路が五門並び、30トンの重さの鉄扉を上げ下げするために水門の上を蒸気機関車が走り、見る人を驚かせた」と。
 「水門の横の緑地に<草刈の碑>が立っている。・・・1938年から6年間、水門の両岸で、農家の若者の士気を高めるため、全日本草刈選手権開会が開催された。・・・」(写真:下が草刈りの碑)
 

 <草刈の碑>については7月27日(月)に岩淵水門そばの「都市農業公園」で草野さんと会う約束にしていたので、その前に見学に行った。赤水門の上を歩けるとは迂闊にも知らなかった。橋のようにも見える水門を渡るとその向こう側は小公園になっていて、荒川の上流方面が良く見え、<草刈の碑>も立っていた。全国から選ばれた精鋭が釜を手にどれくらいの草を美しく刈れるかなど技術と体力を競ったそうな。(写真:小公園へ続く“橋”)
 気になって仕方がなかったのが「赤水門の上を蒸気機関車が走った」の記事だった。紙面へのご意見、ご要望はメール下さいと書かれていたので、東京新聞に「水門の上を蒸気機関車が走る」部分の出典をメールで問い合わせたが梨の礫だった。止む無く「荒川知水資料館」に電話すると、「蒸気機関車が走っていたのは誤りです。電気機関車が使われていました。それらしき写真が展示されています」という回答だった。それでは荒川知水資料館に見学に行こうとすると、現在は予約制とのこと。そこで18日(火)10時に予約し、出掛けていった。


『病魔という悪の物語』(著:金森修 ちくまプリマー新書)を読む

2020年08月19日 | 読書

 本書は1869年に北アイルランドで生まれたメアリー・マローンという女性の生涯を辿った物語である。彼女は料理がとてもうまい人だった。子どもの面倒見もよかった。料理に存分に腕をふるい、雇い主にも信頼されて、そのまま生活していったとすれば、貧しいながらも、それなりに幸せな人生を送ったはずだった。
 13,4歳でアメリカに渡った後、37歳になったとき彼女の運命は突然暗転する。腸チフスの無症状感染者であることが判明したのだ。
 判明に至る経過はこうだ。

 1906年のこと、ニューヨークに隣接するロングアイルランド・ベイの貸別荘で、ある銀行家一家は6人の腸チフス患者を出した。別荘のオーナーは衛生工学の専門家ソーパーに調査を依頼。彼は数週間前に銀行一家の賄い雇婦だったメアリーの以前の経歴を調べた。すると、彼女を雇った8家族のうち7家族から腸チフス患者が出ていたことが分かった。
 ソーパーは彼女を訪ね、腸チフス感染の可能性があるからと、大便などのサンプル提出を依頼するが、彼女は猛反発。彼女に腸チフスの兆候は何らなく、身に覚えのないことなのでその反発は当然だった。健康状態が良好でありながら菌を持ち続ける健康保菌者という概念は当時の医学界では周知のものではなかった。今でいう無症状感染者(この本でもキャリアーと呼んでいる)だ。アメリカでその存在を確認された最初の健康保菌者だった。
 2度目の訪問時には怒号に似た言葉を浴びせられたソーパーはニューヨーク市の衛生局に相談する。衛生局にいたベーカーは最終的には5人の警官の力を借りて彼女を拘束し、伝染病を専門とする病院に連れていく。そこでの便検査の結果、彼女から高濃度の腸チフス菌が発見された。この検査結果を受けて、当局はメアリーをノース・プラザー島にあるリヴァーサイド病院に入院させた。
 この島は重く恐ろしい伝染病に罹った人たちを一定期間拘束する隔離島だった。彼女はそれから3年間、病院近くのバンガローで生活するはめとなってしまう。体内の菌を排除するためにいくつかの薬剤を投与するも菌は除去出来なかった。彼女は菌の住みつく可能性の高い胆嚢の摘出手術を勧められたが、これは拒んだ。自分がチフスの保菌者だとは信じ切れなかったからだ。

 1909年6月、メアリーは自らの解放を求めて訴訟を起こす。そのことが皮肉なことにメアリーの存在を世に広く知らせることとなった。ニューヨーク・アメリカンという新聞の挿絵とともに一面を飾ることとなる。以降彼女は「チフスのメアリー」と呼ばれるようになる。
 1909年7月、今まで通りの隔離との判決が下った。ところが判決の3ヶ月後、衛生局長はメアリーの解放を決めた。今後料理をしないとの誓約書を書かされて。キャリアーは彼女ひとりではないということが一般大衆にも知り渡り始めたころだった。
 1915年、ニューヨークで腸チフスの集団感染が発生。この発生原因を突き詰めていくと賄い婦として働いていたメアリーに辿りついた。メアリーは再逮捕され再びノース・ブラザー島に隔離されるに至る。1回目に同情的な世論も今度はわけが違った。誓約を破り監視の目を逃れ、偽名を使って仕事をしていた。彼女は意図的に、人に病気を罹らせることを厭わないと見なされたのだ。二度目の隔離は、彼女の死まで続くこととなる。

 著者はこの物語は単に彼女一人だけの話では終わらず、私たちに重大な問いかけをしていると書く。
 1913年、ニューヨークのキャリアーは106人だった。その中で一定期間隔離された人もいた。しかし無期限に隔離されたのは彼女だけだった。何故彼女だけが長期間隔離されねばならかったのか。
 この様になった背景として、著者はメアリーの社会的条件が反映していたと考える。アイルランド系移民、カトリック、貧しい賄い婦、女性、独身・・・。これらすべてが複雑に重なり合いメアリー個人の人生を不利にするように働いていたと。 
 ただ、島でメアリーは完全な孤独ではなかった。気の合った看護師オフプリングとは親友となった。2度目の隔離のときは病院の有償の雇われ人になった。1918年からはその日のうちに島に戻ることを条件に島をでて自由にショッピングなどをすることが許可された。外出先で知り合ったレンぺ一家と親しく付き合うことにもなった。この島での暮らしのなかで、それなりの幸せと、生きがいを見つけていたかも知れないと著者は書いている。著者はメアリーを一人の気丈夫な善良な女性とも見ている。

 読み終えて、私はニューヨーク・アメリカンという新聞報道が大問題だったと思う。メアリーを「チフスのメアリー」と呼び、人を死に至らす毒のような料理を平然とする女、そのイラストがメアリーのその後の社会的イメージを人々の与えてしまったのだった。コロナ禍の今、これに類似することは現代でも起こりうることだろ。