マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

日比谷野音から国会前へ

2015年07月30日 | 闘い

 7月28日(火)夜、安全保障関連法案に反対する集会が、日比谷野外音楽堂で開かれ、1万5千人(主催者発表)が参加し、「違憲の戦争法案を廃案に」を訴えた。主催は「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」。東京新聞によれば落合恵子・神田香織(講談師)・小山内美江子(脚本家)らが熱弁をふるったとあった。集会終了後は国会へデモ行進した。(下の写真も含め、デモ行進する人々)


 

 私が定刻より少し遅れ会場付近に到着すると、デモの先頭は既に出発していた。慌てて、「都高教」の緑の旗を目指しデモ隊を追いかけ、都高教本体に追いつくと、そこには、我が愛する後輩の、松重さんと五郎丸さんが並んで歩いていた。二人は丁度私の事を話題にしていたらしい。そこへ私がにゅ~と顔を出したので、二人は大変にびっくりし、「わあ!」と幽霊にでも出会ったような大声を上げた。
 三人で並んで行進し、暫く進んで、私は自らの所属組織「都高教退」の幟を求めて、かなり後方まで下がったが幟を発見できず、残念な思いで元へ戻ってきた。後で知ったことだが、都高教退は先頭付近を行進していたのだそうだ。この日は夜になっても気温30度以上。汗だくのデモ行進となった。
 参議院面会所前や衆議院面会所前では、民主党・共産党・社民党などの議員たちが総出で出迎え、私達を激励してくれたが、逆にデモ隊からは「修正案など出すなよ」との叱咤激励の声も飛んだ。行進しながらのシュプレッヒコールには「違憲法案反対」「安倍は退陣」「戦争反対」などの声が何度も繰り返された。(写真:面会所前の、民主党や共産党の議員たち)

 「永田町駅前」で流れ解散。松重さん・五郎丸さん・私の三人で食事をしましょうとなり、永田町駅構内で、飲食可能なコーナーを発見した。エキ地下にこのような場所があるとは3人とも全く知らなかった。三人は「日の陣」の日本蕎麦を食した。私は26日~8月1日まで、ピロリ菌の除菌療法を受けている最中なのでアルコールは不可と、思い込んでいてノンアルコールを別途注文。
 松重さんは私が向丘高校にいたころ新任として見え、以来29年の昵懇な仲。一方、五郎丸さんとは私が鷺宮高校在任中に新卒として赴任され、以来17年の親しき間柄。偶然にもその二人は現任校で一緒となり、本音で語り合える同僚となっている。そこで、この親しき間柄のトライアングルは何度も一献を傾け、お喋りを重ねて来ていた。私が飲酒可能ならば、もう少し長く引き留めただろうが、二人とも翌日は出勤とのこともあり、軽い食事のみで分かれた。
 
 8月30日14:00~15:30には、国会前で10万人集会が予定されている。かっての60年安保闘争時には、連日数万人を超えるデモ隊が国会を包囲し、時の岸内閣総辞職の引き金となった。30日に10万人がデモ行進すれば、違憲法案をゴリ押ししようとする安倍内閣への大きな打撃となり、廃案に追い込むことが可能かも知れない。友達を、妻を、夫を、元同僚を誘って国会周辺に足を運びましょう。私はメールでも参加を呼びかける積りだ。


夏休みラジオ体操終わる

2015年07月28日 | 身辺雑記

 「ラジオ体操終わる」とのタイトルを付けてしまったが、これは駒込富士神社の夏休みラジオ体操は今日で終了したという意味で、NHK全国巡回ラジオ体操は8月31日まで続けられ、文京区ラジオ体操会連盟主催のラジオ体操は7月20日~7月31日まである。ご近所の町会「神明町会」も7月31日が最終日。
 富士神社の夏休みラジオ体操は今日が最終日で、参加者の数を目測すると250人は優に超えていた。こんなに参加者が多いのは珍しい。本郷通り沿いにマンションが数多く建ち、そこからの家族連れが増えたと話題に上ったこともある。定年を迎えた中高年やご婦人の参加も以前より多数に上る。
 顔見知りの姿も多い。駒込富士前町会の役員を始め、隣接する町会の知り合いの方や都議会議員や区議会議員の姿も見られた。前回のブログに登場したOさんもご一家でいらしていた。老若男女が多数集うラジオ体操。
 体操終了後、ご褒美を受け取る小中学生の長蛇の列が出来ていた。昔と違って皆勤でなくても、今日列に並べば良いのだ。大人も“出席カード”なるものを肩から下げて参加していて、幼い昔に帰った気分になるのだろうか。余ればお菓子は大人にも配られる。
 政治の場では大変な事態が進行して、私も今夜はデモ参加予定だが、この時この場では、長閑で、平和に感じられる時が一瞬流れていた。

 ただ、ラジオ体操としては、今までとは違った“異変”が起こっていた。2つだけ記すと、
 (1)私は北海道にいて参加出来なかったが、7月20日(月)の、教育の森公園でのラジオ体操は6時20分から放送が流れ、ラジオ体操が始まった。小林さんと熊坂さんは「練習かと思った」そうだが、これが本番で、テープを流したのだった。6時30分からのラジオの時間帯に合わせたラジオ体操無かったらしい。これは初めてのことだと思う。

 (2)7月26日の日曜日に、富士神社に30名程度の方が現れたそうな。富士神社のラジオ体操参加者は日曜日が休みであることを知っているが、そのことを知らない方が多数いて、空しく去っていったようだ。
 そこで掲示物にはどの様に書かれていたのか、私は、近隣の町会の掲示物を見て回った。神明西部町会(会場は富士神社)・神明町会(神明公園)・神明上町会(天祖神社)の掲示物には26日(日)はお休みの説明があったが、我が富士前町会の掲示は「期間・7月21日(火)~28日(火)」とのみ書かれていた。これでは26日に参加者が現れても不思議はないし、丁寧な説明ではない。この点を富士前の住民の方に指摘されたので、来年に向けて、富士前福寿会々長は町会へ一言申し伝えるだろう。

   
 (富士前町会の掲示)                (神明西部町会の掲示)


       (神明町会の掲示)


真夏日に谷根千散策

2015年07月27日 | 東京散歩

 昨日の7月25日(土)、3年前に同じ職場で1年間ご一緒した、Aさん・Oさん・私の3名で谷根千を散策し、一献傾けた。
 Aさんは、現在は文京区内の私立高校勤務なので土曜日には文京区まで通勤して来られる。Oさんは公立中学勤務で文京区在住、私も文京区に住んでいる。ということは、土曜日は3人とも文京区内にいる可能性が高いこととなる。それも我が家を円の中心にして半径1km以内に。そこで、6月~10月の土曜日の午後を選んで、3人で谷根千などを散策しませんかと、私はお二人に提案していた。
 一番お忙しいOさんから、7月25日(土)ならば都合がつきますとの返信メールが来て、25日の散策が決まった。暑い日の街歩きとなるかも知れないなとは思っていたが、まさか猛暑日が予報されるとは!しかし、25日はやや雲の多い日で猛暑日とはならなかったが、それでも最高気温は33度台の真夏日、暑いなかでの散策となってしまった。
 白山のアオアシカフェ→光源寺→森鴎外記念館→(島薗邸)→伊勢五本店→須藤公園→中央図書館谷中分室→(朝倉彫塑館)→谷中銀座→コシヅカハム→魚貝三昧「彬」と巡った。  (括弧の箇所は前を通過にとどめた)

 14時にアオアシカフェで待ち合わせていると、Oさんは自転車に子供さんを乗せて現れた。子育て奮闘中でいらっしゃる。そこで、特に日陰を選んで移動したが暑い。暑い。鴎外記念館では、コレクション展「鴎外を継ぐ者―木下杢太郎」を開催中だったが、Oさんは子供さんの行動から目が離せず、気を集中させての見学はままならなかったことと思う。
 伊勢五本店は飲み屋などに酒類を卸す卸問屋。日本酒が豊富に取り揃えてあり、日本酒党の、二人の女性はかなり興味を示し、Oさんは郷里の吟醸酒「上喜元」を購入していた。私は、最近はここで〆張鶴を買うことが多くなっているが今日はパス。須藤公園で涼をとり、不忍通りを越えた。
 谷中コミュニティーセンターが今年の4月1日にオープンし、中央図書館谷中分室はその3階に位置を占めた。学校司書の仕事をされているAさんも、図書部の経験のあるOさんもこの図書館の良さを実感したようだ。開館間もないから本棚は蔵書で満たされているわけではない。空間に余裕が感じられるのが良いと語っていたように記憶している。靴を脱いで子供たちが過ごせる空間・児童書架もあり、Oさんは子供さんに本を読んであげていた。(写真:コミュニティーセンター外観)



   (図書館内の児童書架)
  
 ここでOさんは子供さんと一時帰宅。16時25分頃お一人で再登場。Oさん曰く「谷中銀座入口にある酒屋さんの生ビールで喉を潤しましょう」と。女性からこう語りかけられると、私などはぐっと飲みやすくなる。朝倉彫塑館は前を素通りして、天然カキ氷「ひみつ堂」の長蛇の行列を一目見て、生ビールへと急いだ。通りに面して置かれている縁台で飲むのもオツなものだ。
 
「彬」ではお二人は生ビールをパスし、いきなり吟醸酒に。三人で飲むのは初めてのことで会話は弾んだ。2012年7月10日に、初めて3人が会話を交わす切っ掛けとなった『ビブリア古書堂の事件手帖』にも話題は及んだ。
 
(付記:伊勢五本店のホームページは http://www.isego.net/  で、この記事のなかに、私が2014/5/20のブログに登場させた伊根の「向井酒造」が登場している)


奈良岡朋子と『黒い雨』

2015年07月25日 | 映画・美術・芝居・落語

 私達の好きだった俳優(新劇)の、最後に残った宝石のような奈良岡朋子。彼女が語る『黒い雨』を聴きに、7月23日(木)、紀伊国屋サザンシアターに出掛けた。席は前から3列目のほぼ中央。最も聴きやすい席だった。
 15日に観た『明日、戦場に行く』もそうだったが、登場する役者たちは皆台本を持ち、それを見ながら“演じ”ていた。リーディングと呼ばれる演劇形式で、似ているようだが朗読劇とは違うらしい。演じ手は台本を読むだけでなく、台本に書いてある役を演じるのだ。
 舞台中央には豪華なソファーのみが置かれていて、颯爽と登場して来た奈良岡朋子は客席に一礼すると、その後はずーうっとソファーに腰かけ、矢須子を演じていた。
 井伏鱒二原作『黒い雨』より、笹部博司が上演用台本を作成。副題に“八月六日広島にて、矢須子”とあるように、広島に原爆が投下された8月6日、広島にいたが直接被爆をした訳ではない矢須子。彼女の叔父の閑間(しずま)重松は、姪の矢須子が被爆したという噂から、次々と縁談が破談となってしまう事にやきもきしている。今回の縁談でも、その時に矢須子は奉仕隊にはいなかったことを、矢須子のつけていた日記から証明しようと日記の書き写しを始めていた。(写真:2013年の舞台での奈良岡朋子)

 しかし矢須子は、当日に降った黒い雨を浴びて、被爆していたのだ。この小説は当初「姪の結婚」という題目で始まり、途中から「黒い雨」に改題されたそうだ。小説『黒い雨』の舞台化は、まさにその「姪の結婚」という題名に尽きる。
 1945年8月6日という日を挟んで、それ以前に人びとがどういう暮らしをしていたか、その後どんな暮らしになったのか、被爆した矢須子と彼女を見守っていく家族のかたちとその営み。登場人物は矢須子のその叔父夫婦。その3人を奈良岡朋子が演じ分ける。気品のある美しい声だと何時も思う。
 
 1929年東京市本郷区(現・文京区)駒込に生まれた奈良岡は東京で空襲に合い、1945年弘前に疎開した。『東京の空襲を逃れ、疎開先の弘前で満開の桜をみたとき「私も生きている」と感じました。「私も生きていられる」のかもしれないと・・・。
 ・・・これからも声の出る限り、命のある限り小石を投げて波紋を立てるというような試みを続けていこうと思っています。』と綴っている。
 12月に「三越劇場」で上演予定の『根岸庵律女』でどんな小石が投げられるのか、私達は楽しみにしている。


辺野古・高江連帯ツアー(その4 最終回)

2015年07月23日 | 闘い

 一昨日、北海道から帰京した。
 行動過多の日々に、ブログに書き尽くせずにいると、忘却の彼方へと消えていってしまう記憶の多さを嘆く日々。
 だが、沖縄行はしっかりと覚えている。

 7月7日(火)、9時前「ホテル ゆがふいん おきなわ」を出発したバスは、分宿した他のメンバーの宿泊所に寄りつつ、座り込み現場の高江を目指した。当日の案内人は、高退教役員の仲里正弘さん。

 私の聴力の現状は補聴器の助けが必要な状態に近く、話して頂いた内容が一本の糸に纏まらない事が時々起る。この時もそうで、同行の方の助けをお借りした。届いたメール文には「仲里さんは、バスの中では普天間飛行場移転問題の経緯、特にオール沖縄で翁長さんを支援するようになった経緯を詳しく話して下さった。翁長さんが那覇市長だった時代に対立していた労働組合が、翁長さんと一緒に選挙戦をやるのに抵抗していた」とあり、
 「自民党
員だった翁長さんが、自民党を見限ったきっかけは、沖縄にとって屈辱の日となった、4月28日の安倍政権の式典開催(注1)にあった、とも語っておられた」と綴られていた。前日の稲嶺市長の話からも、仲里さんの話からも、沖縄で求められることは“オール沖縄”であることが良く分かる。言い換えれば、オール沖縄対安倍政権の対立が本質を示しているのだ。

 一行は、10時半高江座り込み現場に到着した。ただこの日、建設工事は行われておらず、座り込みは一時的に解かれていた。この日もテント前で、会長平岡さんが挨拶し、幹事の本村さんからカンパをお渡しした。その後、高江の現況を詳しく説明して頂いた。ツアーの一行にとってこれが最新情報を得る恰好の学習会にもなっていた。 

 
       (カンパを渡す)        (多種多様な団体が座り込みに参加)
 『ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設は、高江集落を取り囲むように6ヶ所が予定されていて、そのうちN4地区の2ヶ所は既に完成され(写真左下の赤丸))、オスプレイなどが訓練している。着陸時のオスプレイの温度は300度にも上るほど危険極まりない状態で、訓練の頻度は増し、住民の生活被害はより深刻になっている。ヤンバルの森高江での生活は出来なくなりつつある』との報告。このツアー参加者の殆どのメンバーはドキュメンタリー映画『標的の村』を観てきているが、観賞時よりも事態は一層悪化して来ていることを知るのだった。残念ながら座り込みは叶わなかったが、暫しの連帯のときを過ごした。(写真:沖縄島の一部。黄色が高江)
 
 その後、古宇利島(こうりじま)に移動し、暫し観光気分に浸り、最後に、ハンセン病に関する間違った認識や強制隔離政策の歴史を後世に伝える資料館「沖縄愛楽交流会館」を見学して、辺野古・高江連帯ツアーは終了した。

(注1)安倍政権は、2013年4月28日に、沖縄県民の反対を押し切って、『主権回復・国際社会復帰を記念する式典』を初めて開催した。4月28日は、沖縄県民にとっては、政府が沖縄を切り捨てた『屈辱の日』として記憶されている。その日に式典を強行した安倍政権、自民党に愛想をつかせた。翁長さんだけでなく、財界人も自民党から離れたきっかけとなった。






 
    (古宇利島橋)