マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『野川』を歩く(その1)

2012年05月31日 | 江戸の川・東京の川

 いつかは歩いてみたいと思っていた「野川」。その散策の案内状が届いたのは4月上旬のこと。鷺宮高校で同僚だったDさんの「のんびり野川歩き」と言う企画が舞い込みました。
 昨年の10月、清水史郎さん個展の帰り、定年退職者4人で一献傾けた折に、”各自が立てた計画で東京近郊散歩をしよう”との申し合わせの第一号がいよいよ幕を開けたのでした。

 まず、その感想から記せば、野川は水量豊富にして、水清く、水が生活と深く関わり、今まで歩いた川の中で、一番印象深い川でした。その野川散策を3回にわたって綴ります。(写真:生い茂る葉で野川の川底は見えません)







 5月24日(木)、武蔵小金井駅に集合。参加者は完全退職3名・嘱託2名・現役1名(女性)の合計6名で、10時過ぎいざ出発です。ここから小金井街道を南下すれば、野川への近道となりますが、Dさんのご案内は、連雀通りを西に向いました。途中「あの建物、かっての小金井工業(現多摩科学技術高)だ」などと、業界用語も飛び出す様ほど、皆ご上機嫌です。それもそのはず、懐かしメンバーとの再会のみならず絶快晴の天気なのです。

 Dさんの最初のご案内は「滄浪泉園(そうろうせんえん)」でした。ここを訪れたことのある人は、メンバーの内、僅か2名。私を含め殆どのメンバーがその名を初めて聞く庭園でした。
 入園前にパンフレットを読むとこうあります。
 『滄浪泉園は、明治・大正期に外交官、衆議院議員などを歴任、活躍した波多野承五郎(雅号・古渓)により、武蔵野の特徴的な地形である「はけ」とその湧水を巧みに取り入れて整備された庭園を持つ別荘として利用されて来ました。』(写真:
滄浪泉園入り口)

 
    (写真:晩秋はより趣がありそうです)


 「はけ」とは何ぞや。数人の疑問はすぐに解けました。この庭園の斜面は国分寺崖線と呼ばれ、立川市の北東から世田谷区の野毛町まで続きます。崖下の砂礫層からは豊かな地下水が湧きだしそれを「はけ」と呼ぶそうです。(写真:庭園の底の池です)





 緑濃き道を進むと直ぐに急な斜面が待っていました。下る途中湧水を利用した水琴窟の音色が美しく響き、皆その音色に聴き入ります。更に下ると池に辿り着きました。「はけ」からの豊かな湧水が造る池です。別世界に紛れ込んだかの様な鬱蒼とした森林に囲まれた庭園で、たっぷり森林浴を楽しみます。

 この池も含め、多くの「はけ」から、水は野川へと流れます。こちら側は武蔵野台地で、この川の遥か南東を多摩川が流れ、武蔵野丘陵と多摩川の間の立川段丘を野川は流れ、二子玉川付近で多摩川に合流しています。(写真:野川に咲く黄菖蒲)






 川沿に延々と続く国分寺崖線のあちこちの「はけ」からの湧水で野川の水量は豊富だと推測出来ました。滄浪泉園を後に、いよいよ野川へと向いました。


    
      


屋形船から東京スカイツリーを眺める

2012年05月29日 | 江戸の川・東京の川

 5月27日(日)、「第66回 岩本町・東神田ファミリーバザール」に出掛け、この催しの一環として実施された「隅田川舟下り『東京スカイツリーを観る会』」と言うイベントに参加してきました。
 この催し、衣服の問屋街岩本町が中心になっての、年2回のバザールで、今回は5月25・26・27と6月1・2・3の2回にわたって実施されます。そのイベントの一つとして、神田川から隅田川に至り、船上から東京スカイツリーを見物しようというわけです。(写真:会場に掲げられた横断幕)







 朝早く岩本町に出掛け、11時乗船のチケットを2枚購入しました。11時少し前、乗船場の和泉橋付近へと急ぐと、既に50人ほどの列が出来ていて、間もなく乗船開始。全部で70名ほどの船客を乗せて、船は11時丁度、岸壁を離れました。ここからは、NPO法人のボランティアさんの名ガイドを聴きながらの船下りとなりました。(写真:この船に乗りました)









 船は屋形船で、和風の造りで、座って食事をとれるようになっています。今回は食事の接待は無く(乗船代500円だから当然!)、漫談にてのご案内というわけです。ガイドさんの説明通り、この屋形船は特にトイレが豪華です。(写真:屋形船内部)










 私は窓にへばりつくようにして、流れく外の景色を眺め、写真を撮りました。柳橋付近まで来ると岸に着けられた多くの屋形船が見られます。江戸時代、船はここから吉原へ向ったとの話も紹介されます。柳橋を過ぎれば隅田川に合流し、船は左折し上流に向います。川の合流点を見るのが好きな私には、ここも大きな観光スポットなのです。(写真:隅田川右岸テラスはナマコ壁風)



      (写真:隅田川から見る蔵前橋)


         (写真:駒形橋)


 神田川に比較して遥かに川幅のある隅田川を船は左側通行で進みます。ナマコ壁など江戸の名残を眺めながら、川に掛かる駒形橋・吾妻橋などの幾つもの大橋を過ぎ、東武伊勢崎線を潜り、言問橋手前まで来ると、船中から屋外へ誘導されました。東京スカイツリーが眼前に聳え、今まで観て来たツリーとは少し違った風景を眺めました。(写真:アサヒビールビルに映るスカイツリー)



 
 



  


 船は180度回転して、ここからは和泉橋までは、”今来たこの道かえりゃんせ”と相成り、45分の船旅を終えました。バザールではお安いTシャツなどを数点購入し、秋葉原始発のバスで帰宅しました。(写真:隅田川から神田川に入るところ)


 

 


ミニクラス会で「三渓園」へ

2012年05月27日 | 

 快晴の5月26日(土)、前回のクラス会より1年振りのミニクラス会で、横浜市本牧にある「三渓園」を訪れました。参加者は10名、集合時間午前十時過ぎ、正門前にほぼ全員が揃いました。
 今回のミニクラス会、三渓園から中華街まで次の様に巡りました。
 本牧三渓園前⇒(横浜市営バス8系統)⇒山下ふ頭入口→アメリカ山公園→大仏次郎記念館喫茶「霧笛」→イギリス館→中華街→満珠園

 三渓園を訪れるのは初めてです。こちら方面に詳しい、親切な級友から郵送されて来たパンフレットを予め読んでおきました。
 『三渓園は、明治時代末から大正時代にかけて製糸、生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓が、東京湾に面した”三之谷”と呼ばれる谷あいの地に造り上げた、広さ53000坪の日本庭園です。明治39年(1906年)に一般公開された・・・・』とあります。(写真:大池と三重塔)

 この地を何度も訪れたYさんの先導で大池を左手に見ながら、三渓記念館・展望台(松風閣か)・旧燈明寺三重塔・旧矢箆原住宅(合掌造り)などを周りました。重要文化財など歴史的価値の高い建物などが幾つもあるのですが、時間の関係で多くは割愛し、見学した建物もジックリ鑑賞するには至りませんでしたが、この園の自然が織りなす景観の素晴らしさは堪能出来ました。六義園の約2倍の面積を持つ広大な庭園で、再度訪れたい魅力に富んだ庭園です。
 ただ三渓園が面していた海は埋め立てられ、展望台から眺める海はコンビナートに覆いつくされ、その点が大変残念で、40数年前、ここを訪れた級友 I君の記憶の中にのみ海の風景は残っているのでした。(写真:重要文化財 旧燈明寺三重塔)


           (写真:睡蓮池)

 
 市営バスを「山下ふ頭」で下車し、みなとみらい線「元町・中華街駅」6番出口を捜しました。この出口からアメリカ山公園までエレベターが通じていると、ブログ「轟亭小人閑居日記」に書かれていたのを読んだ事がありました。地元の人に尋ねながら、漸くその出口に至り、無事アメリカ山公園到着。そこは明るい公園になっていて、展望が開けます。(写真:イギリス館と前庭のバラ)



 更に上って港の見える丘公園で記念撮影。大仏次郎記念館まで来ると「もう疲れた」と態度で表す級友が3名。已む無く、記念館に隣接する喫茶店「霧笛」で休憩。
 
 満珠園では1時半より宴会開始。和気藹藹の2時間弱。2500円で美味しい中華料理コースを味わいました。昔ほど皆さんご酒は召しあがりません。今日はこれからお孫さんに会うという方が数人いて、お喋りも歩きながらで十分だったのか、珍しく短時間の宴会でミニクラス会は終了したのでした。

 帰路、駒込駅付近で偶然にも、先ほどまで一緒だったBさんの夫さんにお会いしました。アメリカ山公園への昇りでは「小人閑居日記」のお世話になったお礼を述べて、別れました。
 


『五月花形歌舞伎』を観る

2012年05月26日 | 映画・美術・芝居・落語

 
5月は頂いチケットで「花形歌舞伎」の夜の部と昼の部の両方を観る機会を得ました。
 夜の部は
  通し狂言椿説弓張月 
 昼の部は
  1.西郷と豚姫
  2.
新歌舞伎十八番の内紅葉狩
  3.女地獄油地獄






 「
椿説弓張月」は曲亭馬琴原作に、三島由紀夫が構想を得て書き下ろし、自ら演出した長編大作で、源為朝の波乱万丈の生涯を描きます。
 NHK大河ドラマ「平清盛」は「保元の乱」前夜まで来ました。橋本さとし演じる為朝は次週以降では、崇徳上皇側について敗れ、伊豆大島に配流される展開となるはずです。史実では伊豆大島で亡くなる訳ですが、歌舞伎では、市川染五郎演じる為朝が伊豆大島から隠岐を経て琉球で大活躍するまでを描いています。
 観終わって
華々しい、壮大なドラマだなと思いました。華のある役の染五郎は適役と思います。為朝伝説をも入れた舞台を観終えて、高木彬光著「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」を思い出しました。源義経は蒙古に逃れ成吉思汗になっていたという伝説を題材にした物語です。稀代の英雄をそう簡単には死なせたくない、との民衆の思いの投影でしょうか。

 「紅葉狩」も華やかな舞台でした。竹本・常盤津・長唄の三方掛け合いが華やかさを増します。
 更科姫(配役 福助)は実は戸隠山の鬼女。紅葉狩にやって来た平維成(配役 獅童)を誘惑しようとして、最後には正体を見破られた鬼女。美しい姫の舞から猛々しい鬼女の舞への、落差の激しい変化が見ものでした。福助は姫よりも鬼女の舞に入り、生き生きと、迫力ある舞いを演じているなと、私には見えたのでした。
 


『麻布龍土町の窪地』に出合う

2012年05月24日 | 東京散歩

 5月21日(月)に出掛けた六本木でスリバチ=窪地に”出合いました”。

 東京ミッドタウンを出た私たちは、国立新美術館を目指すのに、外苑東通りを進み、「東京ミッドタウン西」の交差点を左折しました。この通り(多分星条旗通り)を真っ直ぐ進めば国立新美術館ですが、幅広い自動車道路と、細い道路の2本が並行して走ります。その狭い方の道を僅かばかり進むと、その道のやや先が凹状になっているのに気が付きました。進むにつれて、広い道路と私たちの歩む道の高低差は大きくなり、私たちは幅広い道を見上げながら歩くこととなり、凹状地は明らかにスリバチである事が分かってきました。地名案内の看板を読むと確か「麻布龍土町」とあったかと思います。

 国立新美術館の帰路、再びこの窪地に佇み、並行して走る2本の道とT字に交わる道筋を眺めると、この道が六本木駅への近道であり、かっては川筋だった道に思えて、この道に入りました。外苑東通りまで300m弱の短い道ですが、小規模ながらモダンな店構えの、入ってみたくなる飲食店が軒を並べています。夜のお値段は高そうですが、1000円前後のランチの看板が色々と目に入ります。ただ今日は都合でここは素通りしましたが、進む左手には「天祖神社」が。我が町にある氏神社と同じ名前の神社も発見、近いうちに再度ここを訪れたいなと思いながら、先の訪問場所へと急いだのでした。

 帰宅して、5月8日のブログに登場した「東京スリバチ地形散歩」を読み返すと、この窪地は六本木の項の「龍土町の窪地」として紹介されていました。
 その部分を登場させます。
 『六本木ヒルズと東京ミッドタウンに挟まれた一角は、かった麻布龍土町と呼ばれていた。尾根筋の表通りよりも若干窪んでいて、路地や木造家屋が点在し、住居を改造した小規模で小粋な飲食店が多く集まる、裏六本木的な場所だ。坂の途中には天祖神社があり、境内の階段で土地の高低差を知ることが出来る。』とあります。この谷筋は笄川(こうがいがわ)の支流が造った谷で、その谷は星条旗通りへと続き、笄川本流や渋谷川と合流し、最後は古川となって東京湾に注いでいた事を知りました。

 本を片手に散策する楽しさとは別に、散策の途上、自分の勘でスリバチだと推定した土地が、帰って来て本を読み、そこが名のある窪地だと知った時の面白さ。今回の美術館巡りではそれを体験しました。