マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

石神井川と谷田川に触れて・・・(その3)

2011年02月27日 | 江戸の川・東京の川

 2月24日のブログに書きましたように、石神井川下流の瀬替え(=流路変更)の時期やその原因・理由については、昨日書いた説以外に少なくも2つの説があります。
 その2 中世以降の人為切削説。鈴木理生著「江戸の川・東京の川」
 その3 江戸時代初期に江戸湊の洪水を防ぐために瀬替えしたとの説。鈴木理生著「図説 江戸・東京の川と水辺の事典」
 何れの説も、かって千代田区図書館員であった鈴木理生氏によって唱えられ、その2は1989年に、その3は2003年に発刊された書籍の中で展開されています。


 その2に簡単に触れます。鈴木は、その著「江戸の川・東京の川」P92~P93で、「滝野川」渓谷とその付近の滝群は流路変更の結果形成されたものとし、「滝野川」という地名が登場するのは13世紀後半に成立した『源平盛衰記』以後のことで、正史の『吾妻鏡』には見られないことなどから、この間に人為的な掘削があったと推論した。この工事は、豊島氏による下町低地への灌漑水路の開発、または矢野氏による洪水防止の工事であったとも推定しました。




 この様な問題で、文献上から時期を推定する方法の有効性は私には分りませんが、その3の説の方が私には魅力的です。

 その3は「江戸・東京の・・・」P151で、王子付近での岩槻道路(鎌倉時代から存在した軍用道路 別名 日光御成道)と石神井川の交差の関係などを考察した結果、江戸氏・太田道灌・後北条氏あるいは徳川氏
初期に江戸湊の洪水を防ぐために瀬替えしたと主張しました。






 どの説が正しいのか、確かめようもないと思え、この様にも考えられなと自己納得出来て、それで楽しいければ十分と思っています


 ただこの話題テレビにも登場したようで、2008年11月14日放送の『タモリ倶楽部』(ブラタモリではありません。念のため)では、石神井川の流路変遷について取り上げ、石神井川が上野台地を貫いて東へ流れている(=瀬替え=流路変更)のは、江戸時代の治水工事によるものと主張がある一方、それに対し、『寛永江戸全図』から推して、江戸時代初期にはすでに現在の流路をとっていたとの反論もあったとか。この映像に辿り着きたいと思うのですが・・・。


石神井川と谷田川に触れて・・・(その2)

2011年02月27日 | 江戸の川・東京の川

 飛鳥山公園に隣接する3つの博物館、紙の博物館・飛鳥山博物館・渋沢資料館の中央に北区飛鳥山博物館はあります。そこに石神井川の下流での流路変更の原因の説の一つ「縄文時代の河川争奪説」が展示されているとの情報をネットで知って、一昨日の2月23日(水)、飛鳥山博物館を訪れました。

 ここの博物館の常設展示では、例えば「縄文人の暮らし」や「弥生人のムラ」など、この地方に暮らした古代人の生活様式や、「地図に見る北区の近現代」「名所王子・滝野川・飛鳥山」などの、比較的最近の、この地方の様子が紹介されている他、地理的・地学的内容の「荒川の生態系」のコーナーがあり、その一角に、石神井川に関する展示がありました。(博物館入口)



 実は、1994年に北区教育委員会は石神井川の流路変遷時期を特定するため、現・石神井川から卑近距離にあるの谷田川の、谷底低地にてボーリング調査を行い、その結果を、『駿台史学』に「武蔵野台地東部 (本郷台) における石神井川の流路変遷」として、発表していました。その結果の要約がここ飛鳥山博物館に展示されていて、その説を理解するうえでの基礎知識として、3分間9秒のビデオも流れる仕組みになっていました。


 お願いすれば展示の写真撮影も可能で、右写真のように数枚は撮影してきましたが、読みにくい文字部分は、直接ここに書きます。










 
 そこには凡そ次の様に書かれていました。
 「最終氷期極相期(約2万年前)以降東京湾では、二度ほど進退を繰り返しながら海面が急上昇していきます。今から6千年前をピークに現在よりも海面が3mほど上昇しますが、この急激な海面変化を有楽町海進と呼んでいます。現在武蔵野台地を東西に流れ王子から低地へ出る石神井川がかって王子付近で南東に曲がり不忍池方向へと流下していたことは以前から指摘されていました。最近、石神井川下流の流路が現在のコースをとった時期は有楽町海進最盛期頃であることが分ってきました。海進によって台地の崖ぎわが急速に後退した結果、石神井川は王子付近で崖端侵食をひきおこし河川争奪を起こした」とあります。(上図の左部分)

 『河川争奪』とは聞きなれない用語で、当初、私はその内容を人的”争奪戦”のように捉えていましたが、知人からのご指摘でウィキペディアを読むと、「河川の流域のある一部分を別の河川が奪う(自らの流域に組み入れる)地理的現象のこと」とあり、日本の各地で見られる現象ともありました。
 約6千年前の東京湾の海岸線は今より遥かに奥に食い込んでいて、例えば王子駅近辺にまで海岸線が上昇してきていました。それは王子貝塚等の存在でも明らかで、王子貝塚の様子もここの博物館に展示されています。

 博物館員の方はとても親切に接して呉れました。3階にある喫茶店で淹れたての美味しいコーヒーに喉を潤し、帰りの自転車のペタルを軽く感じながらの帰路となりました。


石神井川と谷田川に触れて・・・(その1)

2011年02月24日 | 江戸の川・東京の川

 石神井川の現状は、小平市の小金井ゴルフ場近辺を水源として、途中で富士見池・三宝寺池・石神井池等の涌水池の水を合わせ、練馬区の中央を東西に流れ、板橋区南部を経て、滝野川地区に入ります。王子付近では音無川と呼ばれ、王子駅の真下を潜り抜け隅田川に注ぐ、全長25.2Kmの石神井川。


 一方、谷田川は、江戸時代の地図を見ると、現在の染井霊園付近からの涌水などを水源として、上野台地と本郷台地の間の谷あいを流れ、途中藍染川と呼ばれ、不忍池に注いでいます。現在は全て暗渠になっていますが、その谷田川と石神井川はその昔一本の川で繋がっていた、との話を聞いた事がありました。(谷田川水源付近:江戸重ね地図による。水色の細い線が川






 右の図は、上の図と同じ位置の現在の地図で、「染井霊園」と「中央卸売市場」の間をかっては川が流れていました。







 昔の石神井川は、王子付近の急勾配を下る直前に東南の方向に進路を変えて流れていたとも聞きました。現在の流れと過去の流れが異なるならば、その瀬替えを示す痕跡があるはずと考え、飛鳥山から西ヶ原4丁目付近を探索したこともありました。10数年前のことです。しかし、素人がその様なものを発見できるはずも無く、あえなく、いとも簡単に撤退したのでした。
 今又、家人の友人の地理の先生が、現石神井川の一部(王子駅より上流)と谷田川は、昔は一本の川で結ばれていた(旧石神井川」と呼ぶそうです)と語っていると家人から聞きました。10数年前と現在の大きな違いはインターネット環境です。ネット上「石神井川」で検索して調べると、両川は一本の川であったことは定説のようで、問題は何時、どの様な原因・理由で、現在の様な流れに変えられたかにあるようでした。検索内容には幾つかの説とその文献等が紹介されていました。
 その1 縄文海進最盛期より後の自然現象との推定説。飛鳥山博物館に展示されている。
 その2 中世以降の人為掘削説  鈴木理生著「江戸の川・東京の川」(NHK放送ライブラリー)
 その3 江戸時代初期に江戸湊の洪水を防ぐために瀬替えしたとの説。鈴木理生著「図説 江戸・東京の川と水辺の事典」(柏書房)

 その2の「江戸の川・東京の川」は時間を掛けて読みたかったので、古書店でオンライン購入しました。その3の「図説・・・・」は高額な本なので、文京区・豊島区・北区の図書館にオンライン予約を試みましたが、殆ど全て「帯禁
」。辛うじて北区図書館の一冊のみ貸し出し可で、借りてきて読み始めました。その3の飛鳥山博物館へは昨日出掛けて来ました。明日以降順次レポートします。


宮元・落語の会2011

2011年02月23日 | 映画・美術・芝居・落語

 2月20日(日)、宮元・落語の会2011が本駒込地域センターで行われ、出掛けてきました。主催は「宮元睦会」。文京区の町会の一つ「神明西部町会」のなかで、主としてお神輿を担ぐことを目的とした若手の集まりですが、お神輿を担ぐだけでなく、春の宮元祭りや、この落語鑑賞会を主催し、実に活発に活動しています。私が属する町会とは隣り合わせの町会で、私は有志としてこの会に入れてもらっていて、宮元祭りには芋煮作りなどのお手伝いしています。
 今回の落語が第6回目だそうで、「駒込地域センター」地下の大きなホールに椅子を200ほど並べて設営した会場に、今回は9割くらいの入りです。
 
プログラムは
  柳家小太郎 「時そば」
  橘家文左衛門 「笠碁」
  (中入り)
  お楽しみ抽選会
  翁家和助 太神楽
  橘家文左衛門 「らくだ」
 とありました。橘家文左衛門が今日の会の主役であることが一目でわかります。その文左衛門さんの噺を聞くのは初めてです。初めが「笠碁」。やや華やかさには欠ける感じの雰囲気の噺家さんですが、旨いなと感心して聞き入ります。声の張りが強く、特に間の取り方が絶妙。
 中入り後の抽選会、当たるとミート青木のコロッケ10個の引き換え券とか鈴木商店の高級茶とか、地元密着の宮元睦会ならではの商品が多数用意されていて、会場は盛り上がります。最後に文左衛門さんが再登場し「らくだ」を1時間にもわたり熱演。お酒が入るに連れて、少しずつ人が変わっていく様子の表現が見事です。
 
 会が撥ねて、今日使われた毛氈と厚めの座布団を借りました。3月17日に三遊亭兼好を呼んで実施する落語鑑賞会に使う為です。宮元睦会には、実は私が教えたことのある元生徒さんがいて、是非貸して下さいと頼み、OKの返事をもらってありました。2点セットを持ち帰り、3月17日に備えています。
 (昨日の輪投げ大会決勝、私も含め男性陣が不調で参加20チーム中18位に沈みました)


輪投げ大会、予選突破

2011年02月21日 | 身辺雑記

 2月21日(月)、文京区高齢者連合会(略称:文高連)の輪投げ大会が、47チーム参加のもと行われ、私も富士前福寿会の一員として参加して来ました。チームの成績は47チーム中15位。今日の成績順に20チームまでが、明日の決勝に参加できますから、辛うじて予選通過と相成りました。今まではブービー賞の状態であったそうで、今日は我が福寿会にとって記念すべき日となりました。(文高連会長挨拶)


 去年の7月16日のブログにも書きましたが、5m離れた位置から、右の様な得点版目掛けて輪を次々と9個投げ、入ったポールの得点合計がその人の得点となり、全部で5人が同じ事を5回繰り返します。5mも離れた地点にある得点版ですから、なかなか得点に結び付く投擲になりません。
(5m先にある得点版)



 それでもチームリーダーKさんからは、平均15点のノルマが私に告げられていました。
 私は初出場です。特にあがりはしませんでしたが、練習時の様には輪は思った処には行かず、今日はやや不調。5回の合計点が65点で
平均は13点で、Kさんからの目標点をクリヤーできませんでした。それでもチームの総得点は316点。キャプテンKさんの得点は107点。この高得点が予選突破の原動力となりました。 
 決勝も勝ち抜けば地区大会が待っていて、その上の大会が都大会。その上の全国大会があるか否かは知りません。輪投げに人生を賭け、毎日練習に励む人もいるとか。何か子供騙しのゲームと捉え、この様なゲームに熱中したり、大会に参加すると語ると、せせら笑う人もいますが、私は何であれ熱中するものがあることはいい事だと思っています。私より遥か高齢の方が見事な輪捌きで高得点をあげるのを見ると、奥の深いゲームだなと思います。明日は朝9時半からの決勝ランドです。