マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

明日は『閏秒』の日

2012年06月30日 | 科学・原発問題

 明日は3年半振りに「閏秒」の日がやって来るそうな。
 朝日新聞夕刊の記事から「閏秒」なる日があることを知りました。明日7月1日(日)の8時59分50秒から9時00分までの、本来なら10秒間の間が11秒掛かる、つまりこの間に特別の1秒が挿入されるのだそうです。
 加入電話やINSネットの場合は9時の3秒前から予報音を3回(57秒の後、58秒、59秒および追加の60秒の3回)鳴らし、時報音(ポーン音)を1回(00秒)鳴らすそうです。

 この1秒挿入の原因を、私は当初、
現行のグレゴリオ暦に原因があると考えていました。
 即ちグレゴリオ歴の閏年に関するルールは3段階あって
 ①4年に一度閏年を設ける(西暦が4の倍数の年、すなわちオリンピックイヤーが該当)
 ②但し西暦が100で割り切れる、1800年や、1900年の様な年は閏年から外す(即ち平年)。
 ③但し西暦が400で割り切れる年は閏年とする。

 地球が太陽を1周するに要する時間は365.24219日。
 もしルールが①のみならば(四年に一度閏年を設けるだけとすると)、1年は365.2
5日となり、実際とかなりずれます。②のルールに従えば、100年間で閏年は25-1=24回なので、1年を365.24日としたことになり、①のみのときより精度はアップしますが、まだまだ誤差があります。
 ③のルールを付け加えることにより、400年間で閏年は100-3=97回。1年を365.2425日としたことになり、かなり実際に近づいてきます。しかし地球が太陽を一周する日数との間に、僅かですがまだ誤差があります。この誤差を「閏秒」で解消していると思っていたのですが、そうでは無いようです。

 1秒の長さが一定である国際原子時と地球の自転に基づく世界時の間にずれが生じ、その調整の為に「閏秒」が用いられているそうです(ウイキペディアによる)。

 余談になりますが、改訂ユリウス暦も考えられていて、③は、但し西暦が900で割って200余る年と600余る年は閏年とする、となります。この歴法によれば、900年に閏年は225-7=218回となり、1年は365.242222・・・(循環小数)となり、365.24219に非常に近い数値になります。

 さて果たして明日の9時前に、電話器はどんな反応をするか、楽しみに”聞き守り”ます。
 


東洋文庫ミュージアムへ

2012年06月26日 | 映画・美術・芝居・落語

 6月の最終日曜日の24日、我が家から徒歩数分のところにある東洋文庫ミュージアムに出掛けました。かっては国立国会図書館の支部だった東洋文庫は、2009年からは財団法人に衣替えし、改築工事も開始され、昨年の10月20日(木)に開館の運びとなっていました。
 併設されているオリエント・カフェには数回足を運んだことはありましたが、本体のミュージアムへは今回が初めてです。


 「東洋文庫」がアジア全域の歴史と文化に関する東洋学の専門図書館ならびに研究所であり、アジア最大の東洋学センターとして、国際的にも世界5指の1つに数えられていることは、構内の掲示板を読んで知ってはいましたが、高校時代、世界史の授業時には”内職”をしていた浅学の身には敷居が高く敬して遠ざかっていました
。しかし、装いを新たにしたミュージアムは親しみの感じられる雰囲気のツクリに変身し、今回の展示も「東インド会社とアジアの海賊」との魅力あるテーマで、”海賊”に惹かれて訪れたのでした。

 1階はオリエントホールと呼ばれ、100万冊に及ぶ東洋文庫の蔵書の全容が映像でわかりやすく紹介され、展示ケース内には世界中の言語で記された古書が並びます。壁には3
m四方ほどの大きさの『江戸大絵図』の巨大な原寸大レプリカが天井からつりさげられています。まずは、度肝を抜かれる空間がありました。



 メイン会場の2階に昇ると、相当数の蔵書が見渡せます。モリソンコレクションと呼ばれ、東洋文庫の創設者岩崎久彌が. モリソン博士から購入した蔵書です。図書が単に保管されているだけではなく、保管状況が観察されることを前提にした造りになっています。このミュージアムはフラッシュを用いなければ撮影OKなので、早速撮影したのが右の写真です。




 ”海賊”を観にいったのですが、岩崎文庫コーナーにあった喜多川歌麿の浮世絵やマルコポーロの「東方見聞録」、「鄭成功」の物語など、初めて観る数々に時間を取られてしまいました。特に平戸で生まれ、後年国姓爺と呼ばれた鄭成功の波乱万丈な生涯に興味を覚えました。

 ”灯台もと暗し”。僅か数分のところに巨大な知の泉があることを知らされた日でした。

 
 
 
 
 


甘利山から青木鉱泉へ(その2)

2012年06月24日 | 山旅

 青木鉱泉は”ないないずくし”の温泉宿だった。部屋にテレビはない。トイレもない。浴衣も出なかった。暖房器具も見当たらず、部屋に鍵は無かった。湯殿のカランを少なくも5分は押し続けなければ湯が出なかった。露天風呂もなかった。しかし、この様な宿を私は不快とは思わなかった。
 山菜を中心とした食事と、風格ある建物と、温かいもてなしと、鬱蒼たる森林があり、品のいい女将の笑顔があった。夕食時、瀧川さんと呑んでいると宿のオーナーと思われる方が現れたのを幸いに、いろいろと話を聞いた。(写真:青木鉱泉玄関)

 青木鉱泉は、標高1150メートルに位置する、鳳凰三山山麓の一軒宿で、建物は明治初年の創業当時をそのまま、30年前に復元した木造二階建ての建物で、釘一本用いていないとのこと。宿のところどころに明治の浪漫情緒が溢れているのはその為でしょうか。明治の文豪・大町桂月も、定宿としてしばしば利用したそうです。(写真:登山者はここのベンチで食事を摂ったのだろうか?)






        (写真:室内風景)

 又、この鉱泉は、ボーリングによってではなく、裏山の源泉から自然に湧き出ている湯を、湧水口からタンクに引き込んで、一度貯めてから必要に応じて加熱して使用しているそうで、カランから温かい湯が出るまでに長時間かかった訳を納得。(写真:男子風呂は小さめです)

 

 

 

  今でも鉱泉を名乗る理由を聞くと、「鉱泉でも温泉でも同じださ」と。
 最後に「後継者はいるのですか」と尋ねると、跡継ぎを嫌って都会へと出てしまったとのこと。冗談に「あんたらここ買わねえか」の語りには吃驚しました。
 
 ここからは私的推測です。
 この鉱泉、かっては鳳凰三山登山の前線基地として栄え、それ故に今も山小屋的な名残が色濃く残ります。南アルプススーパ林道の開設により鳳凰三山への登山は、便利な夜叉神峠からの入山が主流となり、この鉱泉利用の登山者は激減したと思われます。しかし、現在は山菜狩りや渓流での魚釣り・水遊び・キノコ狩り等、山の息吹や、自然の恩恵を求める多くの人がここを訪れるようです

 かって子宝に恵まれることを念じて山に登った女性達が、無事の出産を感謝して、お礼参りに、太鼓を”ドンドコ”叩きながら沢すじを登ったので”ドンドコ沢との呼ぶようになったとも聞きました。(写真:ドンドコ沢を登り詰めると地蔵岳)







    (写真:貼られていた地蔵岳のポスター)

 台風5号の影響で21日から22日にかけて、一晩中激しい雨が降りました。ドンドコ沢の増水で帰路の道への落石や崖崩れを非常に心配しました。朝早く、宿の数人が道の偵察に出掛け、より安全なルートを先導して呉れたお陰で、孤立しがちな仙境から無事帰還出来ました。
別れ際「又お出で下さい」とのご主人の言葉と笑顔が強く印象に残っています。
  


甘利山から青木鉱泉へ(その1)

2012年06月22日 | 山旅

 今日の夕方、登山姿で帰宅した私を見て、マンションの管理人さんが不思議そうな顔をして「どこへ行って来たの」と聞きました。私は答えて曰く「山梨県にある甘利山という山へ」と。管理人さん「雨じゃなかったの」。再び私「韮崎は、昨日の午前中までは天気良かったので、登って来ましたよ」と。

 高校時代からの友人瀧川さんから『久しぶりに山に登ってみたくなりました。6月21日から24日の間か、6月28日から30日の間で1泊程度で楽しみたいと思っています』とのメールを頂いて、私の都合で6月21日~22日にと返信した後、どこの山に行き、どこの温泉に浸かろうかを思案しました。最終的に、山は、レンゲツツジ咲く甘利山と決め、梅雨時の登山故、温泉にこもりきりになることも想定し、甘利山から程近くにある青木鉱泉に一夜の憩いも依頼しておきました。

 台風4号と5号には一喜一憂させられました。当初、出発予定日の21日は台風が関東地方を通過との予報。登山は断念しかかったところ、4号は時速65Kmの蒙スピードで本州を通過、21日は晴れマークが点りました。しかし、5号の影響からか、一転21日は一時雨マークが。晴れマークが出た時点で計画実行を決めていた二人、21日(木)の朝高尾駅に6時台に集合するも、空模様を眺め悲観的な思いになっていました。

 甲府駅に到着すると東京の空より明るいのです。些かな希望を抱いて、登山に及ぶか否かは現地で判断することにして、レンタカーを借り、8時50分いざ出発。1時間10分程のドライブで、甘利山グリーンロッジ付近の駐車場に車を停めると、八ヶ岳や奥秩父の山々が遠望出来、眼下には甲府盆地の広がりが見渡せました。(写真:中央が八ヶ岳主峰赤岳)




 甘利山へは徒歩30分弱で到着。登山路の両側にはレンゲツツジが満開です。到着した甘利山山頂は広々とした平らな展望台で、微かに富士山もその裾野を見せて呉れます。









    (写真:快晴ならば富士山がくっきりと・・・)

 反対側登山路からは地元甘利小学校4年生の一団が遠足で登って来て、集合写真を撮り始めました。自分達だけのやや寂しい山頂を予想していましたから、何やら嬉しい気分となり、更に先の奥甘利山まで足を伸ばしました。(写真:甘利山倶楽部の方の校外授業を受ける小学生達)





 新緑と赤いレンゲツツジに彩られた山道をゆっくりと歩みました。奥甘利山山頂ではコーヒブレイク。ただ霧が立ち込め始め、雨の予感がして、今日はここで引き返す事にしました。駐車場まで戻っ来くると約2時間の散策でした。(写真:展望のきかない奥甘利山山頂)





 昼食開始直ぐに雨が。慌てて車に移動しての昼食。青木鉱泉へと通じる細道を車で下ったのです。

 


三度びの都立高校

2012年06月20日 | 身辺雑記

 東京都教職員互助会の「退職教職員ボランティア事業」が開始され、私も退職教職員の一員として、昨年の9月に人材バンクに登録をしておきました。知り合いの、互助会の担当者から勤務依頼の電話があり、躊躇いつつお引き受けする事にしました。
 躊躇った理由は、その高校までの通勤距離が長い事と、現在は知りませんが、かっては”教育困難校”と呼ばれ、教える事にかなりのエネルギーが必要と聞いていた学校で、この間中学校勤務はありましたが、高校生を教えることは6年以上のブランクのある自分に自信が持てなかったからです。
 一斉授業ではなく、自主的に学びたい生徒を対象とした補習形式の「土曜スタディ」との話を聞いて、お引き受けすることにし、6月16日(土)が最初の講習日でした。

 受け持ち時間は午前2時間と午後2時間の合計4時間で、学校行事の無い毎週土曜日、来年の2月まで続きます。午前中の2時間の受講予定者は15名ほどのはずですが、教室に顔を出すと、僅か2名の生徒しかいません。暫く待っていると、遅れて3名がやってきて合計5名。全員が試験勉強を始めました。質問があればと何度か呼びかけるのですが、返答はなく全員静かに自習に専念し続けました。

 ところが午後の教室は事情が一変しました。25名ほどの受講予定者のうち15名もが参加。皆高校1年生です。用意してあったらしき問題集で自習を始めるも、午前中の生徒ほど熱心な学習とはいきません。「この講習に期待するもの」というアンケートを書かせましたが、こちらからのプリントを期待し、待っている様子。
 自主的に学習すると言うより、やや受身的学習態度のようで、こちらから引っ張る必要を感じ、私が作成する教材も学習させようとプリント作成の心積りで初日の”ご対面”を終えて帰ってきました。

 しかしワークブック的なものは既に「断捨離」してしまっていました。困って、思いついたのが現役のMさんからお借りすること。その旨のメールを送信すると、二つ返事でOK。メール送信から僅か二日後の昨日、彼女の通勤途上でお会いし借りられたのでした。早速、
数学教材作成ソフト「Stduyaid」を活用し、教材完成。持つべきは良き友。感謝感謝でありました。