マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

縄文文化に触れて(中ッ原遺跡)

2016年08月31日 | 歴史

 茅野市には国宝が2つもある。1986年に発見され、1995(平成7)年に国宝指定を受けた「縄文のビーナス」と、2000年に発見され、2014(平成26)年に国宝指定を受けた「仮面の女神」で、いずれも「尖石遺跡 縄文考古館」に所蔵されている。長野県には国宝が8つあり、昨年訪れた富山県には国宝が1つであったことなどと比較すると、その凄さが分かる。

 「仮面の女神」は見たことがなかった。今回の旅行の最終日には「縄文考古館」と、「女神」が出土した「中ッ原遺跡」を訪れようと決めていた。数ヶ月前に見たNHKスペシャル“御柱”では、御柱を立てたと思われる穴に柱が立てられているとも放映されていた。(写真:「仮面の女神」と名付けられた)



 今回の旅の最終日の826日(金)
 
ビーナスラインには「中ッ原遺跡公園」入口と書かれた看板が出ていた。何度もこの前を車で通ったが気が付いたことは無かった。多分「仮面の女神」の国宝指定以降に看板も作られたのだろうと思いながら進むこと僅か1分で公園到着。やや離れた駐車場から8本の柱が見渡せた。(写真:8本の柱が長方形状の建てられている)

 立看板から以下のことを学んだ。
 
≪中ッ原縄文公園は、茅野市湖東山口に位置する中ッ原遺跡の一部を保存し、特に土偶「仮面の女神」の出土状態を現地に再現するために2002年に作られた。
 中ッ原遺跡は縄文時代の、大規模な集落址として昭和初期より調査が行われ、現在までに竪穴住居約200軒、土抗約3400ヵ所が発見され、この地域の中心的なムラであったこともわかっている。
 ムラは中央の土抗群を囲むように竪穴住居址が配された環状集落の構成をとり、土偶「仮面の女神」も 竪穴住居址に囲まれ墓などが作られる中央部の杭に横たえたような状態で発見された。
 
この遺跡は縄文時代中期から後期の長期にわたり、多くの住居が作られていることや、土偶、ヒスイ飾り玉を副葬する墓などが作られていることを考えると、この地域に中心的なムラであったことがうかがえる。≫

  まずは8本の柱を見た。4本は御柱のような高さで、他の4本はその1/3くらいの高さしか無かった。説明板には“8本柱方形柱穴列”と書かれていた。8ヵ所が長方形に並ぶ大型土抗に、柱を発掘調査の成果をもとに復元。上部構造は不明だが「おんばしら」等のモニュメントや高床建物等さまざまな構造が考えられる、とも書かれていた。
 高い方の4本はすっくと立っていて気高ささえ感じられた。





 
その隣に「仮面の女神」出土を復元したものが作られていて、女神は土の中に横たわるように埋められていたことを知った。これらを見学した後に考古館へと向かった。(写真:出土状況が復元されている)


 


「塩の道」を歩く(その2)

2016年08月29日 | 

 824日(水)、9時少し前に、白馬町を起点として「北・塩の道」を南へと歩き始めた。歩くこと僅か10分で「薬師堂石仏群」に着いた。そこには石仏のみならず薬師堂や足湯もあり、高齢と見える村人多数が石仏や足湯の清掃をしていた。私も年に1度、富士前福寿会の1員として富士神社境内の清掃に参加するが、その奉仕活動に似ていて、強い共同体意識が感じられた。その足湯は白馬八方温泉からの引き湯で、この街道を行く旅人の疲れを癒そうと、最近に作られたものらしい。私も一脚お邪魔させて頂きたかったが、清掃中なので遠慮し、写真撮影のみでここを後にした。(写真:薬師堂の足湯)
 


 
      (清掃する村人)                       (ここの石仏一覧)

 進み行く道の右手には青々と稲穂の実る田圃が広がり、それを前景にして、快晴ならば五竜岳の絶景が望めるはずだが、その日は前の山並みが見えるのみ。家々を見ると多くは急な角度の屋根が多い。冬の豪雪に備えてあるのだ。曲がりくねった細い道には名も知らぬ石仏が置かれたりもしていた。

 

 歩くこと20分で空峠の石仏群に到着。庚申塔や同祖神も祀られている。中でも同祖神は男女二人が微笑ましく彫られていて、二人が手を繋ぐ姿もあれば、一人が相手の肩に手をかける同祖神もある。口を寄せ合う姿も彫られているそうだが、ここでは仲良く並んだ二人。(空峠石仏群)




  

 

      (同祖神)                    (庚申塔)

 「深空」や「みそら野」を過ぎると「名鉄」と名付けられた交差点に出くわした。多分、名古屋鉄道が開発した別荘地なのだろう。そこを過ぎると国道148号線の跨線橋が見えてきた。ついつい、つられてその道を真っすぐ進んでしまったが、ここは「塩の道」ではないことに後刻気が付くことになる。塩の道と信じつつ、そのまま進むと「飯森駅」。大糸線の白馬駅の隣の無人駅。ここで時刻表から帰りの電車を確認。駅付近の地図を見て、塩の道ではない道を歩いてしまっていることに気が付いた。そこで、塩の道とその付近にある長谷寺(ちょうこくじ)を確認し、長谷寺へと向かった。




  長谷寺は古刹だった。鬱蒼と茂る杉の大木の中に、室町時代に創建された寺院はあった。十一面観音も祀られているそうだが、その拝観は叶わず、私はベンチに腰掛け、杉の大木と鐘楼を見上げ、一杯の水に喉を潤した。この日は快晴ではなかったが30°を超える暑さ。珍しく疲れを感じていた。その先に向かうより、見失って歩いていない塩の道を戻ることにした。戻る道すがらに飯森神社石仏群もあった。





 道沿いには、遥か昔から続く村落があり、人々の生活があった。庚申塔や同祖神も含め、石仏は村民たちが旅人の無事を祈って建てられたものだろうか。往来する人々と村民の交流の場でもあった塩の道。(写真:長谷寺山門)



 
    (杉木立から長谷寺山門を望む)                            (山門を見上げる)

  
 (樹齢600年の老杉群)                              (ここの同祖神は肩に手を掛けていた)



「塩の道」を歩く(その1)

2016年08月27日 | 

 昨夜午後11時前に無事「北信濃」の旅から帰ってきました。今回の旅で特に印象深かったのは「塩の道」と「縄文文化」です。今後、何回かにわたり綴ります。

 宮本常一著『塩の道』を読んで以来、いつかはその道を辿りたいと思っていた。
 長野県や岐阜県・群馬県など海に面していない県は、海に面する県からの塩に頼らざるを得なかった。長野県(信州)へは幾つかの“塩の道”と呼ばれる道があった。東からは江戸川(元利根川)の奥へと、川舟で倉賀野まで上り、陸路を通って長野県へ。南からは富士川を遡り、鰍沢からは陸路諏訪方面へ。北からは糸魚川を出発点として千国街道を松本方面へ。この最後にあげた道を“北・塩の道”と呼べば、私は特にこの“北・塩の道”を歩きたかった。






 824日(水)、漸く念願が叶い、白馬から神城・長谷寺までの約4kmの道を歩いた。全長120kmに及ぶ塩の道は、石仏が多く点在することでも知られている。もはやその全長を歩くことは無理にしろ、少しでもその息吹を感じてみたいと思いながらの出発。
 白馬駅を背にして山側に300mほど進むと、国道号148線に平行するかの様に走る塩の道と交差する。その交差点には案内図、道標がしっかり立っていた。その案内図を読み取って、これから辿ろうとする道の知識を頭に入れると、石仏への期待感が増していった。その期待は裏切られないかったのだが、行動の記録は次回へ回し、今回は「塩の道 千国街道」説明板の内容を記しておきたい。


 説明板”塩の道 千国街道”より
 『千国街道の名は、遠く中世以前にさかのぼるものである。北陸道からは姫川沿いに信州への、東山道・木曽街道からは松本平・安曇野を縦貫して、越後へ通じる道であった。
 近世にあっては、越後では松本街道、信州側では糸魚川街道とも呼んだ、120余キロの間を言うのであるが、信州と越後を結ぶ動脈として、塩・麻などの海陸物資の交流は繁げく、街道が整備される明治20年前後まで、主街道の座にあって、経済道路としての役割は極めて大きかった。荷物の輸送は、すべて牛馬とボッカによるものであった。



 千国街道は安曇野の豊かな田園地帯を貫き、仁科三湖を巡り、北アルプスを仰ぎ、渓谷に沿うなど、稀にみる美しい風景の地を辿っているが、白馬小谷地方は豪雪地帯である上に険路が多く、物資の輸送は難渋を極めたのであった。街道時代にはわずかに旅芸人の通うところであったが、薄の穂波に見え隠れする庶民の汗の道として、また山村風俗・自然・石仏の宝庫として、激しい郷愁を誘う道ともなっている。
 戦国期、敵に塩を送るという美談で知られる越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄に、牛馬の隊列を整え塩を送ったというのも、この街道であった』
 
(写真は上は道沿いの石仏。右はホテルから一瞬見えた白馬山頂)


北信濃を巡って

2016年08月25日 | 信濃紀行

 今、白馬ハイランドホテルに宿泊している。今夏初めての妻との二人旅で、22日に出発の予定だったが台風9号が関東を直撃との予報。その影響を避けて、旅行日程を一日シフトした。
 23日~26日までのうち、このホテルに2泊し、最後に蓼科ハーヴェストクラブに1泊の予定。幸いこのホテルはWi-Fiが完備していて、ブログ更新が可能だった。
 今回の旅行で訪れたいところは4ヵ所。①「物味湯産手形」記載の温泉 ②白馬駅付近の「塩の道」 ③真田氏ゆかりの地 ④茅野の縄文遺跡

 旅の初日の23日(火)、バスタ新宿7時25分発の岡谷行は定刻より20分遅れで上諏訪に10時50分着。そこから1分に位置する駅レンタカーで車を借り、まずは黒部観光ホテルを目指した。昨年購入した「物味湯産手形」を殆ど利用していないので、今回の旅行コース中に手形記載の湯に数多く浸かろうと、まず立ち寄ったのが、上諏訪から白馬に向かう途上にある大町温泉郷。ここへは17年前、JTB主催の「黒部立山アルペンルートツアー」で母と来て以来のことだった。(写真:ホテルの建物)






 黒部観光ホテルは、名前から規模の大きいホテルを想定していたが、中規模の小奇麗なホテルで、温泉施設が充実していた。中でも気に入ったのが、水風呂と、湯質はさらりとしていて、解放感満点の露天風呂。(写真;檜作りの露天)




 その帰りのお茶しようと、ハイランドホテルへ向かう道筋で”雛には稀な”珈琲店は無いものかと、車中からキョロキョロ眺めているうちに発見したのが「Cafe 猫の耳」。建物が瀟洒なので多分お味も良いだろうと、飛び込んでしまったが、内部もしっかりした木目仕様。更にコーヒーも美味しく、気に入ってしまった。実は翌日もこの店を訪れ、プレートランチ(1500円)を食してしまったのは、プレートランチの内容が書かれているものを見ると、野菜三昧のランチ。そのメニューに惹かれてしまったのだ。期待を超えた味に満足。自分たちの勘が当たると嬉しさが増してくる。(写真;「猫の耳」外観)


 

 24日はランチ後「薬師の湯」に浸かった。こちらの湯では源泉の、湯温
38°程の風呂が気に入って、長時間湯に入っての温泉三昧。
 目的①は、この時点で半分は叶えられたのでした。(写真:下左がプレートランチ。下右が建物内部)

  


羽生の決断、叡王戦へ参加

2016年08月23日 | 将棋

 対戦前にはα碁への敵意を露わにしていた、囲碁最強棋士イ・セドルの完敗後の表情は晴れやかだった。記者会見で「α碁との対戦は心の先から楽しかった。α碁の手を見てこれまでの知識が正しかったかどうか疑問を抱きました。囲碁の世界をもっと極めたいと思います」と爽やかに語っていた。謙虚で、囲碁に向かう真摯な姿勢を感じて私は感動した。
 羽生曰く「将棋の世界でも過去の定跡が人工知能によって否定されています。でもそれは、終わりではなく新たな時代の始まりではないか。今回の取材で強く感じました」と語っていた。(写真:ハムサビに囲碁盤を贈呈するイ・セドル)


   (第5局を戦うイ・セドル)

 昨年から将棋のタイトル戦に「叡王戦」が加わった。一昨年まで、プロ棋士側5人とコンピュターソフトが対戦した団体戦の電王戦。それが発展し、叡王戦の優勝者と人工知能搭載の将棋ソフトとの対戦と、電王戦は変化した。
 第一回の叡王戦の優勝者山崎隆之八段は、電王戦でコンピュター側の優勝ソフト「ポナンザ」と戦い0勝2敗と完敗した。これ以外のタイトル戦は全棋士の参加が義務付けられているが、叡王戦のみはエントリー制で、参加希望棋士のみの参加。それでも大方の棋士は参加しているが、3冠保持者羽生も、竜王渡辺も、名人佐藤天彦も昨年はエントリーしなかった。それが今年のタイトル戦には羽生が参戦を宣言し、将棋界の大きな話題となっていた。

 
優勝すれば人工知能と対戦する可能性のある叡王戦。羽生は人工知能との対戦を辞さない決断をしたのだ。大川慎太郎著『不屈の棋士』では、羽生は昨年不出場だった理由を「タイトル戦のスケジュールが詰まっていたので、今回はいいか、という感じでした」と述べていた。それが一番大きな理由にしろ、棋界の最高位に位置するものとして、多くに考え巡らせたうえでの決断だったろう。今年は、その羽生が叡王戦のトーナメント戦を勝ち上がっている。(写真:対局中の羽生)
 羽生対ポナンザの頂上決戦が実現するかもしれない。私は羽生の英断に大きな拍手を送りたい。避けて通れない人工知能との戦いに自ら進んで出て行った背景には、人工知能の現場を見て来たことがあるような気がしてならない。イ・セドルの上記発言をも前向きに捉えたのではないだろうか。兎も角、羽生の叡王戦での戦いをじっくりと見続けたい。

 (本当は今日から北信濃の旅に出るはずだったが、台風の影響を避け、出発を一日延ばした。旅先でのブログ更新が可能かどうか不明だが、更新なきときはその環境に無かったと理解して下さい。26日帰京予定です)