マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

リサイタル~平和って すてき~へ

2019年04月30日 | 映画・美術・芝居・落語

 一昨日の28日、都立城北高校の卒業生ヒロコさんのリサイタルを「和光大学ポプリホール鶴川」へ聴きに行って来た。素晴らしいリサイタルだった。高校時代の友人たちも私も彼女のことを愛称の”キョン”とか”キョンさん”と呼んでいた。ここでも愛称の方で呼ぶことにする。

 このリサイタルの題名はフランス語で「LA VITA FERICE」(~平和って すてき~)。案内状をもらった時に、聴きに行きますとの返信メールを出したものの案内状を詳しく見てはいなかったので、うかつにも彼女の独演のリサイタルとは会場で初めて知った。殆ど、彼女の歌とピアノ演奏に終始した。このリサイタルの企画も彼女の発案で、ここまでの道のりの中心にもいたらしい。
 司会の北川鉄子さんに紹介されたキョンは、華やかなロングドレスで登場し、増永千採子さんのピアノ演奏で立て続けに3曲(マリタの祈り、アメイジング・グレイス、私と小鳥と鈴と)を歌った。ソプラノの澄んだ声がホールに響いた。私はその声量豊かな歌唱を初めて聴いた。300人収容のホールのほぼ全席を埋める聴衆から割れんばかりの拍手。4曲目「夢見たものは」は彼女の歌の先生miwaさんと二人で歌った。

 歌のあいまの語りにキョンらしさが漂っていた。前向きで、ひたむきで、芯の通ったキョンらしさが。小学校教員を退職後、自らの意志で始めたリサイタルはこれが3回目だった。5曲目の歌と朗読「むらさき花だいこん」に彼女の想いと人柄が良く表れていた。会場の一角にスクリーンが置かれ、パワーポイントで、同名の童話の絵が写しだされ、北川さんの朗読と彼女のピアノ演奏。この著者の大門高子さんも来場していて紹介された。
 絵本『むらさき花だいこん』は、戦争に駆り出された少年兵が中国に咲いていた紫色の菜の花の種を持って帰国し、帰国後その花を咲かせ、種を播いて、日本の至る所に紫の花を拡める物語。戦争を憎み平和を希求する物語・・・。この物語に感動した彼女は音楽教員として児童に聞かせたそうな。(写真:右は絵本。下はむらさき花だいこんの花)
 

 
 第2部はピアノ演奏で幕を開けた後、琉球の時代から伝わる目出度い曲の「龍落(たちうとぅし)」。沖縄伝統の楽器を演奏した二人はなんと彼女の息子さんと娘さん。家族総出の演奏にキョンのしあわせが溢れていた。
      
 沖縄への想いが伝わって来たのは「島唄」。会場全員への”歌唱指導”の後聴衆も一緒に歌った。
 最後の曲「ぼくたちの希望」に、このリサイタルのタイトル「平和」へのメッセージが込められていた。「むらさき花だいこん」の種が日本全国へ広まっていったように平和が日本全土に広まって欲しいとの彼女のメッセージ。
 
 最後に、彼女と初めて会ったときのことを記しておきたい。私がワンゲル部の顧問をしていた時の女性部長に”ゴンチャン”がいた。そのゴンチャンの結婚式が新潟市の「ホテルオークラ新潟」で行われたときのこと。待合室の私の前にひとりの若い女性が近づいてきて「川口先生ですか。私、ゴンチャンの親友です」と話し掛けられた。城北高校時代、先生・生徒として3年間を過ごしたのだが、教えたことは1度も無かったし、私の認識に上らない生徒だった。この時が初対面。その後何度か会ったときの彼女の言葉を今でもはっきり覚えている。「何があっても定年まで教員を勤めます」との。退職後にも大きな花を咲かせていた。
 帰り際、ロビーで聴衆を見送るキョンの前に立つて、「私が誰だか分かりますか?
」と冗談交じりに声を掛けた。「教育基本法改悪反対」時の国会前以来の再会だから13年になるか。さっと私の名前で応えてくれた。

 


『江戸上水基礎講座』(第1回 江戸上水の誕生)に通い始める

2019年04月28日 | 江戸の川・東京の川

 東京都水道歴史館の今年度の特別講座『江戸上水基礎講座』が4月27日(土)から始まり、聴講してきた。
 江戸時代の上水に関する基礎的な知識を学ぶ、各回1時間の講座。江戸上水の誕生から、玉川上水の開削、近代上水が誕生するまでの歴史をふり返るとともに、その構造や運営・管理まで、さまざまな視点から学ぶ、2ヶ月に1度、
全6回の講座だ。江戸上水については断片的な知識しか持ち合わせない私には絶好の機会と考え通い始めた。

 水道歴史館には何度も訪れていたが、3階へは初めてだったか。3階のレクチャーホールは100人は収容可能な中ホールで、ほぼ満席の盛況。高齢の男性が多数を占めていた。担当の学芸員金子氏は「こんなに参加の方が多いとは想像していませんで、あがっています」と挨拶。講座はパワポイントを使用して開始された。


 今回のテーマは「江戸上水の誕生」。以下学芸員の説明を、私の感想を僅かに交えながらまとめる。
 (1)近世都市「江戸」の上水
 家康の入府1590年当時の江戸は一面の葦原だった。家康は江戸城を整備するにあたり、城の東側の低地を埋め立てて、街の基盤を造ることから始めた。飲料水の確保が重要なテーマの一つで、海に近い埋め立て地から、塩分が含まれるなど上質な水が得られないため、かなり早い段階で上水道(「上水」)が引かれた。
 最初に開削されたのが「神田上水」と思われがちだが、それ以前に上水があったとの記録が『天正日記』にある。家康入府直前の天正18年7月に家臣大久保藤五郎(のち主水)に「江戸上水」の指示がなされ、10月に小石川あたりの「引水」がある程度整ったとされる水道は俗に「小石川上水」と呼ばれている。しかし『天正日記』は信じられない部分がある。怪しいとの記録であることは間違いなという印象です、と金子氏は語った。

 (2)「小石川上水」と「溜池上水」
 『天正日記』の記載が怪しいとしても、17世紀初頭には江戸の北東部と南西部に上水が誕生したことは確かなようで、『慶長見聞録』には「神田明神山岸の水を北東の町に、「山王山本の流れ」を西南の町に供給したことが述べてられいる。一般にはこれらが江戸の初期上水と考えられており、前者は神田明神のあった駿河台縁辺を水源とする「小石川上水」で、後者は山王社の側にある溜池を水源とする「溜池上水」と呼ばれている。

 この後「神田上水の成立」に話が及んだが、第2回のテーマが「神田上水」なので、この話は第2回にまとめる。
 (3)「溜池上水」の存在
 江戸の南西部は、1654(承応3)年に玉川上水が完成した後はその配水域となるが、その以前からこの地域に水道(=上水)が存在したらしいことが、幾つかの資料からうかがえる。国立歴史民俗博物館所蔵の『江戸図屏風』には御成橋から新橋方向に向かって掛樋が渡っている様子が描かれ、これは構造からみて上水の可能性がある。(写真は国立図書館所蔵『武州豊嶋郡江戸荘図』のデジタル版より)
 『武州豊嶋郡江戸庄図』には、溜池のところに”ためいけ 江戸すいとうのみなかみ”という注記がみられる。
 これらの資料から、江戸時代に現在の地下鉄溜池山王駅付近にあった「溜池」を水源とする上水の存在が推測される。溜池を水源とすることから「溜池上水」と呼ばれている。
 東京駅八重洲北口で玉川上水遺構を調査した時に、その下側に玉川上水開削以前に存在した石組の水路が発見され「溜池上水」かと推測している。この調査を私が担当しましたと金子氏が語ったときには笑いと軽い拍手が起こった。

 今後に大いに期待の持てる講座の初回であった。

 今日の二葉。ベランダの鉢に咲くブルーベリーの花
 
 
 
 
 
 
 

 


行くはずだった信濃路

2019年04月26日 | 信濃紀行

 「あずさ2号」の歌詞ではないが、4月24日に信濃路・安曇野を訪れ、拾ヶ堰を歩く予定で、特急券まで購入していたが、天候がいまいちで信濃路行を取りやめていた。
 安曇野に「拾ヶ堰(じつかせき)」という水路があることを知ったのは2年前の秋、白馬の喫茶「カミニート」を初めて訪れたときだった。主(あるじ:以下カミニートさん)に桜咲き誇る畔を流れる水路について尋ねた。「豊科にある拾ヶ堰です」との話を聞いて、いつかはそこを歩いてみたいと思って来た。ネット上にある『安曇野水土記』なども読み一応の知識を仕入れておいた。今日は無念の思いを抱きつつ、今回は行かれなかった拾ヶ堰について簡単に綴る事とし、見聞録を交えていずれ詳しく書きたい。(写真:安曇野と常念岳)
 
 「北アルプスの秀峰常念岳に源を発する烏川は深い谷間の水を幾筋か集めて安曇野に流れ出るが、平野部に出たとたん、その流れは忽然と姿を消してしまう。黒沢川又然り。この奇妙な現象は、この盆地が礫質(小石)の多い沖積層から出来ているせいである。水は地下を潜って不透水層を流れ、再び、扇状地の終わる先端部で姿を見せることになる。そのため広大な面積を占める扇状地の中腹には水はなかった。北アルプスという巨大な水の宝庫を持ちながら水田を作ろうにも地表には水がない
」 (写真:安曇野とその向こうに北アルプス)

 この悩みを解決する為に幾つかの試みが為されて来た。
 「中央アルプス・駒ヶ岳から流れ出る奈良井川は奈良井宿を通って50Kmを流れ、安曇野で梓川と合流し犀川となる。拾ヶ堰はその奈良井川から水を取り、扇状地の中央を約570mの等高線に沿って横切り、約1000ヘクタールの水田を潤す大水路。10に及ぶ村を潤すから拾ヶ堰と名付けられた」という。その完成までにも幾多のドラマがあったことも『安曇野水土記』には記されていた。
 安曇野の水田の多くが北アルプスではなく中央アルプスの水で潤っている不思議。
 歴史的にも地質学的にも興味を惹かれ事柄が隠れていそうだ。
 
 そこを訪れるには桜の頃が良いとカミニートさんから聞かされていた。一泊し、常念岳を見渡せる快晴の日にサイクリングをしながら回ろうなどと、欲張った目的の旅路を志向していたので、訪れる機会を逃してしまっていたようだ。丁度この2日間、妻は妹と福島の旅行に。この機会を利用して計画を一歩進めようとしたが、生憎の天候で中止してしまった。日帰りでも十分見学が可能とわかったので早目に訪れて見たい。(写真:拾ヶ堰)

 付記。中央線特急「あずさ」の自由席がなくなっていた。この3月16日からは必ず指定席を購入しなけばならなくなった。JR東日本の営業成績は好調なのに実質的値上げ!お客様本位で営業してほしい。

 今日の三葉:23日(火)小石川後楽園に藤を見に出掛けた。新緑が眩しかった。

 

 


 

 


 


70歳からプール利用が無料に

2019年04月24日 | スポーツ

 この4月から、文京区の2つのプールの利用料金が70歳から無料になった。その会員になるための手続きに竜岡門にある「文京総合体育館」に出掛けようと思っていた。それには順天堂そばの指圧屋「シュークロース」に予約してある4月22日(月)の帰路がベストと考え、一昨日は次の様なルートで回って来た。
 自宅→(都バス茶51)→「順天堂前」→指圧屋→「御茶ノ水駅前」→(学バス07)→「竜岡門」→文京区総合体育館→焼きそば店「まるしょう」→「竜岡門」→(学バス07)→「御茶ノ水駅前」→(都バス茶51)→自宅 (「」はバス停名)

 今日は上のルートに関して3つの事を書いておきたい
 ①プール利用について
  文京区立の体育館のうち、茗荷谷にある「文京スポーツセンター」と竜岡門にある「文京総合体育館」のプールは、今までは80歳以上の利用料金が無料だった。その年齢が、この4月から70歳に引き下げられたのだ。ラジオ体操仲間の上野さんとは「80歳まで長生きして区のプールに行きましょう」などと話していた。その上野さんから「4月から70歳でいいのよ」と言われ、早速手続きに行って来たのだった。写真・身分証明書・印鑑持参で『セミゴルード会員』の会員証が作られた。このカードは茗荷谷にある「スポーツセンター」でも使用出来、こちらは勤務先に近く、間もなく利用しようと思っている。(写真:文京総合体育館概観)

  ②御茶ノ水駅改良工事について
  JR御茶ノ水駅は現在大工事が進行中で、その一つとして漸くこの駅にエスカレーターとエレベーターが設置された。ホームからお茶の水橋改札口へと続く階段は閉鎖され、昇降機を利用し仮設の通路を経てお茶ノ水橋改札口に到達出来る。
 お茶の水近辺には病院が多く、特に高年齢者にとってエスカレータ等の設置が渇望されていた。この駅の構造から新設がなかなか実現しなかったが、駅改造の一環として昇降機が設置された。駅改造の主目的は中央線グリーン車2台増両が可能となる様なホームの拡張、とは指圧屋水野さんの解説である。この話はいずれ。



 ③「学バス07」について
 東大構内からの路線バスは現在2系統が走っている。行先が上野公園山下(循環)の「学01」と、行先が御茶ノ水(循環)の「学07」の2つ。そのうちの東大構内⇔御茶ノ水は、4月から停留所が移動していた。お茶の水橋そばの、東京医科歯科大前に移動していた。丸の内線の2番出口の真ん前である。それまでは聖橋付近にあった。
  昇降機で御茶ノ水橋改札への移動が可能になったから、それに伴い「学07」の御茶ノ水バス停も移動にされたと私は考えたが、水野さんの見方は「聖橋」が工事中なのでバス停が移動されたのではないかとのこと。こちらの見方の方が正しそうで、それだと移動は一時的なこととなる。
 それは兎も角、移動された御茶ノ水駅と東大構内の間の循環経路を知りたくて、行き返りに学バス07を利用した。


 今日の二葉。江岸寺の御衣黄桜。上が4月18日撮影のもので、下が4月20日撮影のもの。御衣黄桜の花の色が緑から白・ピンクに変化してしていくことが見てとれる。
       

   
 

 


定泉寺で『青島広志ピアノ独演会』を聴く

2019年04月22日 | 映画・美術・芝居・落語

 定泉寺は今年が開創400年とのことで、恒例の”おしゃべりコンサート”を『青島広志ピアノ独演会』と銘打ち、記念行事のひとつと位置付けていた。そのコンサートが昨日の21日(日)15時から開催され、自宅から徒歩6分の定泉寺に伺った。
 2018/4/26のブログに書いたが、ここの副住職は”教え子”だった。直接教えたことは無かったが、彼と同学年の生徒には数学を教えていた。その事を知ってからは寺の様子を気にすることが多くなり、寺の前を掃除している副住職と挨拶を交わすことも多くなっていた。このイベントも寺の掲示板で知った。
 独演会開始時刻には80席はあろうかというホールはほぼ満員となった。開催に先立ち副住職が挨拶した。「定泉寺は開創400年を謳っていますが、実は1721(元和7)年に開祖されまして、実はあと2年を要します。2日前が平成最後の満月。満月に興味を持ちますのは・・・」と言って被っていたものを取ると、満月の様に照り輝くお頭。お坊さんのおつむとしては当然なのだが、皆爆笑。和やかな雰囲気を醸し出していた。
 この後に青島先生軽やかに登場。自己紹介で「住所を近くの文房具店昭和堂に寄留して昭和小学校に越境入学しました」にビックリ。私の周りの、多くの人は息子も含め昭和小学校で学んでいた。
 最初の演奏が「トルコ行進曲」で軽快なピアノ演奏で開演した。前回のコンサートでも感じたことだが、ピアノ演奏の見事さは言うに及ばず、話が軽快で実に面白い。時に白板に速攻で絵を描く。手八丁口八丁の青島先生。プロフィールを見ると、1955年生まれの64歳。東京藝術大学および大学院修士課程(作曲)を首席で修了とあった。これまでに作曲した作品は200曲にも及び、最近ではコンサートやイベントのプロデュースも数多くこなしているそうな。演奏途中から、テノール小野勉さんの歌が加わった。物凄い声量である。その声は小ホールに響き渡った。
 全部で25曲が演奏されたが、最後の6曲は小学唱歌の合唱。「春がきた」・「めだかの学校」・「うれしいひなまつり」・「かすみか雲か」・「すみれの花咲く頃」・「こいのぼり」を私も大きな声で歌った。あっという間の100分間。時の経つのを忘れる楽しい演奏会。この豪華な演唱会が無料での開催とは。その財源を副住職には聞かないで定泉寺を後にした。

 今日の四葉。平成最後の満月は4月19日。この日の日の出は5時4分。月の入りも5時時台。日の出前の満月はくっきり見えていたが、日の出後急速に影が薄くなっていった。
 撮影時刻順に最初の二葉は日の出前の満月。次が日の出。最後が日の出後の満月。