マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「富士山」描いて半世紀ー中島盛夫さんに寄せてー(その2)

2012年01月29日 | 銭湯

 銭湯へ出掛ける楽しみが増えて来ています。朝ぶろや、冷え切った体で温かい湯に浸る快感・幸せ感は何ものにも代え難く思いますが、湯船の上の背景画を眺めたり、帰りに焼き鳥屋さんに寄り道したりする楽しみも。

 中でも雄大な山や海が描かれた背景画。その絵師は現在では全国に2人しかいないそうで、そのお一人が中島盛夫さん。1月17日の読売新聞「一期一会」からですが、福島県飯館村出身の中島さんがこの道に進んだきっかけは、就職の為上京したある日、入った銭湯の富士山の絵に感動したからだそうです。以来半世紀近く、様々な角度から見た富士山を描き続けてきました。(写真:1月17日読売新聞紙上の中島さん)


 誰に入門し、今までに何枚の背景画を描いて来たかなどその人生航路も知りたいところですが、今回は「鶴の湯」描画が中心話題。「鶴の湯」経営者も同名の中島さん。富士山が大好きな、娘のまさ子さんの発案で、湯船に浸かりながらも楽しめるようにと、ペンキ画を中島さんに描いてもらったとのこと。私の電話への対応も番台の人もまさ子さんと知ります。
 12月17日の「ふくの湯」での描画は非常に素早かったのですが、その秘密はローラーにありました。30代のころ、指を怪我してはけが持てなくなり、已む無くローラーを使ってみたら、速く描けるだけでなく絵に力強さが出て来たので、以来、ローラーで描いているそうです。男湯の絵は力強く細部まで描き、女湯は静かな絵をあっさりと仕上げます。その心は?女性は子どもの世話などで忙しく、絵をのんびり眺める余裕がないからとも書かれていました。

 さて今日1月29日から2月12日まで、妹夫妻・友人のKさんも含め総勢7名でマレーシアに出掛けてきます。この間、3日~4日に一度の割合でブログ更新をします。既に出来上がった原稿(これでは日記とは言えませんが・・・)を家人に投稿して貰う予定です。お暇なときにでもご訪問下さい。


「富士山」描いて半世紀ー中島盛夫さんに寄せてー(その1)

2012年01月28日 | 銭湯

 
  昨年の12月17日に、ご近所の銭湯「ふくの湯」の新装開店のイベントで、富士山の背景画を描いた中島盛夫さん(66歳)、その1週間後のクリスマスイブの12月24日には、そこから300mも離れていない銭湯「鶴の湯」の背景画に富士山を描いていました。それも普通の背景画とは全く違います。普通、背景画は脱衣所から見て、湯船のその先の上の壁面に、男女それぞれ違う絵が描かれます。「鶴の湯」の背景画は、湯船に浸かって番台の方向を見て、見上げると鑑賞出来るように描かれています。言い換えれば浴室と脱衣所を仕切るガラス戸の上の大きな壁に富士山が描かれているのです。一枚の絵ですから男子側からも女史側からも同じ絵が見えます。(写真:鶴の湯入口)




 この事を知ったのは、まずは12月26日頃、ラジオ体操常連のNさんからです。現在80歳のNさんは毎日どこかの銭湯に出かけるという銭湯オタクです。いち早くこの情報をキャッチしていました。その話を聞いて私も、昨年暮れに早速見学に行きました。実に大きく雄大な風景を39度の薬湯に浸かりながら長時間眺めていました。





 次いでこの背景画と中島さんが話題となったのは1月17日の読売新聞の「桐谷夫妻の一期一会」欄です。これは福寿会Kさんから聞きました。朝日新聞を取っている私はその記事を読みたくて、Kさんにコピーを依頼しておきました。この記事の詳細は次回に譲るとして、私は早速この背景画を撮影したくて、「鶴の湯」へ撮影依頼の電話をすると、開店30分前ならOKとの事。早速1月25日(水)に出掛け撮影してきたのが上の写真です。



    (写真:12.24 ナカジマの署名が見えます

 さて、「鶴の湯」の宣伝を少々。清潔な銭湯で、番台に座る女性の優しい応対に人気があります。39度の薬湯にどっぷり惚れ込んでいる人もいます。電動のマッサージ器は無料です。私が気に行っているのは富士山の写真展示です。3時半に撮影入店した折りには5人もの人が開店準備でおおわらは。忙しそうに働いていました。下準備の大変さを知ると同時に、これだから清潔さが保たれていることも知りました。我が家から半径徒歩15分以内に銭湯が2軒もある有難さを思います。
 ラジオ体操について付け加えるなら、そこは単に体操を行う場だけではなく、主として地域でのコミュニケーション上の重要な役割を演じている事も実感しています。
 中島盛夫さんの人物なりについては次回ブログで。


高井戸から神田川を下る

2012年01月25日 | 江戸の川・東京の川

 1月22日(日)、雨模様のこの日、福寿会健脚3人組で、井の頭線高井戸駅から神田川下流に沿って歩き始めました。到達目標は都電終点早稲田付近にある「豊川浴泉」です。昨年の12月12日には神田川源流の井の頭公園から高井戸まで神田川上流を歩きました。その後、出来れば神田川全流域を歩こうと、3人の気持ちが一致。今回は神田川本流の残り半分以上を散策し、次回で本流を完歩し、その後支流たる「善福寺川」と「妙正寺川」をも巡ろうとの計画を考え始めました。神田川以降は石神井川や隅田川をも考える事になるでしょう。
 

 以下辿った主な地点です。
 高井戸駅→塚山公園→八幡神社→井の頭線・井の頭通り→熊野神社→環七通り(昼食)→方南通り→善福寺川との合流地点→中野通り→山手通り→青梅街道→大久保通り→早稲田通り→総武線→下落合駅→山手線・西武新宿線→新目白通り→高田橋→都電荒川線面影橋→仲之橋→豊川浴泉 (写真:井の頭線と交差)  


 
 時間の割に歩いたポントが多く、各ポイントでの印象が薄くなってしまいました。そこで羅列的に印象やら実態を順不同でレポートします。(写真:井の頭線と交差)


  
     (写真:熊野神社)


①出発地点の高井戸は隅田川から20・5Km(里程標No41)上流にあります。この里程標は500mごとに埋められています。豊川浴泉へ通じる仲之橋は、不確かな記憶ですが里程標No15(隅田川から7.5km上流)のはず。11時出発の16時半頃まで、昼食休憩を除いて4時間半ほどかけて約13kmを歩いた事になります。(写真:No41の里程標)







②流域には鯉が泳ぎ、沿岸両サイドは小公園・親水公園・緑地などで良く整備されていますが、井の頭公園付近の様な牧歌的雰囲気はありません。流れは遥か下を流れ、護岸の為川が見えない個所もあります。(写真:高井戸付近では鯉も見られます)






 ③この川は過去に何度も大きな氾濫や洪水を引き起こしました。そこでその対策に東京都や区は多額の費用を注ぎ込んで来ましたし、現在進行形で幾つかの工事が進められていました。1mの沿岸工事に500万円は費やすと書かれていました。(写真:桜の頃に再度訪れたい辺りもあります)




④神田川は支流を二つ持ちます。善福寺川と妙正寺川です。そのうち妙正寺川とはかっては新宿区落合の辺りで合流していました。川の合流がそのまま地名になったわけです。現在も両河はそこで合流しいると思い込んでいましたが、違いました。ネット上その様な地図が登場している例もあります。しかし妙正寺川は落合から暗渠となり、新宿区高田橋付近で神田川に合流します。妙正川も荒れる川で水害対策の一環として流路変更が為されていました。何時流路変更があったかは調べていますが、まだ分かっていません。(写真:神田川と善福寺川の合流地点)


 ⑤神田川は何度も蛇行を繰り返しながら、主として東へ進路を取ります。ある地点からは新宿高層ビル群を目指して進路を取る流域もあります。そのため珍しい写真を撮れましたが、青梅街道を過ぎる辺りから北上し始め、下落合から再び東へ向かいます。(写真:正面は都庁ビル)





    (写真:ビルにビルの影が写ります)


 ⑥神田川の水を地下にプールして置く場所や神田川の地下迂回暗渠も何ヶ所かあり、この川に対しては洪水対策が最重要な課題だと認識を新たにしました。(写真:高田橋付近で3つの水路が合流。左から神田川・神田川迂回路暗渠・妙正寺川暗渠)






 

 ⑦当然の事ですが、出発地点で疎らだった人影が下流に来るにしたがって密になって来ます。ただ多くのランナーと、散策する人に会いました。自動車が入ってくる道は殆ど無く、都民のオアシスとなっている神田川の一面もあります。(写真:八幡神社には人影疎ら)







   (写真:面影橋付近を行く都電荒川線)


 最後に文京区の銭湯に入り、その後は・・・。
 これで私は文京区での銭湯を10湯中9湯巡ったことになりました。(写真:豊川浴泉)


 


文京の坂を巡って(その2 傘谷坂)

2012年01月23日 | 

 1月19日(木)に、最後に巡った坂が傘谷坂です。”傘谷”は”かさたに”と呼ぶのではなく、”からかさだに”とかながふってあります。電子辞書広辞苑で調べ、”傘”一字で”かさ”以外に”からかさ”とのかなを持つことを遅ればせながら知りました。

 さて文京区の多くの坂が、本郷台地・白山台地・小日向台地・関口台地などから千川・小石川・神田川などの谷や川に下るに対し、傘谷坂は本郷台地上で、まず窪地(=傘谷)へと下り、その後上る坂です。坂のどちらの端からも、まず坂を下って谷に至り、その後坂を上って、坂の反対側の端に達します。(写真:傘谷坂)

 

 今までに文京の、名のある坂115ヶ所のうち丁度90ヶ所を巡りましたが、傘谷坂の様な上り下り一対をなす坂は初めてお目に掛りました。立看板には、「此辺にて多く傘を製し出せしよりの名なりといふ、さもありしにや、今はそれらの商人も見えず(『改撰江戸志』)」とあります。


 三組坂を上り終えて、傘谷坂へ向かう途中、霊雲寺を右手に見て、湯島2丁目の交差点までやってくると、突然「オザワ菓子店」の看板が目に入りました。ここの”苺シャンデ”が気に入っていて、20年ほど前にはよく買いに来たお店です。更に地図で傘谷坂の位置を確認すると、そのオザワ洋菓子点の脇の道が傘谷坂で、ここでは線(傘谷坂)と点(オザワ洋菓子店)が繋がりました。(写真:オザワ洋菓子店入口)



 余談になりますが、松たか子のお気に入りの店として紹介されたこの店の、”苺シャンデ”が人気商品と聞いて何度かこのお店に足を運んだのですが、何時も売り切れ。このことをこのお店のそばに住む、文京鍬の会のMさんに話したところ、我が山荘にいらしたときに沢山の苺シャンデを持参して呉れて、初めて苺シャンデを食しました。クッキーの生地の上に大粒の苺をのせ、その上に生クリームを絞って、チョコレートでコーディングしたお菓子。最後に味わえる新鮮で大粒のイチゴも実に美味しく、以後お気に入りのケーキとなりました。今回ショウウィンドーを覗くと小170円、大200円以外に、特大も置かれていてこちらは285円。買い物後の道中はまだ長いのですが、懐かしさにひかれ特大を購入して後、傘谷坂を下り始めました。


 坂を上り終え歩む道すがら、日本サッカーミュジアムも見えてきて、この通りがサッカー通りと呼ばれている事も思い出しました。(写真:日本サッカーミュジアム正面玄関)


文京の坂を巡って(その1 実盛坂)

2012年01月21日 | 

 このところ、意識的・計画的に文京区の坂を巡っています。例えばラジオ体操の無い日曜日には早朝6時台の都バスでお茶ノ水方面に向かい、湯島聖堂付近の坂を訪ねたりとか。花の名前を知らないで過ごして、ある時その名前を知って、以来その花への愛着が増すように、歩いた事があった坂でも、その坂の名前を知るとその坂への親しみが増すようです。坂巡りの動機の一つです。


 一昨日の1月19日(木)、御徒町アメ横で買い物をする前に、湯島天満宮付近の坂を散策する計画を立て実行して来ました。昼食は、湯島天神下のラーメン「大喜」へ。ここを訪れるのは2年振りです(2009年12月11日のブログに登場)。11時35分には到着するも、既に列が出来ていましたが、待つこと僅か4・5分で店内へ。更に待つこと5分で「醤油ラーメン」(680円)の登場です。やはりここのスープは絶品と思いながら、最後の一滴まで完食。カウンター10席、テーブル6席の狭い店内、昼食時は満席状態です。(写真:シンプルな醤油ラーメン)


 食後湯島天神へ。梅まつりは2月8日からで、梅はまだ咲いていませんが、訪れている人は多く、受験シーズン到来もあり、合格祈願のこの神社へのお参りは引きも切りません。私は身内の税理士合格を祈願しました。
 湯島天神へと登る坂は3つあります。天神石坂(男坂)、天神女坂、天神夫婦坂です。ここを巡った後、切通坂→中坂→実盛坂→ガイ坂→三組坂→傘谷坂と、この日だけで9ヶ所を回りました。(写真:夫婦坂)


 これらの坂の中で印象の強い坂は実盛坂と傘谷坂(からかさだにざか)です。
 実盛坂は階段状で、その数50段ほど。非常に急勾配の階段です。数学で言うところの”傾き”は相当なものがあります。文京区の坂の中では一番急ではないでしょうか。それよりもこの坂名「実盛坂」の由来に興味を惹かれます。『実盛とは「平家物語」や「源平盛衰記」に登場する斎藤別当実盛のこと。平家方に味方し、木曽義仲の家来手塚太郎光森に討たれた。敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めて出陣したという。湯嶋の台から池の端のあたりに斎藤別当居住の地なりといひつたう』などと由来が書かれています。
 それを読んでふと、かって観た民芸の「わが魂は輝く水なり」を思い出しました。演出と実盛役が宇野重吉で、巴御前役が奈良岡朋子。細かい筋は忘れましたが、宇野重吉扮する実盛は落人として登場していた様に記憶しています。民芸の歴史を調べると、脚本は清水邦夫で、1980年上演とのこと。長く生きてくると、こうして現在と過去が点と点で繋がる事があります。実盛は『平家物語巻七』の「実盛最期」で登場するので、もう一度会えることでしょう。さて傘谷坂は次回のブログへ。