マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

稲付川暗渠を歩く(その2)

2020年07月29日 | 江戸の川・東京の川

 姥ヶ橋の下7メートルあたりを稲付川が流れていたのではないかと思わせる階段があった。稲荷台から環七を越えて北区側の稲付川暗渠に進むには環七から右写真のような狭い階段を下らなければならない。この高低差は稲付川がこの近辺では切通に造られていた証だと私は思う。(右写真)
 しかし、「稲荷台」について書かれたWikipediaには「稲付川は石神井川に注いでいた」との記述もみられる。ここまで私が書いてきた稲付川の流れとは反対方向が述べられている。これは誤りではないかと思うが、この様な説もあることを紹介し、今後更に調べたい。
 安政時代の地図を見て、姥ヶ橋付近が面白いことに気がついた。中山道から別れ王子稲荷へと向かう王子道が板橋・十条道と分岐するあたりに姥ヶ橋は架けられ、“朱引”(いわゆる大江戸の範囲)の直ぐ外にあった。その王子道は現在は都道455号線となり北区役所方面へと続き、板橋・十条道は姥ヶ橋以東環七となった。
 少し横道に逸れたが、話を暗渠に戻そう。北区に入ると暗渠の幅は狭くなり両側が迫りくるようだ。くねくねと谷底を流れていたかがことがよくわかる。住居表示は左側が北区西が丘で右側が十条。暫く進むと左側は赤羽に変わるが右側は十条。そのまま進むと京浜東北線にぶつかり先には進めない。その先から隅田川までは後日にと考え、この日はここで終了。


 実は水野さんに同行した7月13日に、稲付川暗渠を歩く前に赤羽台にある稲付城跡と香取神社を案内してもらっていた。赤羽駅西側直ぐそばにある階段を上ると稲付城跡があった。標高21mの台地に立地する中世の城館跡で、太田道灌築城の可能性もあるそうな。(写真:稲付城跡へ上る階段。下は城跡にある静勝寺山門)






 ここから台地上を南に進むと香取神社。境内からの見晴らしが良い。水野さんはここから南方を眺め、窪地になっていることから川が流れていたのではと推測し、それが稲付川探索に繋がったとのこと。(写真:香取神社付近からの眺め)


『メインテーマは殺人』(著:アンソニー・ホロヴィッツ)を読む

2020年07月26日 | 読書

 本書の著者ホロヴィッツの作品『カササギ殺人事件』は2018年度「このミステリーがすごい!」・「週刊文春ミステリー10」などの海外部門で4冠に輝くなどミステリーファンから高い評価を受けた作品だったが私は読んではいなかった。ただ何故か著者名はしっかり記憶に残っていた。
 妻が借りて読んでいた『メインテーマは殺人』の著者はホロヴィッツで、その作品が書評欄で取り上げられていたこともあって、図書館へ返却以前に私の方へ回してもらった。

 資産家の老婦人ダイアナ・J・クーパーが葬儀社を訪ねるところから物語の幕が開く。老夫人は自分の葬儀の相談をし、自らの葬儀の手配をして帰宅30分後何者かに絞殺されてしまった。
 本作品の主人公の一人は著者アンソニー・ホロヴィッツである。そう、著者自身が物語を語ることとなる。彼が妻とレストランで食事中にロンドン警視庁の顧問で元刑事のダニエル・ホーソーンから携帯に電話が掛かってきた。会うと、老婦人が葬儀を手配したその日に殺害されたこの奇妙な事件を捜査する自分を本にしないかと誘われる。
 彼の捜査能力の凄さのみならず性格をも知っているホロヴィッツは彼の申し出を断ろうと思うが、示された事件に大いなる興味を感じ引き受けてしまう。結局この殺人事件を捜査するホーソーンを描くため、彼と一緒に事件現場や事件に関係ありそうな人物を訪ね歩く二人三脚の旅を重ねることとなってしまう・・・。

 p214から物語は俄然面白くなる。老婦人の埋葬の日、埋めようとした棺から音楽が流れ出したのだ。
 ♪ バスのタイヤはぐるぐるまわる ぐるぐるまわる ぐるぐるまわる ・・・・・♪
 棺の中にはデジタル・レコーダーが置かれていた。誰が何の為に?謎は深まるばかりだが、
老婦人の葬儀の後、彼女の息子で俳優として有名となったダミアン・クーパーも殺害されてしまう。

 犯人は誰か?次々に怪しい人物は登場する。私はじっくり読んだつもりだが、最後近くまで犯人が分からなかった。しかし、読み終えて振り返れば、犯人に結び付く伏線は何本も張り巡らされていた。悔しいかな、その点ではフェアプレーの作品で読み手の私の完敗だった。ダニエル・ホーソーンが活躍する作品は10作か11作を予定しているそうで、今度は借りは返すぞと思いで次作品を待つことにしよう。


稲付川暗渠を歩く(その1)

2020年07月23日 | 江戸の川・東京の川

 稲付川は石神井川の分水として、現在の板橋区双葉町から赤羽駅付近を経由して隅田川へと注いでいた農業用水。1967年に開始された工事により現在ではほぼ全域が暗渠化され排水路に役割を変えている。7月13日(月)、指圧屋・水野さんに案内されて、双葉町から姥ヶ橋までは車で、そこから赤羽までは徒歩で稲付川暗渠を巡ってきた。
 この日、指圧後に散歩する予定だったが、天気予報によれば午後3時過ぎは雨。そこで散歩を先にした。分水点と見なせる久保田橋から車で巡ったが、日曜寺・稲荷台・姥ヶ橋付近には車を止めての散策で、これがその後日私一人で歩く際の大きな参考になった。
 その後、7月16日(木)の早朝と、7月17(金)の午後に、車で案内された所を歩いてきた。今回はそちらを先に綴り、次回に姥ヶ橋から下流の話を綴りたい。
 
 7月16日、朝早く、東上線は中板橋駅で下車した。ウイキペディアには、稲付川と石神井川の分水点は中板橋駅そばの向屋敷橋付近とあったからだ。水野さんに案内された久保田橋の一本上流に架けられた橋で、どちらの橋付近にもそこが分流点であった痕跡は残ってはいないが、向屋敷橋付近には右写真のマンホールがあった。





 向屋敷橋からスタートすると、直ぐに日曜寺に至る。立派な建物のお寺さんで真言宗霊雲寺派の寺院とのことだが、私の関心は門前にある右写真の石橋の名残りにいってしまう。暗渠歩きの面白さの一つは消えてしまった川の痕跡に出会うことだ。
 そこから先の流路は智清寺の塀に阻まれて進めない。智清寺にお参り方々境内を見学しようとするが、朝5時台は門が閉ざされ境内には入れない。止む無くこの日の散策はここまでにして帰路についた。



 翌17日、再び智清寺へ。掲示板には「山門前にある正徳四年(1714)の石橋は、江戸から大正時代に使用された中用水(稲付川の別名)に架けられたもの。(中略)明治五年板橋町と下流の上十条村以下七ヵ村との間で配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった」と書かれていた。石橋は立派な山門のすぐ傍にあった。石碑には「正徳四年」の文字が読める。昭和60年度には板橋区登録文化財(史跡)に認定されたそうな。
   
 

 そこから国道17号線を越え旧中山道と交差し、更に進むと稲荷台。流路は上り坂になっている。これは不思議だ。多分この台地を越すには水路用の切通を切削したに違いない。そこから姥ヶ橋環七陸橋が見えた。台地の下を流路だったと思しき痕跡が見えた。姥ヶ橋とは稲付川に架けられた橋だったことを初めて知った。



 暗渠沿いにはそれらしき痕跡が幾つもあった。下の写真はそれら痕跡。

 




 


藤井聡太新棋聖誕生  

2020年07月20日 | 将棋

 多くの人がご存じのように、7月16日、棋聖戦5番勝負第4局は藤井聡太7段が渡辺明棋聖に勝利し、17歳11ヶ月で棋聖位を獲得した。それまでの、屋敷九段の最年少タイトル獲得記録18歳6ヶ月を30年ぶりに更新しての記録達成だった。
 私は16日の午後からずうっとパソコンの前に座り、ABEMAテレビで両者の対戦を観戦していた。最近は画面の一角に現在進行形の棋譜のみならず、AI判断でどちらが優勢かが分かる数値が映し出される。午後に入ってからは渡辺棋聖側の数値は60%を超え、藤井7段側の数値は30%を下回ることもあった。渡辺棋聖得意の“矢倉戦”。これは今日の藤井勝利はないだろうなと半ば諦めながら観戦していた。
 しかし19時少し前あたりから数値の差が詰りだし、82手目藤井7段が☖8六桂と桂を打って形勢は逆転し、AI判定は藤井有利となった。夕食の準備は完了していたが暫し待ってもらい、妻にも観戦を強要しながら見続けると、評価関数値は藤井99%―1%渡辺となった。もう終了かと思いきや、そこから棋聖は1分将棋(1分以内に指さねばならない状態)となってもからも数回藤井玉を追い続けたが、最後には天を仰ぐような仕草の後110手目で投了、藤井棋聖の誕生となった。

 私は棋士のブログを少なくも3つ読んでいる。この中でこの棋戦に関して2人のブログは心に響くものがあった。
 敗者となった渡辺さんの「渡辺明ブログ」はその翌日の午前中に書かれたものだろう。きちんとした自己分析をし、正直な気持ちを書いていた。少しだけ原文を引用させて頂く
 「・・・第3局のように持ち時間を残すという点では途中まではプラン通りでしたが、自信ありという感じで△86桂を指されて、そこでこっちも手が止まったので、この将棋は負けたなと覚悟しました。今後に向けて相手より持ち時間多く残すという指し方を真似するのは無理なので、自分の長所を生かして対抗できる策を見つけるしかないと思いますが、(それが上手くいったのが第3局)。勝ちパターンがそれしかないのでは厳しいので、次の機会までに考えます」と。
 朝日新聞社説も付け加えると、「感想戦に学びたい」の中で「・・・悔しい負け方をした渡辺棋聖が、ていねいな言葉づかいで19歳年下の藤井新棋聖に意見を請うシーンには胸を打つものがあった。」とあった。
 
 もうひとつのブログの著者の片上大輔7段は人物紹介から書くと、彼は東大在学中にプロデビュー。史上初の東大卒プロ棋士となった。弟子の一人に女流カロリーナ・ステチェンスカがいる。彼のブロブ「daichanの小部屋」は読みやすい。 
 「将棋界は彼の出現によって新たな時代に入りました。
彼が強いと同時に華がある、というのは将棋界にとって本当に幸運なことだと思います。これからも楽しませてくれると思いますし、楽しんでいきたいです」とあった。
 私も新棋聖の探求を見続けたい。

 

 


五代目清水橋(別名 からはし)は開通していた

2020年07月17日 | 東京散歩

 7月3日(金)、一葉終焉の地の写真撮影の折に、先に東大正門前にある法真寺と一葉ゆかりの桜木の宿に寄った。ここについてもいずれブログに綴りたいが、今日は先を急ぐ。「桜木の宿」から終焉の地へ移動するには本郷弥生から春日へと下るルートもあるが、近道を知っていた。切通に架かる清水橋を渡ればよいのだ。(写真:完成した清水橋)
 橋に近づくにつれて思い出した。1月にこの橋下を通過したときは改築中だったことを。近づいてよく見ると新清水橋は完成していた。


 東大付近にある清水橋。いたってローカルな話しだが、この橋、私好みの切通に架かり小粒ながら見事な佇まい。更には一葉の日記にも登場してくるので綴っておきたい。






 根津方面から弥生坂を上り、東大農学部と工学部の間を通る道路は本郷通りまでは言問い通りだが、本郷から春日方面へ下る道は言問い通りとは呼ばないらしい。その坂は切通しになっていて、その切通しに初代清水橋が架けられたのは明治13年。切通し工事と同時進行だったと推定している。(写真:清水橋に通じる階段)
 橋の袂にある説明版からその橋の変遷を要約すると
 江戸時代 西片町側には福山藩阿部家、森川町側には本多家の江戸屋敷があったが、両町の間に橋はなく、谷底には清水が流れていた。
 初 代 明治13(1880)年 西片町と森川町間に橋が架けられ、清水の流れは無くなり、「からはし(空橋)」とも呼ばれるようになった。
 二代目 明治39(1906)年 建築家武田五一設計による木橋となった
 三代目 大正3(1924)年に撮影された写真が残るのみ(右写真)
 四代目 昭和11(1936)年~昭和12年(1937)年に架橋されたと考えられている。コンクリート造り
 五代目 平成31(2019)年に木目調のコンクリート橋とし架橋完成 





 その開通式が区長など出席のもと、令和2年2月24日に行われた。










 明治24年8月8日の一葉の日記には、上野の図書館からの帰り道に空橋の下を通った時、からはしの上から書生らしき人物に冷やかされたことが書き残こされている。(原文は最下段に)
 
 一葉が上野図書館からどの道を通って帰宅したかを想像するのは楽しい。当時の上野図書館の地には現在は「国際子ども図書館」が建っている。明治時代の地図で確認すると24年には、現在の言問い通りと呼ぶ通りは既に出来ていた。まずは言問い通りに出て、その道を真っすぐ弥生坂を上って弥生に至り、そこから清水橋の下を通って菊坂下へ。更に菊坂を少し昇って家路に着いたのではないだろうか。この間40分ほどの一人歩きだったか(?)


 
 日記文
 「空橋のした過
る程若き男の書生なとにやあらん打むれてをはしまに依りかゝりてみおろし居たるか何事にかあらんひそかにいひて笑ひなんとす しらすかほして猶いそきにいそけはひとして手を打ちならしてはうさくにもこちむき給えなんといふ。何の心にていふにや 書のかたはしをもよむ人のしわさともおもへはあやしくも成ぬ。」