マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『シン・ゴジラ』を観る

2016年09月30日 | 映画・美術・芝居・落語

 9月25日(日)、妻と共に池袋に足を運んだ。『シン・ゴジラ』の上映予定は24日までのはずだったが、急遽、上映が延長された。日曜の初回だが、予想より大分入りがいい。席は半分位は埋まっていたか、女性が多い。終わって外に出たら、若い女性が多数並んでいた。
 長く生きてきたから、勿論デビューにも立ち合っている。小学生の頃だったと思うが、面白かった、迫力があった。そして、核実験の落とし子であるゴジラに、そこはかとない哀愁と共感を持ったことを覚えている。モスラやキングコングと対決するゴジラも観たが、ハリウッド版は観る気がしなかった。
 さて、『シン・ゴジラ』であるが、災害多発・縦割り行政・米国への従属・過去の歴史に学ばない等、妙にリアリティーがある。その中で困難を克服し、危機回避を果たした主人公達や自衛隊が輝いて見えてしまう。「ま、海外派兵じゃないしな」「こんなに凄い軍備なんだ」「いざという時は自己責任になるんだ、トランプは予言してるのか?」「核を撃ち込まれる立場か!」等、思うことは多様であった。
 売り物のすさまじい破壊場面は特撮やCGとはいえ、さすがだが、妻は「あ、呑川だ」とか「多摩川台公園で花見をよくやった」など、個人的興味で面白かったらしい。私は、ゴジラの登場場面や、見る見るうちに進化していく様子が印象深かった。そして繰り返しになるが、政府関係者が、右往左往している様子を面白く観た。「長谷川」副官房長官なんていそうにないから、日本は滅びてしまうのだろうとか。「ゴジラ」は核の廃棄物から誕生したそうだが、原発そのものがすぐ思いつくほどメッセージ性が高いとも言える。こういうのを観客はどう観ているのか?と改めて思う。
 途中、海中に投棄された核廃棄物のドラム缶が海底に沈んでいる姿が映し出されていた。全面禁止となる迄に日本を含む13ヶ国による海洋投棄が報告されている、あのドラム缶は今も海中に放射性同位体を溶出し続けているのだ。

 まぁ沢山の名だたる役者の名が並んでいて、女性客の「斎藤工なんて、ちょこっとよ」という会話も聞こえたが、知らないので無論わかりようもない。なかなかのイケメンだそうだとは妻から。ゴジラの立ち姿が萬斎だと知らされて、これはわかる。しかし、「三つ子の魂」だろうか、私には初代ゴジラが、映画もキャラクターもナンバー1である。


中里貝塚(最終)

2016年09月28日 | 歴史

 巨大なハマ貝塚としての中里貝塚は発掘後入念な調査・研究が進められ、多様なことが明らかになった。

 <貝塚からは人工遺物の出土が極めて少なく、貝類以外の食物残滓出土量も圧倒的に少ない。浜辺に作られた貝塚であるにも関わらず、魚骨も極端に少なく、鳥獣骨は全く見つかっていない。それに反して、食用にされたマガキとハマグリという比較的肉量の多い2種類の貝類の出土量は他の貝塚を圧倒している。ハマグリに関しては、平均サイズが43mmと大型のうえ、大きさが整っていて、七社神社裏貝塚のハマグリ(平均35mm)と比較しても、中里貝塚では、人々がその大きさにこだわって採集したことがわかる>(写真:右上がハマグリ。他の貝類と比較して、相当大きい。右下がマガキ)

 勝手に想像を逞しくすれば、豊富に採集できる大きなハマグリとマガキがあれば十分で、他は何も要らないないということだろうか。ともあれ、貝塚の周辺では日常生活はなく、貝の採集→貝の加工処理→貝殻の廃棄という、貝のむき身作りに特化した一連の作業のみが営まれていた場所だったのだ。

 <又、中里貝塚は、当時の海岸線に沿って帯状に形成され、その広がりは、長さ最低でも500m以上、幅100m以上にわたっており、貝層は14mの層厚に及ぶと見られている。すべての部分で調査が為されてはいないが、単純に推定計算すれば50.000100,000立方メートルの大きさになる。大規模なムラ貝塚である千葉市の加曽利南貝塚の容積が5,000立方メートルとされているから、その10個分に相当する貝塚が一ヵ所に集中していることになる>(写真:左下が中里貝塚。その右隣が加曽利南貝塚)




 <では、中里貝塚を作った人々の生活基盤はどこにあったのか?貝塚を見下ろす台地上には複数の貝塚が見られ、中里貝塚から直線距離にして1.5km圏内の北区内や3km圏内の文京区方面に分布する集落はあたかも、中里集落を取り囲むように位置し、その有力候補である。武蔵野台地の内陸部、石神井川流域には大量の貝の消費に見合うだけの大規模集落が見られる。中里貝塚を作った人々は、大量のむき身を材料として、他地域の人々と物々交換を行っていたかもしれません>
 早朝散歩の際にその脇を通る、動坂遺跡貝塚もその一つかと思う。

 <しかし、中里貝塚も縄文時代後期の初め頃にはその形成を終了させた。そのような状況の背景には、地球規模での寒冷化による海岸線の段階的後退や貝殻大量投棄による内湾干潟の陸地化が進んだことなどが考えられる。逆に、この貝塚に近接する西ヶ原貝
塚での集落の形成が活発化していることから、この時期には貝の採集・むき身作りに依存しない、新たな生活スタイルが出来上がりつつあったのかも知れません>

 おわりにかえての“貝塚形成の衰退と土器製塩の開始”は特に興味深く読んだ。製塩方法については、宮本常一著『塩の道』にも登場していたが、
 <縄文時代晩期、貝塚の造営数の減少と時を同じくして、各地で製塩土器による塩つくりが行われるようになった。
 近年、貝類を乾燥させた干し貝に塩分摂取源としての役割を見い出す考え方が示されている。採集した貝のむき身を海水で煮ると、かなりの塩分含有量になる。ハマ貝塚でのむき身作りはそれに含まれる塩分の採取・流通こそ主目的ではなかったかという考え方で、この考え方を応用すると、中里貝塚の終焉の背景には画期的な土器製塩法の登場を加えることが出来る。
 縄文時代の計画的な生産活動、広範囲のおける交易、“社会”と呼ぶに相応しい他地域間のネットワークの存在、を示し、日本列島を沸かせた大規模発掘調査から10年あまりが経った今、貝塚研究は、新たな展開を見せつつある>と、6年前発行の冊子は結んだ。新たな展開が紹介されるならば、是非その冊子をも読みたいと思う。


中里貝塚(その2)

2016年09月26日 | 歴史

 今日のブログも『奥東京湾の貝塚文化』を私なりにまとめたものである。

 <近年、縄文時代の貝塚を、その立地と性格の違いから「ムラ貝塚」と「ハマ貝塚」の2つに類型化する動きが広まっている。ムラ貝塚とは台地上の居住地の一角に形成され、貝殻や土器・石器の道具類に加えて、獣類・魚骨などの生活残滓で形成される貝塚を指す。北区の七社神社貝塚や西ヶ原貝塚など、日本列島の大部分の貝塚がこれに相当する。
 一方、ハマ貝塚とは浜辺や水域に近い低地部に形成され,層厚の割には、住居址や日常の生活に伴う遺物がほとんど見られない貝塚を指す。焚き火跡が多く含まれ、僅かに見られる出土資料には浜辺での作業に関するものが多い。ハマ貝塚は海浜部の貝類の加工に伴って形成された貝塚といえ、その代表格が中里貝塚で、伊皿子貝塚などもこれに相当する>                    
 右上の図は本文に添えられていた概念図だが、ハマ貝塚を中里貝塚に、ムラ貝塚を七社神社貝塚と西ヶ原貝塚に重ね合わせることが出来る。この記述に出合い、私が抱いた疑問は解消した。

 ここからは私の想像だが、この時代、縄文人は火や土器を使用することが出来た。採って来た貝類を直ぐに土器に入れ火を焚き、茹でたり煮たりすると貝は開けやすい。取り出した中身(むきみ)をその場で食べることもあっただろうが、大半は集落で待つ家族の為に持ち帰った。干したりしたかもしれない。持ち帰る必要のない貝の蓋は目の前に海に捨てる。その捨てられた貝殻が長い年月に層を成していったのでないかという想像。
 又、ハマ貝塚が形成されるためには、目の前に海面が広がっていなければならない。現在、中里貝塚の前面はJRの尾久車両地になっていて、海は遥か彼方であるが、“縄文海進”により、かつてこの地は海だった。(写真:中里貝塚周辺のイメージ風景)
 

 <氷期の最終段階(約2万年前)以降、東京湾では地球規模の温暖化に伴い、海水面は上昇し続け、今から約6000年前(縄文時代前期)にはピークに達した。いわゆる縄文海進で、海水面は現在より3m高く、海水は内陸まで入り込み、広々とした内湾=奥東京湾が展開していた。その後、海は徐々に退いていった。今から3000年前以降は、現在の様な地形が形成された。中里貝塚が営まれた頃(縄文時代中期~後期初頭)には、北区域の東京低地には崖線近くまで海が広がっていて、その前後に干潟が形成され、奥東京湾周辺では、大規模な集落および貝塚が営まれ、豊かな縄文文化が華開いた>(写真:奥東京湾の広がりとハマ貝塚)



 今年の夏、私は八ヶ岳山麓の縄文文化に加え、奥東京江湾の縄文文化の一端に触れたことになったのだと、今改めて思っている。(写真;中里貝塚周辺の遺跡)


中里貝塚(その1)

2016年09月24日 | 歴史

 初めて中里貝塚を知ったのは、今年の815日だった。尾瀬で知り合ったHさんにその遺跡現場を案内してもらい、案内版を読んだ。そのとき不思議に思ったことが2つあった。一つは、貝塚が5m近い堆積をなしていたこと。貝塚は言わばゴミ捨て場。どうして5m近くの高さにまでうず高くなったのだろうという疑問。もうひとつはこの貝塚の海抜は現在せいぜい5mほど。すぐ西にある上野台地は標高20m4000年前の縄文時代にはこの辺一帯の目の前は海で”海抜0m地帯“のはず。普通、貝塚は水面よりかなり高い台地などに形成されたはずなのにという疑問。中里貝塚から比較的近くにある、北区の七社神社貝塚も西ヶ原貝塚も上野台地から発見されている。昨日散歩の時に見た動坂遺跡貝塚は本郷台地にあった。
 上の2つの不思議に迫り、更には中里貝塚についての詳しく書かれた出版物はないと参考図書を捜していると絶好の本が見つかった。北区の飛鳥山博物館が編集し、教育委員会が発行した『奥東京湾の貝塚文化』だ。目を洗われる思いで、私が抱いた二つの疑問は溶解し、非常に面白く、何度か読み返している。今後数回にわたり、ブログに綴りたい。(写真:右図は本の表紙。そこに4.5mの貝の堆積している写真が登場している)

        
(貝塚は宇都宮線と京浜東北線の間にある)              (中里貝塚史跡広場)

 以下はその本の内容を私の理解なりにまとめたものである。
 
実は現在中里貝塚と呼ばれている辺りの様子は、近代以前の絵図や地誌に見ることが出来る。異常な量の貝殻散布の様子から、江戸時代の絵図には「蛎殻山(かきがらやま)」、「蛎殻塚」という地名が見られる。
 明治19年には学会誌などにも登場し、早くからその存在は知られていたが、貝殻以外の食物残滓や土器・石器などの道具類が殆ど含まれない低地の貝塚で、本当に縄文時代の貝塚なのか自然に出来た貝塚なのかと論争が行われ、明治期の研究者を悩ませ、本格的な発掘は行われなかった。
 それが、1958(昭和33)年になり、和島誠一氏の小規模なトレンチ調査の際に縄文土器片が2点見つかり、貝塚説を積極的に支持する材料が得られたが、湧水が激しく発掘は中止された。(写真:「中里貝塚を飛鳥山丘陵より望みたる図」)

 1996(平成8)年になって、北区の公園整備事業に先立って発掘調査が行われ、約4.5mもの、国内最大厚の貝層や縄文時代当時の水産加工場の痕跡がみつかり、自然に出来た貝塚ではないことが明らかになった。この発掘調査の状況は新聞・テレビ・雑誌等で報道され、現地説明会には約3000人もの考古学ファンが駆け付けたそうな。今から20年前の話であるが、私は全く知らなかった。(見学風景)
 この調査から中里貝塚は「ハマ貝塚」に相当し、そこが水産加工場だったことが分かったこと。次回以降のブログで詳しく綴りたい


三島神社再訪

2016年09月22日 | 東京散歩

 都高教退職者会の今年の東京歴史散歩は「『殿様の散歩道』を歩く」と題して、江戸時代の道を歩くことが既に決まっていていて、『都高退教ニュース』にも案内文を載せた。
 殿様とは、柳沢吉保の孫にして大和郡山二代目藩主柳沢信鴻(のぶとき)で、彼は藩主引退後、六義園の別荘で悠々自適の、趣味人的隠居生活を送った。その様子が『宴遊日記』に書かれていて、ある日の日記には、徒歩で六義園から諏方神社に至り、途中三島神社に詣でた様子が書かれている。今年はその江戸時代の道を歩く企画で、私が道案内をさせて貰う予定。

 この歴史散歩は会終了後は必ず懇親会を開催している。今年もその予定だが場所をまだ決めていなかった。そこで9月17日(土)、下谷方面へ出かけ、金杉にある三島神社の宮司さんにもお会いして来た。
 自転車で「谷中分室」図書館まで行き、そこからは当日歩く予定の道を歩いた。懇親会々場としては「金杉通り」にある台湾料理「品味軒」を考えていた。「下谷おさんぽマップ」に登場していたお店で、昼食がてら店内の様子を眺めると、落ち着いた雰囲気のお店で、20人以上の宴会が可能な広さ。ランチも美味しかったので、早速このお店を予約した。

 三島神社は懇親会場と同じく金杉通り沿いにある。距離にして400mくらい離れているだろうか。15時頃お参りしますと、予め宮司さんに電話を入れておいた。2016/7/21のブログにも書いたように、馬場紘二さんと宮司さんは俳句を通しての知り合いで、以前電話の折にその旨を告げると、携帯電話の番号を教えてくれて、その情報が早速役に立った。

 15時丁度、社務所に顔を出すと、「お上がり下さい。お茶でも飲んで行って下さい」と言われた。上がる前に絵馬を購入し、お茶とお菓子を頂いた。気さくなうえ話上手な方で、二人の間で話が弾んだ。私からは10月29日に10名ほどでこちらの神社にお参りしたいと話し、快諾を頂いた。彼女はこの神社の歴史や謂れについて語ってくれた。最近知った知識に加えて新しい事柄を教えて頂いた。(写真:雷さんの登場する絵馬)
 雑誌『歴史研究』に彼女が「河野氏と三島神社」と題する一文の寄稿している。その中に、鎌倉時代に伊予の豪族であった河野氏の館がなぜ遠く離れた武蔵国にあったかという謎を明らかにするもので”・・・河野通有の妻が、かって上野山中も統治下にあった江戸氏の娘でありました。・・・その関係から河野家の氏神を祀るため三島神社を勧請したと考えられております」と結んでいる

 彼女は20代で三島神社の宮司となった。諸般の事情があって、台東区で初めての女性宮司となった。以来28年の歳月が流れていた。「いろいろありました。地鎮祭に出かけていくと女宮司ではダメだと拒否されたこともありました。今では女宮司も増え、そんなことは無くなりました。周りはマンションが増え、神社に対する意識の変化が感じられます。神社にも貧富の格差が生まれつつあります」と語ってもくれた。話を聞いて、地域に対して受け身ではなく、積極的に係わっていこうとする意欲が強く感じられた。
 
この神社には「雷井戸」がある。時たまたま神社境内に雷が落ちたので神主がこの雷を井戸に閉じ込めた処「井戸から出してくれ」と頼むので「二度と此地に落ちるな」と許してやったそうな。爾来此地に雷が落ちないと言われる所以の井戸で、不落守の絵馬が分けて頂ける。受験生のみならず芸能人や金運向上を願う人の参拝も多いと聞いた。私は山から落ちないをお願いし上の絵馬を購入して来た。(写真:伝説上の雷井戸)








 1時間ほどお邪魔して帰る段になり、妻へのお菓子と暦も頂いた。当日も暖かく迎えて頂けそうで、主催する者としては心晴れ晴れと、神社を後にすることが出来た。
 (写真:頂いた干菓子)

 三島
神社のHPのURLは http://mishimajinjya.or.jp/ 

 (付記:一昨夜は向丘高校OBの日本史教員Mさんから電話があり、歴史散歩に参加したいとのこと。この辺は全て歩いているので資料もお送りしますとの有り難い話もあった。私は道先案内人に徹し、M先生に歴史的な事柄を説明して貰うのも良いなと思い始めている)