昨日の12月28日(土)、宇都宮健児氏を基調講演者とする講演会に出掛けて来た。彼を実行委員長とする「民主主義社会に秘密保護法はいらない!」会の呼びかけで、テーマは「新たな連帯と民主主義実現運動の必要性」。実はこの講演会「日本のピンチを希望に変える!」と題して、市民運動家や弁護士合せて4人の講演者を予定し、秘密保護法を廃案に追い込むための、新たな市民運動を模索しての会だった。
しかしである。”猪瀬問題”は新たな都知事選出へと推移し、マスコミからは、前回の都知事選で次点となった彼へ出馬の可否が問われていた。彼は「その覚悟は出来ている」とは語っていたが、正式な出馬宣言はしていなかった。ただこの講演会の場で出馬宣言がなされるのではないかと、新聞紙上でも推測がなされていた。
この会の開催を知ったのは、何と東京新聞の折り込み広告。朝日新聞には入っていなかった。私はこの講演会に行こうか迷っていたが、出馬宣言があるだろうとの記事を読んで、決心がつき、出かけることにした。場所は「文京区民センター」(写真:東京新聞に入っていた広告)
やはり出馬宣言はあった。「今までは、その覚悟はあると語ってきましたが、正式な出馬声明は、かつての都知事選や、秘密保護法反対をともに戦った仲間の前で語りたかったので、今日になってしまいました」と。彼の話を聞くのは初めてである。明るく元気で、しかも優しく、信念の人と思える話しぶりだった。
政策としては反原発など、前都知事と同様の4本の柱を語ったが、その時点と現時点での大きな2つの相違点に言及した。ひとつはオリンピック問題。「決まってしまったことに反対はしないが、あまり費用をかけず、東北の、被災された方々にも納得していただけるオリンピックにした」と述べた。またその後誕生した安部政権は、「秘密保護法・靖国神社参拝に見られるごとく、誰にも止められない反動・戦争への暴走を加速化している。都知事選に勝利し、その勢いで安部政権にストップをかけたい」と述べ、万雷の拍手を受けた。(写真:決意を述べる宇都宮氏)
◎震災後の2011年4月には日弁連会長としていち早く対応。文部科学省へ福島県内の学校での野外活動を制限する放射線量の見直しを求める。
◎サラ金業者から”何があっても引き下がらない弁護士”として恐れられる存在。国会に働きかけ、グレーゾーン金利を撤廃させる賃金業法改正を成立させる。
◎年越し派遣村名誉村長として奮闘。
◎オウム真理教犯罪被害者支援機構理事長
など多方面にわたり、主として弱者救済に精力的に取り組んできた彼の、都民への福祉政策などにも今後注目していきたい。
そういえば、多重債務問題をテーマにした、宮部みゆきの名著「火車」に登場する弁護士のモデルは宇都宮氏だ。
秘密保護法成立後、諦めの気分ではなく、この法案を廃案へとの動きが活発化しているそうだ。その活動への関わりとともに革新知事の誕生へ、微力ながらの力添えをしたい。
この講演会の模様がYou Tobe上で流れ、恥かしながら、家人と私の後ろ姿も映っていた。
文京区には名前の付いた坂だけでも115ある。台地と谷の多い文京には当然の事ながら坂が多い。この2年間、手元にある『ぶんきょうの坂道』を頼りに、色々な坂を訪ね歩いた。その数は95ほど。このところ、やや足踏み状態だったが、残り20の坂を”完歩”しようと、折を見ては出掛け始めた。早朝散歩もその一つ。
12月23日(月)は祭日でホームグランドのラジオ体操なし。この様な時には、富士神社に6時半までには戻らねばならないという制約条件がなくなるので、早朝散歩の出発時間をやや遅らせ、主として明るい時間帯での坂行脚となる。
この日は牛坂→金剛寺坂→今井坂(新坂)と巡った。いずれの坂も、小日向台地の東南端に位置し、神田川の刻む谷へと続く坂。昨年の都退教「歴史散歩」の折やその実踏の際に、巻石道路からこれらの坂を見上げたが、参加者の疲労度を考えて、これらの坂の上り下りはしていなかった。
(北野神社正面入口) (牛坂)
朝6時20分牛天神到着。まだ薄暗い。牛坂はその牛天神北野神社の北側を西に下る坂で、名前の由来もそこから来ている。かなり急な坂で、軽くS字に曲がりくねり、片側はしっかりとした石組み。別名鮫干坂とも潮見坂とも言い、かってはこの付近が入江あったことに由来すると掲示板には書かれている。鐙坂に劣らない姿形の良い坂だ。
続いて向かったのが金剛寺坂。かってこの坂の傍らに金剛寺と呼ぶ寺があったらしい。しかし、この坂も今井坂もその名前の由来よりも、その坂の途中に橋が架かり、橋の下を地下鉄丸の内線が走っている風景が素晴らしい。眼下に地下鉄が走る光景を見て興奮。全く予期せぬ出来事だった。思えば丸の内線は茗荷谷から後楽園の間は、地上を走る。茗荷谷の底にある、同名の駅を出発した地下鉄は、後楽園までは小日向台地の縁を走る。当然坂と立体交差する訳だ。橋上からはサンシャインビルも眺められる。少し上って目を転じれば、神田川沿いの建物が眼下に拡がる。この付近は”隠れた”東京展望台の一つでもある事を知る。(写真:金剛寺坂)。
(網目越しにサンシャインビルを望む)
(高い建物は印刷博物館)
ジャガイモやサツマイモをより美味しく食べようと、4・5年前に、「大地の会」から”芋焼き器”を購入した。土鍋の一種で、この鍋を買う人の狙いが、サツマイモを焼いて、焼き芋を食べることにある様に、我が家でもこれを使用して、焼き芋を何度も調理した。鍋の中に網を置き、その上にサツマイモを乗せて蓋をして、とろ火で20分、ひっくり返して20分。これで完成で、いたって簡単。家人も私もこの簡便さが気にいって、焼き芋器を愛用して来た。リヤカー販売のものと遜色ないお味に仕上がる。
最近数年は、帯広に住む息子夫婦から十勝のジャガイモが大量に送られて来る。ジャガイモの本場十勝。それも、「インカの目覚め」「北あかり」「レッドムーン」の3種類。ジャガイモは日持ちが長いのだが、それでも意欲的に食さないと、食べきれなくなってしまう。そこで、この焼き芋器を使用して、ジャガイモを焼くように変化して来た。昼食の食卓に乗る事も多い。熱する時間はサツマイモと同様約40分。
焼いたあとは少し熱いが、簡単に手で皮が剝ける。剥いたあとは、バターと塩で食するのが普通だろうが、我が家ではそれ以外に、明太子・味付け調理されたひき肉・鮭そぼろなどが食卓に並び、これらをジャガイモの上に乗せて食している。帯広では塩辛を乗せていて、私も食べたが、ジャガイモとの相性抜群で美味かった。しかし、今は塩分を控えているので塩辛は登場しない。(写真:焼き上がったジャガイモ)
調理器具は仕舞い込むと使用しなくなってしまうが家人の持論。出しやすいところから芋焼き器を出してきて一昨日もジャガイモを美味しく食した。
間もなく、文京区から、また銭湯の灯が消えていく。我が家から徒歩10分強の距離にある「鶴の湯」だ。文京区では一昨年に根津の「山の湯」が、今年に入ってからは千石の「おとめ湯」が廃業し、「文京区浴場組合」加盟の銭湯は8ヶ所となってしまう。銭湯をこよなく愛する私としては、非常に残念なことだ。「山の湯」は3・11大地震での煙突破損が原因で、「おとめ湯」は詳しい理由を知らないが、「鶴の湯」は、一昨年リニューアルオープンした、ご近所の「ふくの湯」の存在が大きいと噂されている。なにしろ両湯は徒歩3分という至近距離にある。「ふくの湯」は車道に面し、毎日営業で土・日に朝湯あり。「鶴の湯」は住宅密集地にあるものの、人通りが多いとはいえない裏通りに面し、知る人ぞ知るのみの銭湯。
「鶴の湯」の良さは、番台に座る女店主のにこやかな笑顔に象徴されるサービス精神と、実母散100%使用で、39℃のぬるめの薬湯にある。更には一昨年12月24日に完成した、中島盛夫筆になる富士山のペンキ絵。その大きさは日本一とか。薬湯にゆったりと浸かりながら、雄大な富士山絵を眺めるのが私は好きで、この銭湯には何度も通った。
昨日の22日は第4日曜日で、誰でも100円で入湯が可能な日(第2日曜日も同様)。しかも冬至で、「ゆず湯」の日とあって、”開門”16時前には10名以上の方が並んでいた。私も久しぶりにここを訪れ、まずは薬湯と富士山絵を記念撮影。この日は本格的な撮影者もいて、どこの社ですかと問うと「文京区の銭湯の記録映画に撮影しています」と。入湯者をも撮影していて、私も狙われたようだ。
脱衣室に戻って気がついた。玄関正面にはお雛様が飾られたり、脱衣所内にハローウインやクリスマスの飾りつけが展示されたり、ご主人(または親戚の方)が撮影した富士山の写真や反原発デモの写真なども展示されていたのだ。(写真:男女両湯に掛かる富士山絵)
(ゆずの入った薬湯)
(写真集より)
(鶴の湯を描いた、展示された絵画)
年内は平常営業で、来年1月2日の朝湯をもって”さようなら”だそうで、普段朝湯はやっていないので、最初にして最後の朝湯がさよなら興行となる。地域に根付き90年、戦前に開業し、代々受け継がれて来た銭湯が幕を閉じる。
(追記 中島盛夫氏のホームページ http://www.morionakajima.com/greetings.html )
11月19日(火)、高校時代からの友人瀧川さんと奥高尾を縦走した日のこと。山歩きも終点の相模湖駅に近く、与瀬神社を背にして、中央高速道路を跨ぐ橋を越え、下り階段にかかった時、クラッと来て階段から滑落してしまった。10段は落ちただろうか。それも”尻制動”ではなく、”顔面制動”で。
この様な滑落は初めての経験である。尻から落下するなら、3・4段で止まるだろうが、頭から落ちていくときは、身体を手では止められい事を初体験した。もろに地面に叩きつけられて止まった。眼鏡のフレームは曲がり、両膝からはかなりの出血だ。多分骨折もしただろうという痛さだった。漸くに立ち上がって正面を見ると、運の良いことに目の前にコンビニがあり、包帯とバンドエイドを購入し、瀧川さんに手伝ってもらい、応急手当をして、出血は止めた。
翌日整形外科へ行き、手と膝のレントゲン撮影をした。右手小指付根が相当痛かったので、多分骨折。膝のお皿にヒビが入っていないことを祈った。撮影後、医師に開口一番「骨に異常はありませんよ」と言われ、嬉しかった。「しかし、膝は内出血が酷く、最低でも2週間は治療を要します」と宣言され、「あまり出歩かないように」と釘を刺された。
ほっとした反面、困ったなとも思った。数日後には「佐多稲子文学散歩」の案内役や家人との京都旅行を控えていたのだ。これらを中止したくはなかった。ママよと、医者の忠告に背いて、計画は実行してしまった。
京都旅行の途中でかなり膝が傷み、帰京後すぐに医院へ出掛けた。膝の様子を診て、先生は顔を顰め「散歩のし過ぎではありませんか」と言った。私は京都旅行には触れずに「はい、その通りです」と。その後は自重したのが良かったのか、4週間後の一昨日、「これで治療は終わりです」と相成った。
これらの様子をブログに書くと心配をかけてしまうので、数名の方に様子を伝えたに過ぎなかったが、今となっては”解禁”か。
滑落の原因は、徒歩4万歩から来る疲労か。ハタマタ、この2年に3度も事故を起こす粗忽さか、あるいは自身の足への過信から来るものか。いや年齢からくる事かも知れない。不幸中の幸いを感謝しよう。程なく早朝散歩の復活。