今年最後の3連休の最終日の24日(月)、「ぽけかる倶楽部」主催の“水の都大江戸クルーズ”に妻と参加し、日本橋川・小名木川・横十間川など6つの川を巡ってきた。(写真:ガイドの中島さんとぽけかる倶楽部の旗)
(この船で巡りました)
この企画、10月実施の予定だったが、台風襲来の為、約1ヶ月間の延期の後の実施だった。集合は10時40分、三越百貨店脇の「日本橋」。ガイドは中島礼子さん。地図が手渡され、概略の説明があった後、乗船。前から2番目の左側に席を取った。
船は乗客20数名を乗せて、日本橋下の乗船場から11時に出発。
日本橋川→亀島川→隅田川→小名木川→横十間川→北十間川と進んで、東京スカイツリーに大接近し、そこからほぼ同じ水路を通って日本橋まで引き返したのであった。所要時間は、あっという間の2時間。(写真:日本橋付近)
(横十間川からの眺め)
(隅田川に架かる中央大橋)
(隅田川に掛かる清洲橋)
東京の川のクルーズには3回目の参加だったが、一番長い旅路で、すべて初めて通る水路。もの珍しくもあり、発見も多々あった。
日本橋川はそのまま下れば、隅田川に合流するはずだが、少し下ると、突如右へカーブを切ったのだ。川は「湊橋」手前で分流していて、日本橋川とは別れ、亀島川へと舵を取ったのだ。この川の存在すら私は知らなかった。「南高橋」を過ぎ、中央区湊2丁目で隅田川に合流。
帰宅後調べると約1kmの短い流路で、江戸時代には御船手奉行所があり、江戸に入る船舶はここで検めを受けたそうな。別名越前堀と呼ばれた堀であった。結局、神田川は神田川本流・日本橋川・亀島川の3つに分かれて隅田川に注ぐことを知った。
その隅田川は実に幅広い川であることを実感した。そこに架かる永代橋・隅田川大橋・清洲橋などは巨大で、見た目にも美しい。
”芭蕉記念館”の掲示を左手に見ながら、小名木川へと進路を変える。小名木川は、江戸時代は旧中川と大川(現隅田川)を結ぶ、塩運搬などの重要な運河。かっての賑わいをその名に留める「西深川橋」・「大富橋」を見上げながら進むと、「扇橋閘門」へ到達。
ここは”水のエレベーター”と呼ばれるロックゲート。前後にある両門を閉鎖してプール状態にした後、往きは水を抜いて2mほど水位を下げた後、進行方向の前門を開くと、進行方向と水位が同じとなる。帰りは逆のシステム。いつかは経験してみたいと思っていたことが、あっという間に実現した。(写真:扇橋閘門)
小名木川を更に進むと、「クローバー橋」が見えてきた。”X”字をした橋で、ここで船は直角に曲がり、横十間川へ。狭い川だが、両サイドがよく見渡せる、10もの橋を過ぎて北十間川へ。この川も旧中川と隅田川を結ぶ、幅十間の運河。東京スカイツリーの絶好の展望台。ここからは船は180”回転し”今来たこの道かえりゃんせ”と相成った。(写真:クローバー橋)
ガイド中島さんの蘊蓄ある話が面白かった。潜り抜けた34の橋全てに歴史があり、その名前の由来があった。あ!この橋、通ったことがあると気が付いた橋もいくつかあったが、そのような橋は僅か。橋巡りも又楽しいだろうなと思えるクルーズだった。
(北十間川からのスカイツリー)
初めて”かたりと”の語りを聴いたのは「旧安田楠雄邸」だった。その「旧安田邸」のすぐそばにある「島薗邸」でライブを開催しますとの案内が届いていた。この地に登録有形文化財の建物があるとは知らなかった。最近指定されたらしいが、ともかく、建物の見学かたがた、久しぶりの語りを聴きたくもあり、11月23日(勤労感謝の日)に妻とふたり出かけてきた。
島薗邸は、脚気とビタミン不足の関係を発見した、東大医学部の教授だった島薗順次郎の長男順雄が、結婚を機に、1932(昭和7)年に建てた家とか。設計者は、このブログにも登場した、旧川崎銀行千葉支店(現千葉美術館)の建築設計者の矢部又吉。最近、修復が行われたらしく、毎月第一土曜日に公開されているそうな。
(写真:かたりと3人衆)
”かたりと”の今回の出し物は川口松太郎作『人情馬鹿物語』より、その第一話『紅梅振袖』。私達のうち、特に私は”かたりと”の応援団の一員。過去に『山月記』・『奉教人の死』・『高瀬舟』など、近代文学の名作に接してきたが、川口松太郎の作品は初めて。
物語りは、秘めた想いを直接には言葉で伝えられない縫箔職人友次郎は、その想いを刺繍に込めて「紅梅振袖」を完成し、思慕する君子に贈る物語。一度は断られたが、年月を経て、想いは叶えられる。男の、秘めた、片思いの物語。
珍しく、会話の多い語りだった。前から2番目の席で見ていると、主人公の友次郎と君子が表情豊かに表現されるのがよくわかり、講談を聴くような感じだった。今までは照明を落とし、大正ロマン風の雰囲気が醸し出されていたが、それと比較すると明るい舞台で語る北原さんの声には迫力が感じられ、特に友次郎の気持ちを見事に表現していた。
山田雅生さん奏でる琴の音が語りの合間に流れ、今まで以上に印象に残った。
語り終演後、「谷根千」編集子さんの案内で邸内を見学した。建物内部はレトロな雰囲気の和洋折衷型だが、外観はモダンな感じ。見学時間が5時半を回り、外の庭の様子はわからなかった。近々に訪れてみたい。(右写真:外観)
(和室)
(食堂に取り付けられたシャンデリア。電球の笠は雲母)
(洋間)
妻が愛読し、京都についての知識を仕入れている『京都の歴史を足元からさぐる』に「三面鳥居」が書かれていると聞いて、早速オンライン予約をした。全6巻のうち、第4巻「嵯峨・嵐山・花園・松尾の巻」の第5章“太秦・花園・御室”に登場する。
著者は、この神社を初めて訪れたときの感想を次のように記した。
「三面鳥居が建つ地形を見ると、この日は水が枯れていたが泉地ともいえそうな凹地である。(中略)流水を想定すると川ともいえる地形である。川というと三面鳥居が建つ凹地が一番上流つまり水源に近い」と記し、『都名所図会』の木嶋社の境内の鳥瞰図を紹介している。
地図をも参考にしながら、湧水を水源として得られた聖なる水を、幕などによって周囲から遮断した空間を作り、そのなかで神事がおこなわれたと推定したのだ。彼は断定をしていないが、その神事の場所こそ三面鳥居の内側と私は思いたい。そう解釈すれば、鳥居の役割の問題は整理出来る。
更に、三面鳥居の3つの角のうち2つを稲荷山と松尾山と見る説を紹介し、のこりの一つの角を、清水の水源となる双ヶ丘(ならびがおか)を含め北の山かとも推定している。三本の柱は三山を表すとの仮説。
三面鳥居は対馬にもあるそうだが、これは10数年前に建てられたもので、古代を考える資料にはならないと書かれているが、一体誰が何のためにその様なものを建立したかは、興味深い謎である。(写真:『都名所図絵』の木嶋神社)
(右上写真の拡大図。右上に三面鳥居が見える)
観光面から考えると、木嶋神社やそこにある三面鳥居など全くマイナーな素材である。その様な情報をどうして知ったのか?ここを知っていたハルコさんに聞いて見た。知人で外国旅行をよくする画家さんからの情報との返事。妻は、表記の本から。最近はこの本6巻を熟読し、面白いと感じた京都を歩く傾向があるようで、いわば京都歩きのバイブル。ネット注文で全6巻を購入した(5500円)。
全くの暴論だが、三面鳥居は秦氏が渡来の際に持ち来たり、三井氏の祖先が秦氏???“秦”の文字から“三”と“イ”が透けて見える、などと書くと、森先生に叱られそうであるが、中央史観にとらわれない発想の“森史学”の祖とも言われる森浩一氏は昨年8月に85歳で亡くなられた。
長浜から京都に回り、2泊してあちこち巡って来た。
国立京都博物館(「鳥獣人物戯画展」)
真如堂(紅葉)
東福寺(紅葉)
梅小路公園
梅小路蒸気機関車館
木嶋(このしま)神社
時系列を逆にして、木嶋神社から記すと、既にブログに綴った様に、10月25日の浅草巡りの折に、「三囲神社」で初めて観た三面鳥居。その元が、京都「木嶋神社」にあると聞いて、非常に興味を覚え、そこへ行ったことのある妻に案内を頼んでおいた。(写真:木嶋神社本殿)
京都市営の地下鉄東西線を「太秦天神川」で下車し、徒歩10分弱で神社に到着。本殿へのお参りより先に、その左の三面鳥居に向かった。鳥居には近づけないように柵が張られているので、やや遠くから見学し、撮影した。三囲神社よりも森閑とした、厳かな雰囲気の中に建てられていた。
妻の話によれば、三井は、江戸進出を果たした後、「三囲神社」の存在を知り、京都の三井本邸に建てていた三面鳥居を「三囲神社」に移したとか。それにしても、この鳥居の大もとのルーツとを知りたいと思った。(写真:木嶋神社の三面鳥居)
(より近くからの撮影)
(こちらは三囲神社のもの。再掲)
この神社は「木嶋神社」以外に「蠺(かいこ)の社」との別名を持つ。社のある、嵯峨野一帯は古墳時代に朝鮮から渡来し、製陶・養蚕・機織などの技術を持っていた秦氏の勢力範囲で、本殿の東側には「蠺養(こかい)神社」があり「蠺の社」もそれに因んだ社名、と書かれていた。この神社は祈雨の神としての信仰も厚かったとも記されていた。(写真:”蠺養社”と書かれた石柱)
三面鳥居は別名「三柱鳥居」とも呼ばれ、もう一つの立看板にはその「三柱鳥居」についての記述があった。概略『全国唯一の鳥居である。創立年月日は不詳で、現在の鳥居は享保年間に修復されたもの。一説には景教(キリスト教の一派)ではないかと伝えられている』と、俄かには信じられないことが書かれていた。
そこで、帰宅後『京都の歴史を足元からさぐる』(著:森浩一)を読んだ。
11月17日(月)、鎌倉に戻っていたHさんからメールが届き、翌日に『生しらす』が手に入るようでしたら電話しますとあった。18日(火)に「入りました」との電話を頂き、『生しらす』一つと『釜あげ』一つをお願いした。
以前に頂いたメールには「最近は獲れる量が減ったために、漁があっても『生しらす』はなかなか手に入らなくなっています。雨が降らず、強風も吹かないような天気で、漁が出来て、生しらすが手に入って、東京へ出てくる日とぶつかりましたら購入しましょう」という趣旨が綴られていた。生しらすは、賞味期限が当日限りなので買い置きが出来ない。『生』と巡り合うのは幸運が重ならなければならないことを知ったのだ。
その幸運の日は意外に早く巡ってきた。午後には現物をご持参下ださった。両方のお値段は合わせて1140円とお安い。
11月18日は『生』を食した。大きな丼が一杯になる量で、妻と2人で頑張って完食した。私は、これほど新鮮さと海の香りが感じられるしらすを食べるのは初めて。ドンブリから小鉢に盛り、醤油を少々掛けるだけで頂いた。
翌19日(水)の昨日と今日は『釜あげ』でしらす丼にした。こちらも美味。パックの表面には”鎌倉しらす”と書かれ、「(株)もんざ丸 前田水産」とあった。鎌倉市の材木座にあるお店。
当然過ぎることだが、鎌倉の店で食するより、この様に現地でしらすを購入し、家庭で食べる方がお安く、美味なのだろう。