2月22日(日)、マラソン観戦から帰宅し、午後は輪投げ練習に参加。夜は「魚貝三昧 彬」で菊之丞の噺を聴いた。寺井さんと私が声を掛けた結果、集いしは、片山さん・草野さん・富崎さん・寺井さん(当日は私用ありで息子さんが代役。それにしても、このメンバーはいずれも、組合の専従執行委員の現役とOB・OG。何故か私がここにいる。私自身だけでなく不思議がる人が多いだろう)と私の5名。
「彬」の2階を落語を聴けるように当日のみ模様替えしたうえでの、16時30分の開演。今宵の2席は「浮世床」と「文七元結」。高座に座った菊之丞と私の距離は3m弱。この距離から落語を聴けるのは、正に落語三昧。菊之丞を聴くのは昨年来の2度目だが、話が実に上手いし、立居振舞に女らしさが匂い、色気さえ感じられた。
「浮世床」、「文七元結」いずれも、私でも何度か聞いた話で、ここではあらすじは割愛。「浮世床」の冒頭に、彼がテレビドラマに初出演した時の話がマクラに来た。2013年に「このミステリーがすごい!」で第1位となった『64』(著:横山秀夫)で、彼は群馬県警の、いやらしい本部長役を演じたとのこと。喋らない演技もあるそうで、ついつい喋ってしまい、その度にNG。語らないのは苦痛でもあり、その点が特に難しかったそうな。5月2日(ネット情報では、NHKで4月から)放映と聞いたが、是非観てみたい。因みに著者横山秀夫は都立向丘高校卒。
落語が終わって、会場は宴席に早変わり。多分、早めの予約客のみがここに残れたと思う。6つほどのテーブルはすべて空席なしの状態。前もって刺身と幕の内弁当が3000円で用意されていて、その上で各自好みのご酒を嗜みながら、お喋りをしていると、菊之丞さんが回って来た。滅多にはない機会を捉えて、幾つものことを聞いた。
草野さんが聞いたのは、江戸っ子が”ひ”を”し”と言ってしまう問題。
問「江戸っ子を演じるときは、あえて”し”と言うのですか」
答「もともと浜田山の生まれなので”ひ”と言えます。(実演つき!)ただやはり、そこは江戸の下町の話ですから”し”でいかないと・・・。やりすぎると不自然になるので、そうならない程度にやっています」
問「普段の日常会話はどっちなの」
答「それはもう”し”でやっております」
落語家になった切っ掛けは、主として片山さん(宮部みゆきの担任だった方)が聞いていた。
中学1年生から落語部の部長をやるほど、話で他人を笑わせることが好きで、落語家になるについては母親は大反対のところ、学校の先生が「この子には是非落語家をやらせてほしい」と母親を説得してくれたそうな。これを受けて片山さん曰く「栴檀は双葉より芳し、だね」と。楽しい宴席でした。
2月23日・24日に文高連第25回輪投げ大会が開催され、我が富士前福寿会チームは準優勝の栄冠を勝ち取った。遂にというべきか、漸くというべきか、兎も角、会長を中心にして、それなりの練習を積み重ねて来た成果が実り、皆で喜びを分ち合った。
2月23日(月)は、参加48チームによる予選会。この中から上位18チームが決勝ラウンドに進出する。私たちのチームは前回の大会が5位通過であったためシードされ予選会には参加しなかった。
24日(火)が決勝ラウンド。シード6チームに加え、予選通過18チームの合計24チームの間で熱戦が繰り広げられた。その24チームを、1コート4チームの6コートに分け、午前中に3投、午後に3投の計6回の投擲による得点合計で順位が争われた。
我が富士前福寿会チームの参加者は、会長小林夫妻、堀越さん、熊坂さん、杉本さんと私の6名。私は午後から用事があり、午前中のみの3投。午後からは熊坂さんが出場。
第1投終了時点で、我がチームは107点をあげ、暫定1位。暫定であろうが何であろうが、先頭に立つなどということは、全くなかったので皆興奮気味。
私たちのチームは各人に目標点が課されている。1投で9個の輪を投げての得点目標が、会長の24点以下、20点、16点が獲得目標点。1投毎のチーム目標点は92点。第1投は目標点を大きく超えたのだ。
2投こそ63点に沈んだが、第3投は97点と目標点を超え、3位で午前中を終えた。
私はここまでで、リタイヤー。3回投げての合計点が63点だったから、目標点48点(16×3=48)をオーバーし、一応の責任は果たせていた。
このゲーム、練習をしたからといって良い点が得られるとは限らない。しかし練習をしなければ高得点は望めない。練習+運が必要である。練習6割・運4割(練習4割・運6割とも言われている)の、奥の深いゲームでもあるのだ。
午後にセットされた、とある機関誌の編集会議を終えて、会長からのメールを待っていると、14時44分に“2位になりました!!。これからグラッチェ・ガーデンに向かいます!”との、意外な、しかし嬉しい第一報。私も勇んで“祝賀会会場”に向かった。
会場には6人全員が集った。成績表を見ると、我がチームの合計点は535点。目標点の552点(92×6=552)には及ばなかったが、首位の播磨坂クラブ(A)とは18点の差で、惜しくも優勝を逃していた。6名中4名が目標点を超えていた。賞状の他に頂いた賞金はここで消えていったが、皆美酒に酔った。3位までは東京大会の出場権を得たことになり、私たちは、9月開催と噂のある東京大会に出場する。秋の初体験が待ち遠しい。
昨2月22日(日)、第9回「東京マラソン大会」が35000名以上の参加者のもと行われた。「ワールド・マラソン・メジャーズ」に加入後3回目の大会だった。甥の参加が引き金となり、私も初めてこの大会の観戦に出掛けた。銀座や浅草雷門などの繁華街は避け、観戦者の少なそうな、皇居平川門付近(7.5キロ地点)に9時10分到着。都庁前でのスタートの号砲が鳴った時刻。雨は上がりかけていた。
9時21分頃、車いす部門のトップ集団が凄いスピードで通過。9時33分頃にはマラソンの先頭グループが30名以上と見える大集団を形成し、あっという間に走り抜けていった。 甥には、早朝に、携帯へ電話するも通話ならず、留守電に立ち位置を連絡した。多分それを聴く状況にはないだろうが、一言応援の声を掛けられるかも知れないと淡い期待を抱きつつ、10時過ぎまでそこで、通過するランナー達に声援を送った。
物凄い人の流れだった。仮装して走るランナーもいる。コスプレ姿がある。背広姿もある。動物のお面を被ってのランナーも。向うからタッチをしてくるランナーもいる。タイムよりも走ることそのものを楽しむ姿がそこにはあった。一部のエリートランナー以外には、お祭り的要素が強く感じられた。
思い出すことも多々あった。
走路の向う側は皇居の堀で、平川門のあたりで着替えをして皇居の周りを走ったことがあった。このマラソン大会の前身の「東京ハーフマラソン」に出場し、都庁を出発し、ここを通り、大井競馬場まで走ったこともあった。六義園の周回マラソンでは50歳代の部で優勝という輝かしい日もあったが、東京ハーフマラソンでは10km関門の制限時間に10秒ほど間に合わず、収容車のご厄介になった屈辱の年もあった。昔のことを懐かしむのは、それだけ歳をとってしまったということだろう。
結局、甥への声援は届けられず、帰宅の途についたが、帰宅すると、そこにはインタビューに答える今井選手の姿があった。日本人1位の、2時間7分39秒。日本歴代6位の記録とのこと。後日”山の神”と呼ばれる、箱根駅伝5区山登りでの激走を驚きながら見た記憶も蘇った。苦節6年の壁を乗り越えての久しぶりの笑顔。私も嬉しかった。
(付け足し:前日の夕空には金星に接近する三日月間近の月があった。18時5分頃撮影)
2月8日のブログでは、2月6日に歌舞伎座へ出掛け、そこで観て来た「一谷嫩軍記」の感想を綴った。その後半は次のように記した。
『・・・イヤホンガイドの説明では、「直実は後日、その首が一子直家のものと知る」と解説されていた様に思う。だから劇中での直実は、相手を当然敦盛と思い行動しているのである(ガイド説と呼ぶ)。一方、松竹から配られたパンフレットには「直実は源義経に頼まれ、我が子直家と敦盛を入れ替え、我が子と知りつつ首を打った」となる(松竹説と呼ぶ)。妻の解釈は松竹説で私の解釈はガイド説、と解釈が分れた。ガイド説の方がストーリーが美しいと思うのだが・・・』
2月20日の東京新聞「伝統芸能を楽しむ」欄に、”一谷嫩軍記 組打の場”が登場し、松竹説(妻説)が正解であることが記されていた。以下長いが、私の拙い文よりも、正鵠を射た記事の全文を転記すると、
『設定を知っておくとがらりと見方が変わる芝居ーー、一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)・組打の場はその典型です。
源氏方の武将・熊谷直実が、よんどころない事情で小次郎を、VIP・敦盛の身代わりにするという内容。
舞台は戦いの最中で、身代わりがばれると一大事。熊谷親子は納得の上で、味方もあざむく演技をしているという設定。
わが子を手にかければならない熊谷の内心の苦渋は、いかばかりか。しかしあくまでも、うら若い貴公子・敦盛を手にかけることをあわれむように演じます。特に以下の場面に注目。
海に馬を乗り入れる敦盛(実は小次郎)を呼び止める熊谷。「おおい、おおい」という呼びかけは、これでもう後には引けないという悲壮感も。
敦盛を組み敷いた後、「ひとまずはここを落ちたまえ」と逃亡を進める熊谷。その後、やむなく敦盛の首を打ち、あげる勝どきの声は悲痛です。
単に身代わりを暗示する演技を見せるのではなく、戦で若い命が翻弄されることに対する熊谷の無念さが、二重写しに見えれば理想的。題名の”嫩"も、二名の若者という意味です』
熊谷直実の見事な演技に源平両軍がだまされ、それを見事に演じた吉右衛門の演技に、初めてこの芝居を観た私がだまされたという二重構造でした。
蛇足ながら、歌舞伎通の山川静夫は2月の歌舞伎座公演に触れ、「熊谷の黒馬と敦盛の白馬が海に乗り入れ、沖合で戦う場面は”遠見”といって、子役を遠く小さく見せる。私の好きな場面だ。」と記した。
文京区の町会の一つに「神明上町会」がある。町会内に、祭礼時に神輿を担ぐことを主目的とする睦会があり、「宮元睦」と称し、我が家のご近所でもあり、私も有志としてメンバーに加えてもらっている。「宮元睦」は祭に限らず地域での活動が活発で、”宮元”の略称で、毎年、天祖神社境内での「宮元祭」と、「落語鑑賞会」を開催している。両方とも、地域の人々の間で大人気のイベントで、地域外からも多くの人がやって来る。鑑賞会への今回の参加者は150数名。 今年が、その落語鑑賞会を始めてから10年の節目で、2月15日(日)に、それを記念して「宮元落語 10周年スペシャル」と銘打ち、本駒込地域活動センターに2名の真打を招いての地域寄席が行われた。招かれしは、お馴染みの橘家文左衛門と隅田川馬石。(写真:抽選会の籤を引く文左衛門)
前半は文左衛門の「時そば」。馬石の演目は聞き取れなかった。
中入後お楽しみ抽選会が行われた。当選者23名は、例えば「ミート青木」からは”ポテトコロッケ10個”の無料券など地元商店の商品や、出演者のCDなどの賞品が貰えた。有難いことに、私に当選の幸運が舞い込んで来てコロッケ券をゲット。昨日はミート青木に出向きコロッケ5個を頂いてきた。
この抽選会の後に特別の番組が組まれていた。普段は舞台には登場しない、寄席囃子の演奏者が芸を披露した。文左衛門の太鼓に合わせて、恩田えりがお囃子を奏でた。特に感心したのは文左衛門が聴衆に「どの落語家でもいいですから、名を挙げて下さい。りえはその落語家の出囃子を演奏します」と言ったのだ。まず「先代金馬」の声が上がった。なんら躊躇うことなく出囃子が奏でられ、最後に「三遊亭白鳥」の名が上がった。文左衛門が「その出囃子は”白鳥の湖”です。えり、弾ける」に、恩田えり、笑顔を返し見事な出囃子演奏に拍手喝采。
中入後は、馬石が「反対車」で、文左衛門が人情話「子別れ(子は鎹)」
当たり前過ぎることだが、落語はCDで聴くより生で観るに限るを実感する。
(かっぽれを踊る馬石)
最期に落語の内容ではなく、恩田えりについて記しておきたい。彼女は都立豊多摩高校卒業を経て日大法学部卒。会社勤めをしていたある日寄席に行き、その雰囲気に魅了されて、寄席という場で生きていきたいと思い立ち「寄席囃子養成コース」(国立劇場伝統芸能伝承者育成機関)に入門・卒業を経てプロの道へ。著書に「お囃子えりちゃん寄席ばなし」がある。このエロ本(と文左衛門はノタマッタ)は抽選会の賞品になっていたが当選者は僅か1名。当たらなかった私は、直ぐにオンライン予約し、現在到着待ち。
(寄席囃子:恩田えり)