マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

それは、雲ノ平から始まった(その2)

2017年11月29日 | 

 高山さんの百名山完登祝いの会が2010年。多分そのとき、私は自分が行政書士を開業している事を話したのだろう、翌年の3月に、ご相談したいことがありますとの電話が掛かって来て、お茶の水の喫茶店で話を聞くと「遺言状をお願いしたい」とのことだった。
 
詳しく様子を聞くと「自分には相続人がいませんので、このままだと財産は国に帰属してしまいます。国に財産が移る事は避けたい。土地と建物の不動産は自分の属する町会にお譲りしたい。その様な遺言状を作成したいのです」とのこと。私は「遺言公正証書作成が良いと思います」と答え、後日色々と調べた。(図:とある行政書士さんのパンフレットから)

 普通、町会は法人格を持っていない。法人では無い町会名義の不動産を所有する事は出来ないし、相続も不可能。そこで町会長さん個人への相続とした例が多かったが、その後の相続でトラブルが頻発していた。
 そこでその辺の事情に詳しい司法書士のKさんに相談すると「町会を社団化し、そこへ不動産を相続するという方法があるが、社団化は結構大変ですよ」とのアドバイスだった。そこで文京公証役場や彼女の住む八王子市役所に相談に行った。
市は大変親切で詳しい資料もくれた。最終的には「町会を地縁化する」のがベストと思い至った。(下の2つの図はいずれも文京区役所区民課発行の冊子より)
 
 その年の12月に高山さんのお宅で町会々長さんらとお会いした。私の話を簡単に理解し、地縁化の手続きを全て自分たちでやりますとの事。
 実は町会を地縁化する為には大きなハードルがあった。地縁組織としての町会は個人を構成単位と、その半数以上の賛成の署名が必要なのだ。私もお手伝いしましょうかと水を向けたが全て自分たちの手でやりますとのこと。地縁化が終了するのを待って、遺言証書作成をしましょうとの打合わせ、高山さん宅を後にした。

 しかし法人化はなかなか進まなかった。
 諸般の事情で私は2013年に行政書士の看板を下ろした。関わっていた業務で、高山さんの相続問題だけが懸案事項として残っていた。高山さ
んに「行政書士を廃業しましので、八王子市の行政書士さんを紹介しますから、今後はその方と相談しながら進めて下さい」と電話で話すと意外な反応が返って来た。「ここで見放されたら、今後私は誰に頼れば良いのですか」との。新たな行政書士を紹介しますからと答えても同じ言葉が返ってきた。自らの事情を新たな行政書士に話すのを躊躇ったのだろう。そこで私は行政書士としてではなく、いわばボランティア的にこの問題に関わる決心をした。
 その後何度も八王子に足を運ぶことに繋がっていった。


それは、雲ノ平から始まった(その1)

2017年11月27日 | 

 その人の名前を高山さんとしておこう。彼女と初めて会ったのは2000年7月、雲ノ平を望む太郎平小屋付近だった。最初に会ってからから既に17年が経過した。過去のブログにも書いたので重複してしまう部分もあるが、節目の時を迎え、その時から今日までの、そう多くはないが、高山さんとの思い出を綴っておこう。(写真は”富山で休もう”のポスター。上が薬師岳で下が太郎平小屋。この地点付近で高山さんと初めて会った)

 定年退職を間近に控えた2000年の夏、私は久し振りの単独行で、太郎平小屋から黒部五郎岳・三俣蓮華岳・双六岳などを経て、西鎌尾根経由で槍ヶ岳に至り、上高地へと下山した。





 二日目の、太郎平小屋から黒部五郎へと辿る日は雨模様で霧深く、更には残雪が豊富で道に迷い易い尾根歩きだった。高山さんも私も一人旅。どちらからともなく「ご一緒しませんか」と言う訳で、黒部五郎岳まで、途中からもう一人も加わり、なんとなくグループが形成されて、黒部五郎小舎に到着した。(写真:ツマトリソウ)
 道すがらの会話から、彼女は私とご同業で、高山植物のツマトリソウを写真に撮ることが趣味で、今回は何時も山へ同行する友人の家族にご不幸があり、一人旅との事。百名山は90座ほど登ったことも知った。

 翌朝、高山さんは私よりも早く黒部五郎小舎を出発し、彼女より遅れて出発した私は、約1時間の登りで黒部五郎岳が良く見えるはずの地点に到達し、霧が晴れるのを待った。この日雨は上がってはいたが、まだ霧が残り、黒部五郎岳は姿を見せてくれない。ここから、この山のカールを是非とも写真撮影したかったので、2時間は粘った。
 徐々に霧は晴れて行き、遂にその全容が見渡せ、夢中でシャッターを押した。右写真がその時撮影したもので、2001年の年賀状に使用した。その写真を彼女に郵送し、彼女からはツマトリソウの写真が送られて来て、2回ほど文の交換があったが、音信不通で数年が流れていった。(上の写真が2001年の年賀状で、この山行で撮影した黒部五郎岳の写真を使用した)


 再会は全くの偶然だった。7年後の2007年の夏。やはり雲ノ平を望む水晶小屋で。その日は快晴だった。菅原さんと私は水晶小屋にザックを置いて水晶岳(百名山の1つ。標高2986m。別名黒岳)をピストンした。下山途中、赤いネッカチーフの、足取り軽やかな女性とすれ違った。私たちが水晶小屋に戻り昼食の準備をしていると、件の赤いネッカチーフの女性も下山して来て、私達の傍らまでやって来た。「あの時の方ではありませんか」と私に語りかけてきた。すれ違った時には全く気が付かなかったが、間近で良く見ると、かつて太郎平小屋から黒部五郎小舎までご同行したことのある高山さんだった。(写真:水晶小屋。その背後の山が水晶岳)
 高山さんとの突然の、奇跡的な再会。前回と同じく雲ノ平を望む山で。確率としては極めて少ない事が起こった事に感激して、地上でもお会いしませんかとの手紙を出しておいた。百名山は96にまで達したことも知った。
 それから3年の歳月は流れ、2010年「巻機山に登りました。百名山完成間近」のハガキが舞い込み、9月には五竜岳を最後に遂に百名山完成の知らせが来て、神保町でささやかなお祝いをした。後で考えるとお祝いの会は物語の序章に過ぎなかった。(写真:高山さんからの写真。巻機山山頂付近の池塘の水芭蕉)


豊国祭礼図(その2)

2017年11月25日 | 映画・美術・芝居・落語

 黒田さんは「洛中洛外図 舟木本」の説明に多くの時間を割いてしまい、徳川美術館本「豊国祭礼図」に当てる時間は残り少なくなっていた。
 「この『豊国祭礼図』のデジタル版の公の場での公開は本邦初です。しかし時間がない」と語って、この絵の核心部分に入っていった。(写真:風流踊りに熱狂する人々が描かれている)











 「右隻第5・6扇で喧嘩が起こっています。かぶきものの喧嘩と見られてきた。裸の男の刀の鞘に字が書いてあります。拡大すると読めます。”いきすぎたりや二十三 八まん ひけはとるまい” (生き過ぎてしまった23歳だ。なむ八幡。ひけはとるまい)と読める。(写真:黒田さんはこの裸の人物を秀頼とする)
 これは慶長17年に処刑された、江戸の有名な歌舞伎の頭領の大鳥一兵衛の鞘からとった言葉。彼が刀の鞘に刻んだのは「いきすぎたりや二十五」。 ところがこの若い男の鞘には二十三と書かれている。 豊臣秀頼が大阪冬の陣で自刃したのは23歳。ということはこの男は秀頼ということになる。


 こちら側を秀頼と理解すると反対側にいて闘いを挑んでいる、この男は二代将軍秀忠となる。その周りの人々の家紋を見て下さい。卍の蜂須賀 。梅鉢紋の前田。鷹羽紋の浅野 。いずれも本来ならば秀頼側についておかしくない武家。それが一生懸命になって喧嘩を止めている。 これはまさに大阪の陣の中での彼らを描いていることになります 。(黒田さんは、左の裸男が秀頼で、右の裸男を秀忠とする)

  
駕籠から手が出てるでしょう。この女性は淀君。何故そう言うか?ここに桐の紋があるからです。(駕籠から手が出ている)
 この様に見て来ると、屏風は大阪の陣の細部を描き、そこから秀頼・淀殿の滅亡していく姿が浮かび上がって来る。









 この屏風を作ったのは誰か。左隻の方に答えがある。これです卍の紋。蜂須賀です。更に凸版印刷のスタッフの方がらも卍の指摘がありました」

 最後に「蜂須賀家政は慶長19年に、隠居所のすぐ傍に豊国社を建立。『豊国祭礼図屏風』の作成を思い立ち、岩佐又兵衛に『豊国祭礼図屏風』の制作を依頼した。これが最後には徳川美術館の所有となった。
 端折り過ぎてしまったかもしれませんが、私はこういうに絵から歴史を読むことを続けて来ました。解析センターがますます発展していくことをぜひ応援してください 。どうもありがとうございました」(大きな拍手)
 最後に『豊国祭礼図を読む』の最後の部分を付け加えておこう。
 「三又の『豊国祭礼図』の制作は、慶長の《戦間期》の政治史と不可分であり、そこからは歴史が浮上してくる。近世初期の歴史を深く、豊かにしていくためには、こうした近世初期風俗画という魅力的な絵画史料群から歴史を読むべきであろう。・・・」


豊国祭礼図(その1)

2017年11月23日 | 映画・美術・芝居・落語

 10月14日(土)、文京アカデミー主催の特別公開講座「古地図を読み、屏風絵を語る」に参加し、黒田さんの講演「舟木本洛中洛外図と豊国祭礼図の謎解き」を聴いた。その講演内容の「舟木本」については、既にブログに書いていた。実はその時の講演の後半部分は「豊国祭礼図」(徳川美術館本)についてだった。この話の途中に2冊の著書が紹介された、本の名は聞き取りづらかったので、講演終了後個人的に質問に行った。
 一冊は『洛中洛外図・舟木本を読む』でこれは図書館から借りてきて読んだ。もう一冊が『豊国祭礼図を読む』でこれは購買し読み終えた。講演内容は後回しにして、まずは『豊国祭礼図を読む』(角川選書)を綴る。(右写真)
 黒田さんはこの本で何度も「絵画史料論的に読み解くと」と書いている様に、歴史的事実と、表現された絵画を組み合わせて、厳密な論証を重ね、そこからその絵画の注文主・画家やその絵画が描かれた目的を明らかにしていく。大胆な仮説にたどり着くまでの過程は正に謎解きであり、ミステリー小説を読むような面白さがあった。
 この本で取り上げられた「豊国祭礼図」は3つあって、豊国神社本・妙法院模本・徳川美術館本の3つである。最後の徳川美術館本は講演で語られたので別の機会に譲るとして、今日は豊国神社本と妙法院模本について、黒田説をまとめてみる。
 「豊国神社本は、豊臣秀吉が死亡した6年後の慶長9年8月に秀吉七回忌の豊国大明神臨時祭礼を描いている。淀殿。秀頼が秀吉恩顧の画家狩野内膳に命じて作成させたもので、慶長10年に制作が開始され翌11年の8月13日に豊国神社に奉納された。奉納者は片桐且元。(写真:豊国神社本の左隻)

 この頃、淀殿・秀頼と家康・秀忠の間には鋭い政治的緊張が走っていた。秀頼を上洛させて、自分の威光を示そうとする家康への淀殿の怒りは、その使者となった高台院(大政所ねね)に対し更なる激しい怒りとなった。
 豊国本では高台院と思しき老尼が皺だらけの恐ろしい顔で表現されている。それは淀殿が狩野内膳に命じて、その様に描かせた。淀殿の高台院に対する怒りの表現で、それが「諸人」(=大衆)に公開され、一般大衆の目に晒された。淀殿は奉納者を片桐且元ということにして自身に向けられる非難の矛先をかわそうとした。」これが黒田さんの説である。(左隻第3扇。黒田氏は中央黒い衣を着た老尼を高台院と見立てている)

 
「妙法院模本の原本屏風は、慶長15年8月の秀吉13回忌に因んだ豊国大明神臨時祭礼後、その制作が企図された。恐らく高台院と神龍院梵舜が協力して新調したものであり、慶長16年から翌年にかけて制作され、慶長17年4月に豊国社の「下陣」に立てられた。
 豊国神社本で皺だらけの顔に描かれたことに憤慨した高台院は、秀吉の13回忌の機会を捉えて、慶長9年の豊国大明神臨時祭礼を描き直した屏風を新調することした。伝承によれば画家は狩野孝信を想定することが可能である。ここに描かれた図をみて、高台院はほっと胸をなでおろしたのではないか」との推理を書いている。  
 二つの「豊国祭礼図」から淀殿対高台院の対立感情をも読み解く過程が新鮮だった。


昼間に東京スカイツリーが黒く見えた訳は?

2017年11月21日 | 地学・天文

 私が利用しているGooブログには“アクセス・ランキング”というコーナーがあって、例えば前日の訪問者数が分かるようになっている。最近の訪問者数は150人200人くらいで推移していたが、1ヶ月ほど前、突然300人台を記録した日があった。不思議に思い”アクセス解析”を見ると、「東京スカイツリー」で検索し、このブログに到達した訪問者が40人ほどいたことが分った。前日にスカイツリーがマスコミに取り上げられた形跡はなかったから、突然の訪問者増加の理由は分からないまま時が過ぎて行った。

 ところがその日から1週間ほどして、ブログにコメントが寄せられた。2015/12/5のブログで「昼間に黒く見えた東京スカイツリー」と題した一文へのコメントだった。
 そのブログ要約すると
 「20151127日に、富士前福寿会の3人で竹芝小型船ターミナルから新東京丸に乗船した日、快晴にもかかわらずスカイツリーが時々黒く見えた。昼間に黒くなる現象を不思議に思い、自分自身でも考え、周りの人に聞いた結果、向丘高校の同僚だった石野さんから、『多分雲の影だろうと思う』との解答があった。その説ならばなんとか納得が出来る。このブログを読まれて新説があればコメントに書いて下さい」というものだった。
 もう2年ほど前のことである。よもやコメントが寄せられるとは思ってもいなかったのだが、この11月7日に”のぶさん”という方から、次の様なコメントがあった。
 
「雲の影です。建築途中から毎日見ていていつも驚いていました。良く見ていると、晴れた日でも気が付かない雲があるもので、それがツリーとの間に入り光量が落ちるとあの輝くような白がグレーになります。数秒目を離した際に色が変わっていてビックリした事が何回もありました」と。
 そのコメントに私は「東京スカイツリーを良く観察した方から、『グレーに変化する原因は雲の影』とのコメントを頂き、そうであったかと納得出来ました。有難うございます。同じ事に気が付いている方がるいることを知り嬉しかったです」と率直な気持ちをコメントした。
 (上の写真も含めその
日に撮影した東京スカイツリーの3葉。様子が全く異なって見えた)