マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

シンフォニークルーズに乗船

2019年05月30日 | 東京散歩

 17年前の定年退職時に「東京都教職員互助会」の特別会員になっていた。やや高めの会費を一括納入。退職後に疾病などによる支払いがあれば申請し、後日療養見舞金を受け取れるという保険が適用される。毎年きちんと書類を揃え保険金を受け取って来た。

 今年に入り、その互助会から喜寿のお祝いが送られて来た。結婚式の引き出物と同種の
カタログで、そのカタログに記載されている品物の中から希望の一品を選ぶことが出来る。品物には興味が向かわないで、イベントの「シンフォニークルーズ」を選択した。程なくしてギフトカードが送られてきて”客船のレストラン&クルーズがお楽しみいただけます”とあった。それも不思議なことに3人のご招待。日頃、車などでお世話になっている、妻の友人のトモさんをお誘いし、日程を5月29日(水)と決めて申し込み、昨日乗船してきた。

 出航は「日の出ふ頭」からで、このクルージングには、ランチクルーズ・アフタヌーンクルーズ・サンセットクルーズ・ディナークルーズの、コース4つが用意されていて、私達が乗船したのはアフタヌーンクルーズで、運航時間15:00~15:50で、乗船中に飲み物とケーキが味わえるというもの。(写真:客船モデルナ)
 ゆりかもめ「日の出」駅でトモさんと待ち合わせ、徒歩5分程度でふ頭乗船場へ。駐車場にははとバスが多数停車していて、団体客の中には修学旅行の一環か、地方の中学・高校も数校あった。
 待つこと30分で乗船開始。船名は「シンフォニー モデルナ」と呼ばれる4階建ての2618トン”豪華”客船。その2階のレストラン「フォーシーズン」の一角に私達のテーブル席が用意されていて、着席後10分ほどで出航し、出航後ケーキなどが運ばれて来た。
  
  
  
 
 

 私達のコースは右地図の緑線。2時間半に及ぶディナークルーズは羽田空港付近を通過するハート型コースだが、私達の乗船はお台場海浜公園を越える程度の短いコース。船はス
ローなペースで進み、船内には長閑な雰囲気が漂う。







 

 かって竹芝ターミナル発の「新東京丸」に3度乗船したが、その時よりもはるかに短いコースで、ケーキを食し、お喋りを楽しみながら、のんびりと窓外の東京湾を眺めた。あっというまの50分。フジテレビの建物も遠望でき、話題は「やすらぎの郷」や倉本聰に及んだ。(写真:レインボーブリッジと遠くにフジテレビ湾岸スタジオ)

 想像していたよりも豪華な気分の味わえるレストランと客船。それなりに満足しました。帰路は新橋のアンテナショップ「とりおか」でコーヒーブレイク。

 


六阿弥陀を歩く(その1)

2019年05月28日 | 東京散歩

 10連休中の5月3日(金・祝)に六阿弥陀巡りに出掛けたのだが2つの失敗があり、四番までで途中挫折してしまった。今日のブログはその失敗談となるが・・・。 
 「六阿弥陀」を知ったのは『逢対』が先だったか、谷中図書館の前の道筋にある”ろくあみだみち”と書かれた石碑が先だったのかは、今は思い出せないが、いずれ廻ろうとネットで調べたりしていた。









 その六阿弥陀とは
一番 豊島 西福寺
二番 足立 恵明寺
三番   西ヶ原 無量寺
四番 田端 与楽寺
五番 下谷 常楽院
六番 亀戸 常光寺
と知った。(右は六阿弥陀寺の大凡の位置)












 出発前に認識し、考えていたことは、
 五番の常楽寺は、現在のABAB
上野店の地に建てられていたが、昭和20年の空襲で焼失し、既に調布市へ移転されていた。ただ、参詣の便を図って縁のある上野池之端の東天紅の敷地の裏に別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしていることを知り、ABAB上野店と東天紅を訪れることと決めていた。
 二番の恵明寺は現在荒川に掛かる江北橋の先の江北2丁目に位置する。一番と二番が離れ過ぎている。江戸時代、荒川は無いにしても、隅田川は渡らなければ回れないことが不思議だった。
 一番の西福寺は豊島とあるが、現在の王子はかつては「豊島郡」にあったことから、西福寺の最寄駅はJR王子駅と判断し、5月3日(以前のブログに4日と書いてしまったが)9時半王子駅を出発したのだった。 

 失敗の1番目は西福寺を通り過ぎてしまった事。知らない土地・道を歩くときは必ず地図のコピーを参考にし、スマホには頼らないことにしている。この点は自己責任で、そこが面白いのだが、地図に気を取られ過ぎて西福寺を通り過ぎてしまった。それもかなり進んでから気が付いた。暑い日だった。引き返すよりも前進し、一番は後日に回すこととして先を急いだ。
 豊島橋で隅田川を渡り、江北橋で荒川を越えた。恵明寺は更にその先にあった。ここまで1時間。門は閉じられていて、門前の掲示板を読むと「この六阿弥陀如来は、江戸時代、阿弥陀の二番目の札所として、古くは小台の延命寺にあったものを明治九年の合併の際移してきたものである」と書かれていた。2番目の失敗に気が付いた瞬間だった。江戸時代、二番目のお寺さんは、沼田の小台にあった延命寺だった。

 三番の無量寺は旧古河庭園裏にあり、何度かお参りした寺だが、そこまでの道は遠かった。2時間も掛ってしまった。暑い日差しに照らされた身にここ真言宗豊山派の寺の緑陰が嬉しかった。(写真:下は無量寺山門)




 昼食を駒込駅付近のラーメン屋で済ませ、四番の真言宗の與楽寺を目指した。ここは都高退教の「東京歴史散歩」などでも訪れたお寺さんで、四番手前からははっきり「六阿弥陀道」と分かる道を進んだ。谷中図書館の前の道だ。ここで14時を過ぎていた。歩数計を見ると28000歩を記録していた。(写真:下は與楽寺山門)




 

 図書館の前まで来た。まだ上野から亀戸までの道が、相当な距離が残されていた。ここで谷中銀座の美味しい生ビールを思い浮かべてしまった。今日の六阿弥陀道行を断念した瞬間で、横道に逸れてしまったのでありました。これは3番目の失敗と言えるかもしれない。
 計画が杜撰だったと反省している。仕切り直しだ。
再度歩く積りだが、まだその日は巡って来ない。
 言い訳を。『逢対』の著者も六阿弥陀では迷ったらしいヵ所があった。単行本には六阿弥陀について「・・・通常は駒込の西福寺から始めて足立・・・」とあったのが、文庫本では「・・・通常は豊島の西福寺から始めて沼田、・・・」と書き改められていた。

 


久し振りの草津

2019年05月26日 | 

 24日(金)~25日(土)、1年3ヶ月振りに草津へ出掛けて来た。往きは中沢ヴィレッジの車で都庁駐車場→草津、帰りは西武バスで軽井沢→池袋。

 ①ここの会員になって20数年が経っていた。ホテルは「会員感謝プラン」を開催していて、夕食・朝食ともブッフェスタイルで1泊6300円と通常料金よりだいぶ安い。以前はログハウス利用が多かったが、最近は温泉から近いタワー塔宿泊を選択することが多い。(写真:右が13階建てのタワー塔。下は塔9階からの撮影の白根山)



 ②ホテルで石野さん夫妻と合流し、直ぐに湯畑へ散策に。豪快な源泉風景が見られるのでいつ行ってもここは観光客で溢れている。多分、千年の長きにわたって湧き出している温泉。草津ではどこの湯も掛け流しのみなもとがここにある。



 ③その一角で地酒試飲会が行われていた。浅間酒造と地元の青年部が共同で開発した「+PLUS #001」という地酒。試飲するとすっきりと切れのある味わいで4人とも「旨い!」。早速、付近の酒屋で4合瓶を1本購入し、夜に嗜んだ。









 ④酒屋さんそばにある、名前は思い出せないが、かつて何度か入った喫茶店で一休み。
 
 
 ⑤朝はホテル主催の「野外観察」には参加せずに一人で散策。朝から快晴で、晴れた早朝の森林浴は気持ちが良い。睡蓮池で「野外観察」の皆さん一行とすれ違った。人数を数えると約40名。このイベントの人気は衰えていない。
 

 ⑥夕食もそうだったが朝食のバイキングも以前よりレベルがアップしている感じがした。食事だけでなく、建物もいろいろ改修がなされていて全室でWi-Fiが使えるようにもなっていた。使い勝手の良いホテルへの変身途上と見た。

 ⑦朝は10時にはホテルを出て、最初に向ったのが道の駅「花の家」。妻たちは衣類などの買い物。男二人は小高い丘に登った。道の駅の周りはフラワーパークになっていてツツジが満開。
 

 ⑦その後は石野車で六合→昼食(軽井沢の弥栄)→アウトレット→軽井沢バスストップと回った。食事処「弥栄」は10年振りだろうか、向丘グループが草津に向う時に何度か寄ったことのあるお店。ママは調理場に回り、メニューからは”
蕎麦”が消えていた。

 軽井沢16時発の車は19時半池袋着。天候に恵まれた旅だった。


『逢対』(著:青山文平 出版:文藝春秋)再読 その2

2019年05月24日 | 読書

 物語の主人公竹内泰郎が幼馴染の北島義人に「相変わらず、逢対も毎日続けておるのか」と訊ねると、義人は「むろんだ」と答えた。
 その逢対とは、登城する前の権家、つまり権勢を持つ人物の屋敷に、無役の者が出仕を求めて日参すること。まだ暗いうちから、一刻余りも門前に並びつづけ、十把一絡げに座敷や廊下に通される。そこでまた、登城前の要人が姿を現すのをひたすら待つ。ようやくそのときが訪れても黙って座りつづけ、顔を覚えられ、向こうから声がかかるのを待つのである。その辛抱を義人は十六のときからもう十二年つづけているのだった。
 二人は濡れ縁に座り暫し言葉を交わした。
 泰郎「まねできんな。おまえの堪え性は」
 義人「さほどのことではない。これが俺の武家奉公だ。だから毎日通っている」
 泰郎「ほお、武家奉公するための逢対ではなく、逢対そのものが武家奉公というわけか」
 義人「当然であろう。家禄をいただいているのだ。なにかをやらねばならん」
 いざというときにお役に立てるよう、義人は六阿弥陀で足腰を鍛え、それを十年を越えて続けている。義人に紛れもない武家を見た泰郎は義人の逢対に同行を頼むこととなる。

 四日後、下谷山下の鰻屋で二人は会った。義人の話では、若年寄の長坂備後守秀俊がお勧め。長坂備後守は逢対へ訪れる者への応接が良い上、こちらの逢対に限っては出仕が叶うかも知れないとの噂が出ている、とのことだった。

 そこで泰郎は義人ともに長坂備後守の上屋敷の門を潜り、初めて逢対を経験した。
 その二日後、泰郎の屋敷に備後守からの使いが現れ、備後守が懇談の機会を持ちたいと伝えて来た。屋敷に出向くと、備後守曰く「お主を小十人組に推挙しようと考えておる」。なぜ義人ではなく自分なのだ?訝る泰郎に「お主の本差しを譲って欲しい」と。要するに本差を譲って貰うことの交換条件付き出仕なのだった。

 ここからの泰郎の応対が面白い。「あの脇差は我が友北島義人からの借り物でございます。これより下がって、それがしからも伝えおきますゆえ、あらためて北島に出仕をお申し付け願えればと存じます」と、泰郎はチャンスを脇差とともに義人に譲ったのだ。
 下谷に戻って、事の次第を話すと、義人は甘えるぞと言った。逢対そのものが武家奉公だと強がり言っていた義人はあつさり逢対をやめ、内心では待ち望んでいた出仕を選んだのだ。泰郎の方が立派に見えるが、著者は、義人の生き方をさもありなんと肯定している。泰郎の出仕がたった1日の逢対で叶ってしまったら、12年も逢対を続け職を得られない義人は報われなさ過ぎる、不公平が過ぎる。読み返しこの結末でホッとした。
 私は義人が歩いた六阿弥陀道を歩きたいとも思った。

 今日の二葉:千石駅付近のお宅のバラも素晴らしい
 
 


 
 

 
 
 


『逢対』(著:青山文平 出版:文藝春秋)再読 その1

2019年05月22日 | 読書

 青山文平が『つまをめとらば』で直木賞を受賞してからもう4年になる。その折に知人からお借りして読んだ作品のなかで、特に『逢対』(あいたい)の印象は強烈だった。
 江戸時代に行われていた「逢対」という”就職活動”と、その頃の江戸庶民がお参りする行の六阿弥陀に興味を抱いた。六阿弥陀道については、結局私は5月4日に歩くことになったのだが、それはひとまず置いておいてまずは『逢対』について。
 『つまをめとらば』は6つの短編で構成されているが、そこに登場する女性は、みな一見ひ弱に見えるが、実はしたたかであり、逞しい。




 『逢対』の前半では、三枚橋横丁で煮売屋を営む里が語られる。近くに住む竹内泰郎はここに足繁く通ううちに男と女の、理ない仲になり一緒に暮らすようになる。里は特に夫婦(めおと)になることを望まず、お妾のままでいいと言う。
 彼女の話を聞くとこうだ。母はこの界隈でケコロ(遊女)をやっていたが、三十も半ばになってから妾になる相手をつかまえ、がんばって自分を産んで、いい生涯を終えることが出来た。私もそうなりたいから、何としても子供を産みたい。
 「・・・だからあなたを食べ物で釣ったの」と屈託がない。こちらから言い寄っていった積りが、実は相手の垂らしたエサに掛ったのだ。貧乏旗本で、師を持たない算学者とはあかちゃんができるまでのお付き合いと里は割り切っていたのだった。

 里とのことでもふんぎりがつかず、武士のありようや算学のことで悶々としている泰郎のところへ、同じ小十人筋で幼馴染の北島義人が「すまんが、水を一杯くれんか」と顔を出した。「六阿弥陀だ、ひと息ついたら田端に回る」とも。彼は六阿弥陀を逆回りしている最中だった。
 六阿弥陀とは行基が一本の大木から六体彫った阿弥陀像を本尊とする六ヶ所を一日でお参りする行で、通常、豊島の西福寺から始めて、沼田、西ヶ原、田端と回り、下谷の常楽院を経て、亀戸の浄光寺で終わる。逆に巡る参り方もある。泰郎の家宅は5番目の常楽寺のそばにあった。
 義人は毎月、三と五と七のつく日に、六阿弥陀に参っていて、正と逆をかわりばんこにしていて、今日は逆だった。相変わらず逢対も毎日続けているのかと問う泰郎に義人は「むろんだ」と答える。
 本書で私は「逢対」を初めて知った。江戸時代の風習だが、江戸時代の貧乏旗本の生き辛さと忍耐の日々がありありと想像出来たのだった。そこは次回に。

 今日の三葉:新緑の六義園。今朝撮影。