マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

天橋立・北近畿タンゴ鉄道・川戸屋

2014年05月31日 | 

 「いい日旅立ち」の2番”~~あゝ日本のどこかに 私を待ってる人がいる~~”ではないが、旅は宝探し。見知らぬ風景に出会い感動する事もあれば、未知なることに遭遇し、新たな知識を得ることもある。その土地の人情に触れ思い出の一コマとなることもある。今回の旅行記で書きもらした3点を書き加えておきたい。

 ①天橋立 
 松島・宮島と並ぶ日本三景の一つで、いずれも背景は海。江戸時代、山は未だ鑑賞対象ではなかったのだろう、海のみセレクトされている。私的には尾瀬ヶ原から眺める山岳風景や、常念岳から見た槍ヶ岳に連なる連峰・トムラウシの五色ヶ原などを日本三大風景に挙げたいが・・・。
 その天橋立は、遠方から眺めると、海に浮かぶ細い紐のように見える。いつ頃からこの様な風景が形成されたかは知らない。歩いてみると、狭いところでは幅20m足らずで、標高は1mくらいである、長さ2キロ強の細道。よくもこのようなか細い道が永い間存続し続けて来たなと、そのこと驚く。そこから宮津湾側を眺めると、海が実に美しい。水が澄み、青色の海である。砂浜から遥か彼方に日本海の水平線を眺めた。



 天橋立の名物が回転橋。船が外航に出ていくことが可能な橋の回転装置はいまだ稼働していて、18日11時その回転を見学。












 ②北近畿タンゴ鉄道。
 この第三セクターの鉄道会社は現在2路線を有している。かってのJR宮津線は1990年に現宮津線となり、豊岡と西真鶴を結ぶ、主として海側の路線。もう一本が、宮福線。福知山から山の中を通り、宮津へと通じる。宮津線とは宮津駅で”T字”に交わる。”大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天橋立”と歌われた大江山を越えて、日本海へと通じる。
 赤字路線である。18日の天橋立駅で特別仕立て列車「KURO MASTU」号を見た。天橋立から豊岡まで行くダイニング列車。色々と営業努力はしているのだろうが赤字は解消していないようだ。発車直前、営業マンの方からパンフレットを渡され、瀧川さんは興味を抱いたようだ。彼はひょっとすると再度この地を訪れる積りかも知れない。(写真:黒松号)



③民宿「川戸屋」
 民宿は当たり外れがあると思う。ここ余部の川戸屋は◎なので、敢えて書いて置きたい。灯台まで車で送ってくれた。夕食には蟹と刺身の他に、超でかいアジの焼き魚が出され、朝食にもヒラメの焼き魚が付いた。日本酒が1合300円は特に有難かった。温かい感じの女将はかの事故をマジカに見たそうな。鉄橋傍の写真館でもある。お土産に余部鉄橋の絵葉書セット頂いた。今日の写真は
その絵葉書をスキャンしたもの。又、女将自身が作成したHPは以下の通り。
  URL http://www.kawatoya.com/kawatoya/


  (春の日本海と「あまるべロマン号」)


   (谷を渡る特急「はまかぜ」)


  (御崎側から望む余部鉄橋)


   (虹と寝台特急「出雲」)


   (冬の余部鉄橋)


    (菜の花と余部鉄橋)


   (遠望 特急寝台「出雲」)



    (満開の桜と寝台特急「出雲」) 


 

 


”大飯原発”訴訟に画期的判決

2014年05月28日 | 科学・原発問題

 5月21日、福井地裁は、定期点検中の関西電力大飯原発3・4号機の再稼働を認めない判決を言い渡した。東京新聞・朝日新聞でその詳細を読んでいたが、5月22日に知人のHさんから「司法も未だ捨てられない」と題するメールが届き、この判決の全文が載るサイトが紹介されていたので、早速、その全文をプリントアウトし、熟読した。裁判の判決文には失望させられることが多かったが、この判決文は、裁判官の真摯な思いも伝わって来くる画期的なもの。そのサイトのURLは、http://www.news-pj.net/diary/1001 以下の私の文よりもそちらの一読をお勧めしたい。

 主文をまとめると「大飯原発から250キロ圏内に居住する原告に対する関係で、大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない」となる。
 ”はじめに”で、人格権に触れ「この権利は憲法上の権利であり、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。(中略)とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのもに基づいて侵害行為の差し止めを請求できることになる」として、判決文は、人格権侵害のおそれがあるか否かを具体的に検討していく。
 まず当然に検証対象として取り上げたのが福島原発事故。「15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは想像に難くない」。この様に、原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは福島原発事故で十分に明らかになった、と断じた上で、、「(大飯原発再稼働に)かような事態を招く具体的危険性が万に一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課せられた最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる」と書かれている。この最後のフレーズを読んだとき、感動が来た。兎も角嬉しかった。「司法も未だ捨てられない」に同感した。
 
 その後、冷却機能の構造上の欠陥について詳しい分析を加えている。その詳細の全文を理解したわけではないが、原発問題の再学習には格好の教材を提供してくれたものとも思う。
 最後に、「原子力発電所の稼働がCO2の排出削減に資するもので環境面で優れている」との関西電力の主張に対しては「福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである」と断罪した。


”天空の城”竹田城へ

2014年05月26日 | 

 京都駅から日本海方面を経由して下関市幡生(はたぶ)に至る山陰本線。支線をのぞく営業キロ数は673.8kmで、新幹線以外の、JR在来線としては日本最長である。その山陰線が下関から京都に向かうまでに、山陽方面へ通じるJRと数か所で枝別れする。下関から順に、美弥線・山口線・伯備線・因美線・播丹線・福知山線である。米子からの境線と、綾部からの真鶴線が日本海側へと向かう。
 それらの一つ播丹(ばんたん)線に和田山で乗り換えた。一つ目が竹田駅で、竹田城へはここから向かう。土・日だと山陰線特急から便利な乗継列車で竹田まで行けるのだが、19日は月曜日、そのような便利な列車は無い。そのかわり、人出の少ない竹田と城を歩くことが出来た。
 竹田城跡、かっての山城。歴史的知識としては初代城主が太田垣氏程度しか知らない。室町時代から戦国の世にかけて幾多の抗争があったであろうことは想像に難くない。城跡は城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、霞んだ時に見える風景から、天空の城や日本のマチュピチュとも呼ばれると聞いていた。雲海に浮かび上がる古城の石垣群の姿・形が人気の秘密とも教えてもらっていた。










 この日、竹田城へのアクセスにシャトルバスは運行されていない。徒歩40分程度と観光案内所で聞いたので、タクシーは利用せず、山道を上った。今回の旅の象徴とも言えるアップダウン。表米神社からは標高差200mはあろうかという急坂を一気に登ると、車道に合流し、その先に城跡入口があった。入山料は300円である。
 古城は苔むしてはいなかった。かっての、本丸・北千畳曲輪・花屋敷曲輪・南千畳曲輪などの石垣を巡った。大津の坂本で訪ねたことのある‘’穴太‘’造りだ。






 この日も絶快晴で、靄に包まれた城あとではなかったが、陽に映える石垣がかっての城を想像させてくれた。この様な規模の山城は初めてで、‘’現存する山城として日本屈指の規模となっている‘’とのうたい文句が素直に頷ける、見応え充分の城跡だった。竹田の町とは標高差250mはあるだろう。眼下の竹田の町の屋根群や遠くの山並みを飽かず眺めた。(写真:眼下に竹田の町)
 帰りは車道を下り、寺町通りを歩いた。昼食を摂り、荷物を預けておいた、竹田そば処「伊とう」で、お礼の意味も込めてビールで喉を潤した。開店一か月に満たないここの蕎麦は美味で、伊根の舟屋が雑談に出た。
 あとは一路、JRを乗り継いで東京に戻るだけだった。


      (竹田の寺町通り)



     (観光案内所の映像から)


        (観光案内所の映像から)

 
     (観光案内所の映像から)


余部鉄橋

2014年05月24日 | 

 5月18日(日)、豊岡で北近畿タンゴ鉄道から山陰線に乗り換えた。福知山で別れた山陰線と”再会”し、一路「餘部駅」へ。2両編成の列車の先頭に立って、変化の激しい風景を見続けた。右手、目線と同じ高さに見える日本海は碧かった。かって何度か見た日本海はいつも深い昏い色をしていたのに、この日は別人のようだった。しかし見えている海の風景も直ぐにトンネルで遮られた。実にトンネルの多い地域の通過だ。「餘部駅」手前が「鎧駅」。そこからは高度を上げつつ、3つのトンネルを経て余部橋へと向かう。親しい人との久しぶりの再会を目前に心昂ぶる時のように、わくわくしながら、列車前面を見続けた。(写真:山陰線車窓より)



 最後のトンネルを抜けると突然に余部橋が見えた。下車後一部残された旧鉄橋の上を歩いた。そこからは遥かに日本海が望め、見下ろすと余部のがひろがっていた。40数メートル真下だ。ただここからは、残された3本の旧橋脚は見えない。駅から急な階段を下るにつれて旧橋が見えて来た。真下に立って、コンクリートの新橋と両方を見上げる。7mの間隔があるとは思えないほど接近して見える。ただ思いは旧橋にいく。この様な橋が明治の末に建造されたことを改めて凄いなと思う。土台や基礎部分がしっかりと作られていることを目の当たりにする事も出来た。列車落下地点に、災難に遭われた方々を祀る観音様も建てられていた。(写真:余部橋直前。真っ直ぐ進めば旧橋。左へ曲げて新橋)





 
      (左旧橋と右新橋)

     (眼下に余部)


    (旧橋の一部は保存されている)


       (コンクリート製の新橋)

 この夜の宿は民宿「川戸屋」。宿に入り女将と相談をした。実はここ余部にはもう一つの名所があるのだ。日本一の高さ(設置位置の標高が274m)にある「余部埼灯台」。『余部鉄橋物語』では子供たちがここへ遊びに来て、そこからの風景に見とれ、「余部には自慢するものが2つある。鉄橋とここから眺める景色」と語っていた。その灯台とそこからの日本海を見てみたかった。歩いて行けると思い込んでいたがさにあらず。相当時間がかかるので車で送って下さることとなった。車で12分ほどで17時5分に灯台に着いた。『物語』で紹介されていたような絶景がそこにはあった。微かに丹後半島も遠望出来た。
 夕食の準備もあるので女将は10分ほどで帰って行った。私たちは18時56分の日没を見たかった。しかし帰路は小一時間は掛かるという下り。その時まで居ては夕食時間に間に合わない。泣く泣く無念の思いで、17時25分頃に引き返し開始。
 滝川さんとは4年前の、山形県の湯野浜温泉でも日本海に沈む夕陽を見られなかった。残念ながら、海に近くまで落ちてきた太陽を眺められたことに満足し、高台を下っていった。(写真:丹後半島が遠く霞む)
 明けて19日(月)、早朝に餘部駅までのぼり、朝陽を浴びながら、新橋を渡る列車を眺めた。
 
 
 (余部埼灯台)       (新橋を渡る山陰線普通列車) 
(蛇足ながら、橋名は余部鉄橋で、駅名は、他に「余部駅」があるので、こちらは
餘部駅)
 


伊根の舟屋(その2)

2014年05月22日 | 

 明けて5月18日、朝5時には宿を抜け出し、伊根湾散策に出かけた。前日歩いたのは、伊根入口の「日出地区」から与謝荘のある「平田地区」までの、全体の1/3程度。残りの、宿から終点「亀山地区」の赤灯台まで訪ね歩きたかった。(写真:現在地とあるのは宿付近。赤線内が保存地区)









 かって非常に狭かった道路は、昭和になってから、車が通れるほどに道幅が拡げられた。その結果舟屋はより海側に近づき、舟屋と道路ひとつ隔てて山側に主屋が作られる事となった。その結果、主屋には当家主(あるじ)夫妻世帯が、舟屋の2階には若夫婦世帯がという棲み分けが始まった。そして若夫婦が世帯主となると舟屋から主屋へと移り住む、という風に習わしも変化したそうな。
 前日の夕食時、ダイニングのガラス窓から対岸の舟屋の灯を見たいと思い、じいっと待っていたが、10数軒のうち明かりが灯ったのは僅か2軒のみ。ごく最近では核家族化が進み、その核家族は舟屋に住むことなく、主屋にのみ住むことが進んでいるとの話も聞いた。舟屋の居室はその役目を終えようとしているかに見えた。(写真:これでも拡張された道路)


  (宿の食堂から、朝日を浴びた舟屋を観る)


   (宿近くまで来る海鳥)

 さて、この日の散策では、その拡げられた過去を持つ道路の左手に主屋や蔵を見て、右手に舟屋を見なが歩を進めた。舟屋を背後から眺めると、1階に格納されている舟が良く見える。
 すれ違う度に向こうから「お早うございます」の挨拶をされ、慌てて挨拶を返すが、清々しい気分。舟屋と舟屋の間から、海を隔てて舟屋が見える。山側の寺へは階段を上り、海福寺や慈眼寺にお参りをする。標高20メートル前後のお寺から伊奈湾を眺めると、朝日を浴びて海が青く、舟屋がくっきりと見える
。伊根の舟屋公園にも上った。こちらは標高50メートルはあろうかという高台。湾を取り巻くように建つ舟屋群がはっきり見渡せる。(写真:伊根公園からの見る湾と舟屋)


 
 (舟屋と舟屋の間)     (伊根舟屋群終点の赤灯台)

 宿には7時過ぎに戻り朝食。中居さんに話を聞くと、漁業を生業とする人の数も減少しているそうだ。舟屋は1階も2階も生活とは疎遠になりつつあるのかな、が正直な感想。仮に生活上の役割を終えたとしても、歴史的・重要伝統的建造物として、後世へ大切に保存されることになるだろうと思う 。
 帰路は前日と全く逆方向の行程を辿り、天橋立駅に戻り、餘部駅目指して北近畿タンゴ鉄道の乗客となった。(写真:海福寺から見る舟屋)




   (早朝には月が残っていた)