マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

霧多布湿原へ

2022年06月24日 | 

 道東を旅したことは何度かあった。岳友と行った雌阿寒岳や斜里岳。運転免許を取得して直ぐ母と訪れた摩周湖等など。いずれも車での旅で、鉄道を利用して釧路以東に足を入れたことは一度もなかった。妻から「それなりにお疲れさん。1泊なら宿泊OKよ」と言われ、息子一家からの帰り、釧路に1泊し、翌日に「花咲線」を利用して茶内に至り、道東の一角霧多布湿原を散策しようと決めた。(写真:花咲線は1両編成)



 まずは山中町に湿原の資料の送付をお願いすると、詳しい資料が郵送されて来た。道東に関しては非常に詳しい指圧屋・水野さんに見どころを相談すると、ベストと思えるコースを作成してくれた。山中町からの資料を基に私なりに思案すると水野案が優れていることが理解できて、その案通りのコース計画を設定をした。(写真:花咲線は単線)
 四日目 6月13日(月)
 釧路→(花咲線)→茶内→(バス①)→仲の浜入口→(バス②)→琵琶瀬展望台→(バス③)→ゆうゆ温泉→(バス④)→茶内→(花咲線)→釧路
 霧多布湿原への入口はJR茶内駅だった。9時35分到着の列車を茶内駅で下車したのは私一人。バスに乗車する者は2名。漸く夜来の雨は上がっていたが、どんよりとし天候のもと、心もとない思いを抱きながら霧多布湿原への旅はスタートした。

 霧多布湿原は、2021年に「厚岸霧多布昆布森国定公園」として国定された公園内にある。総面積約41,000haとのことで、尾瀬の特別保護地域の面積8690haの約4.7倍で、その広大さは知れようというもの。海岸線の後退と、砂丘の堆積により形成されたのが霧多布湿原で、春から秋まで色とりどりの花々が咲き「花の湿原」とも呼ばれている。(写真:湿原を行く花咲線が登場している)












 仲の浜でバスを乗り換え琵琶瀬展望台へ。水野さん一押しの場所だ。小高い展望台に立って湿原を見渡した。広大に拡がる湿原のなかをゆったりと琵琶瀬川が流れている。この茫洋たる風景は日本有数の景色ではないか。大雪山系・白雲岳からの風景に遜色ない。水野さんから非常に良い場所を教えられたと感謝!感謝!(写真:琵琶瀬川と霧多布湿原。下右の写真は琵琶瀬展望台小屋内に展示されていたもの)



 

 ここからバス③で「ゆうゆ温泉」に直行してしまったのだが、実は水野案は途中下車し林道を歩く、とあった。しかしこの日の天候は風強く、気温は極端に低し。それに適する服装を用意していないこともあり、林道歩きは断念し「ゆうゆ温泉」へ一目散。(写真でEは琵琶瀬展望台でCはゆうゆ温泉)






 「霧多布温泉ゆうゆ」は源泉100%の、かけ流し温泉で、温泉内からは浜中湾が一望の下でこれ又絶好の展望台。ここで昼食をとり、生ビールに旅の疲れを癒し、茶内へと引き返したのだった。
 短い時間内の旅であり、まして林道を歩かなかったので、湿原の素晴らしさを殆ど味わえず、花々にもお目にかかれなかった。ただ、その広大な風景を眺められ満足感は高かった。



 追記1 高台にはゆうゆ温泉と浜中町役場の2つが建てられていた。津波を警戒し役場は昨年の1月に標高47mのこの地に移転してきたとのこと。無料で牛乳を飲ませてくれる町役場だった。『ルパン三世』の著者モンキー・パンチの故郷でもあった。





 

 追記2  厚岸霧多布昆布森国定公園には別寒辺牛湿原も含まれている。花咲線はその湿原内を走るのだ。しかも特別の列車は極端に速度を送らせて。ここでは掲載できないが何本かの動画を撮影した。(写真:花咲線車内からの撮影)



 追記3  JRは帯広→釧路→茶内(ここで引き返し)→釧路と乗車した。ジパング倶楽部の乗車券購入の方法に片道・往復以外に連続とうい方法があり、上の経路は“連続“で一本の経路と見なされ、ジパング倶楽部の3割引きの適用を受けた。

 

 


2年7ヶ月ぶりに北海道へ

2022年06月17日 | 

 6月10日から帯広・音更に出掛け、2年7ヶ月ぶりに孫たちにも再会し、息子夫婦宅に2泊し、帰路は釧路に1泊して霧多布湿原を訪れ、13日(月)の夜遅く帰京した。妻は楽天を通じて、往復の航空券と釧路の宿がセットのものを32.200円で予約購入しておいてくれた。その妻は残念ながら体調絶不良のため私の一人旅となってしまった。
 初日 6月10日(金)
 羽田発8時のJAL573便は十勝帯広空港着9時40分頃。ここからバスで帯広駅へ。孫たちは保育園へ通っているのでいきなり息子宅へ行っても誰もいない。そこで、まずはお気に入りの六花亭本店でお代わり自由のコーヒーを味わいながら、持参した『花散る里の病棟』(著:帚木蓬生)を読了。ここのコーヒを飲むと帯広にやって来たことを実感出来る。更にお気に入りのパン屋さん「萬寿屋商店」で“ベビーパン”などを“爆買い”して音更へ向かった。
 孫たちはバス停で待っていてくれた。自宅では“おじいちゃん ようこそ”の紙の垂れ幕で歓迎してくれた。











 私達が用意していたお土産はジブソーパズル。6歳の長女も3歳の次女も大のジグソーパズル好きで、長女からは208ピースの「鬼滅の刃」、次女からは80ピースの「アンパンマン」を頼まれていた。早速お土産を渡すと、パズルに夢中になってしまった。その日のうちに80ピースは完成したが、208ピースは翌日に持ち越し。(写真:完成したアンパンマン)

 そうこうするうちに仕事を早めに終わらせて息子が帰宅した。一家で食事に行くものと私は思っていたが、まだ孫たちと一緒の夕食は無理とのことで、息子と私のみ近くの回転寿司店へ。息子と一献傾けたのはいっだったか全く思い出せない。車運転の息子は飲めないので私のみ日本酒で再会に乾杯。
 帰宅すると孫たちはトランプで遊びたがり、5人で七並べとババ抜きをやった。2年7ヶ月前には1歳1ヶ月だった次女は私の顔をみては泣いていたのに、それがトランプが出来るまでに成長していたことは驚きだった。最後に次女と“神経衰弱”をやると、大差をつけられて私の負け。子供の成長の早さを痛感した次第。

 二日目 6月11日(土)
 この日は一日中雨だった。朝の散歩にも出られずにいると、やよいちゃんから「毎週土曜日はダンスの練習に行きます。一緒にどうですか」と誘われて帯広市内にあるダンス教室に出掛けた。もう2年くらい続けているダンスは動画で見ていて、長女の上達は良く分かっていた。それを“生”で見ると、その上達ぶりが一層はっきり分かった。ジジ馬鹿だが、運動神経が良いらしい。「柳月」でご褒美にプリンなど購入して帰宅すると、後縄跳び2回転も披露してくれた。
 お土産に持参した「鬼滅の刃」は親たちも加わり漸く完成。その後2度3度繰り返し楽しんだ。次女はこのパズルに対する勘が鋭いことに私は気が付いた。今年の9月には10ヶ月遅れの七五三をやろうということになって、少なくとも私は行けるので次女用の「鬼滅の刃」を用意しようと心に決めた。(写真:ダンススタジオで)

 三日目 6月12日(日)
 朝方に雨は漸く止んだが寒い一日で、孫たちは外遊びはせずにこの日も室内遊び。1階のリビングは子供たちの遊び道具が処狭しと並べられているが、まだジグソーパズル「鬼滅の刃」が遊びの主役で、親たちも加わり何度も並べ直していた。私は参加するも戦力外。(写真:完成した鬼滅の刃)
 何かのはずみに長女が既に簡単な足し算が出来ることを知ったので、足し算の問題を出してあげると面白がって何度も出題を頼まれた。問題集もやっているので、エクセルのマクロを利用した足し算プログラムを送ろうと密かに決めたのだった。
 夕食後に別れの時が来た。泣かれはしなかったが、悲しげな表情に「又来るね」と言ってハイタッチ。私はバスで帯広駅へ。20時8分発の特急「おおぞら9号」で釧路へと向かった。
 一家4人が健康に恵まれ、孫たちは順調に成長していることを目の当りにすることが出来て一安心の音更行だった。
 


第三お台場に“上陸”

2022年06月10日 | 東京散歩

 「文京ふるさと歴史館」の友の会会員となって初めての史跡巡りに参加してきた。令和4年度の第1回は〈お台場上陸と南極観測船“宗谷”乗船〉だった。お台場の近くまでは行ったことはあったが上陸したことはなかった。この機会に是非新たな体験をしたいと思ったのだ。








 6月1日(水)13時、JR新橋駅汐留口改札「鉄道唱歌の碑」前に集合。後で聞いたことだが、この日の参加希望者はなんと80名で、あまりの多さに事務局は吃驚。4班に編成しての1班は13時前の出発で、私は3班だった。この日は次の様に回った。









 新橋駅→(ゆりかもめ)→お台場海浜公園駅→(徒歩)→第三台場→(おだいばビーチ散策)→自由の女神像→台場駅→(ゆりかもめ)→東京国際クルーズターミナル駅→初代南極観測船宗谷→自由解散
 幾つかの史跡を巡ったが、この日の目玉はお台場だった。嘉永6(1853)年6月3日のペリー来航により、江戸幕府は二百数十年に及ぶ鎖国の夢を破られ、翌年の黒船再来に備えて江戸湾の海防強化に乗り出した。勘定方吟味役江川太郎左衛門英龍(担庵)らによる江戸湾巡視の結果、内海防備のための御台場築造が決定された。

 当初計画では、品川洲崎から深川洲崎にかけて海上に11基を築造しようとするものであった。第一、第二、第三台場は嘉永7年7月に、第五、第六、御殿山下台場は12月に竣工した。第四、第七台場は築造に着手するも工事半ばで中止された。最終的に完成した6基のお台場は親藩・譜代などの大名によって幕府崩壊の直前まで江戸湾防備の拠点として警備が行われた。しかしここに設置された砲台から弾丸が発射されることはなかった。




 完成した6基のお台場は、2つを残して埋め立てられたり、撤去されて、姿を消していった。第三と第六のお台場のみが史跡として残され、その第三台場は都立台場公園となり、上陸が可能なのだ。

 第三お台場はほぼ正方形に形造られ、周囲は石垣が施されていた。内側は凹の窪地状になっていて、そこに陣屋・かまどが造られ武士たちが居住出来るようになっていて、数ヶ所に分散されて火薬庫が作られていた。(写真下左は台場の窪地。右は台場からの景色)。


 


 砲台・・・西洋式築城法により築造された砲台で、右写真の砲台は当時の記録をもとに1933年に復元された。








 火薬庫跡・・・周囲に土堤をめぐらした木造瓦屋の建物。火薬は火災や被弾の危険に備えて、園内数箇ヶ所に分散して格納された。











 陣屋跡・・・勤番者の居住地として中心の低地部に建造された建物。基礎部分のみ今も現存する。










 かまど跡・・・1928年の公園の開園に伴い設置された大谷石製の八角のかまど。












 石垣・・・一番見たかったのは石垣だ。NHK番組歴史探偵『鉄道開業150年』に登場した高輪築堤の石垣は台場石垣の技術が生かされ、台場と同じように“布積み”と呼ばれる積み方がなされていたそうだ。石材を半分づつずらしながら積み上げていくことによって横ずれによる崩壊が避けられた。


 

 この日に歩いた距離は相当なものだった。高齢者も多く参加していたが皆健脚で、歩き慣れた様子に見えた。


江戸城外堀跡を歩く(その2)

2022年06月03日 | 東京散歩

 1603年に江戸幕府が開かれた当時、江戸水系の中心は日比谷入江に流れ込む平川だった。約400年前に「江戸」を中心に、巨大都市建設が進められるにしたがって、平川をはじめその周辺の川のありかたも大きく変化してきた。現在、平川という名の川は東京には存在しない。かつての平川の現在名は神田川で、三崎橋下流で分岐し日本橋川となる。
 その平川の付け替えは1620(元和6)年に着手された。三崎橋→駿河台(神田山)→柳橋を経て大川に至る水路が開削された。現在、お茶の水の聖橋から眺められる神田川がそれである。この工事により平川下流の洪水がなくなり、江戸湊の埋没を防止できた。同時に三崎橋から飯田橋堀留間の平川流路は埋め立てられ、その下流が外堀となった。外堀建設は橋や御門建設と同時に進められたので、日本橋流域に外堀名残の御門跡やその石組み跡が多く見られる。
 安政地図はそれより200年以上後の様子が描かれたものだが、大きな変化はないだろうと推測し、地図上調べると雉子橋・一橋御門・神田橋御門(鎌倉河岸も)・常盤橋の名が見え一石橋を最後に日本橋川とはお別れとなる。ここから先の外堀跡は現在の外堀通りとなっている。 
 20日(金)9時20分雉子橋をスタートした私は、一ツ橋→錦橋→大手町川端緑道→神田橋→鎌倉橋→竜閑さくら橋→常磐橋→一石橋→外堀通り→東京駅前→新橋駅と進み、三田線内幸町駅に到着した。

 ①雉子橋・・・この橋のすぐ傍に雉子橋門が建てられていた。説明版には「家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの付近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来。1629(寛永6)年に江戸城外郭門の一つである雉子橋門が建造され、橋が架けられた。橋は1903年に鉄橋に改架され、1923年9月1日の関東大震災で被災したため、1926年に新たに架けられたのが現在の橋です」とある。(写真はいずれも橋付近での撮影)


 ②一ツ橋・・・一橋門についての説明文には「一橋門は、徳川家が江戸城に入った頃にはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われております。この石垣は、1629(寛永6)年に建造。1873年に撤去されており、現在では河岸にわずかな高石垣だけがの残っています。現在の橋は1925年に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つです。」とある。(右写真は掲示されていたもので「旧江戸城写真帖」より)


 

 ③大手町川端緑道・・・本郷通りと外堀通りの間の日本橋沿いは緑道として整備され、多くの樹木が植えられて木名も添えられていいる。都心のオアシスといった趣き。私はここで一休みし、喉を潤した。



 ④神田橋・・・すぐ傍に作られた神田橋御門跡の説明
 「ここは、芝崎口門、神田口門、大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺の参拝に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、1629年に下野真岡藩藩主稲葉正勝によって建築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。
 1873年に櫓門が撤去され、1884年に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後、新たに架橋されました。現在の橋は1980年に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯籠風の親柱、石造風の高欄を組み合わせています」と。(上の写真は掲示版の「旧江戸城写真帖」より)
 

 ⑤鎌倉河岸・・・神田橋御門対岸の鎌倉河岸の跡の説明。「神田橋から鎌倉橋周辺は江戸時代から鎌倉河岸と呼ばれています。徳川家康が入府した際、鎌倉から石材を運び込み、この河岸に陸揚げしたのが名前の由来です。この河岸は魚や青物などの生鮮食品をはじめ、木材や石材などの物資が集まるところで、水上交通のターミナルとして賑わいました。」(写真下は掲示版の「江戸名所図会」から)
 


 ⑥竜閑さくら橋・・・この橋は2018年3月に開通した歩行者専用の橋で、この橋を渡ると日本橋川の対岸に行かれる。大手町と神田のアクセスが向上したらしい。幅7m、全長120mもある。橋の高さはJR山手線などと同じ、新幹線の通過の様子も見られる。日本橋川を見下ろすことが出来る面白い橋だ。







 

 ⑦常磐橋(江戸時代は常盤橋)・・・2021/5/2のブログに書いていた。












 

 ⑧一石橋・・・その歴史の説明版があった。
 「一石橋は寛永年間またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は大正11年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。以下略」(写真は掲示版より)







 一石橋を過ぎ、「西銀座通り」と名付けられた、外堀通りを歩き新橋に至った。