9月26日(水)、シネ・リーブル池袋へ出掛け「天地明察」を観て来ました。沖方丁(うぶかたとう)作の同名の著作の映画化です。沖方丁はこの作品で、第31回吉川英治文学新人賞と第7回本屋大賞を受賞し、私はその映画化を待ち望んでいました。実に痛快な映画でした。主人公は囲碁・天文・数学・暦学の達人。私の趣味と重なる部分が多かった事もありますが・・・。
映画は本よりドラマチックな展開を見せます。江戸時代の碁打ち安井算哲(後の渋川春海)が金王八幡宮に出掛け、絵馬の”遣題”(和算の問題)と格闘し、御城碁では本因坊道策と真剣勝負を争うところから幕が開きます。神社では後に妻となる”えん”と出会い、遣題を一瞥で解いてしまう"算聖”関孝和(市川猿之助)とはすれ違います。
幕府より天文観察を命じられた算哲は日本各地の観測の旅に出て、測量技術を習得します。その後、会津藩主保科正之(松本幸四郎)から”改暦の義”を拝命します。その時まで、八百年間使われてきた宣明暦は”日月の食”を正確に当てられなくなってきていました。幕府の中核担うメンバーからも改暦の必然性が認識され始めたのです。
ここから算哲の悪戦苦闘が始まります。
漸く完成した大和暦。どちらの暦が正しいのか、現在使われている宣明暦に対し勝負を挑みます。今後起こる6回の”日月の食”をどちらが正確に当てるかという勝負です。大和暦は5連勝するも最後の日食勝負で敗れ、算哲の名は地に堕ちます。
何故誤ったのかその原因が掴めずに苦悩する日々に、あの関孝和がヒントを呉れます。中国と日本とでは緯度が違うのです。漸くその事に気が付き再度完成した大和暦を朝廷に申請するも却下されます。
そこで最後の戦いとしてゲリラ戦法に出ます。京都の町中での再度の”日食勝負”です。日食を予言した時刻を過ぎても日食は起こりません。又しても闘いに敗れ、切腹かと思った瞬間、太陽は欠け始めます。拍手喝さいを浴びせる観衆。感情移入した私も胸の内で大きな拍手。誰の眼にも明らかな”天地明察”が力となって、朝廷は大和暦を認めざるを得なくなり、この暦は後に貞享暦として採用され、長らくこの国の暦の基本となったのでした。
物語の流れの中で登場するのが和算です。解けない問題を掲げてしまって苦悩する算哲。一見平凡に見え、明るく、おっちょこちょいな性格の算哲を岡田准一が演じ、宮崎あおい演じる勝気な性格の妻との会話がほのぼのとした雰囲気を醸しだします。
読書だけでは想像が付かなかった実際の測量場面と測量機具を大きな興味をもって見る事が出来ました。
更に、笹野高史・岸部一徳が隊長を演じる測量隊が、歩幅で距離を測地する為に、運動会の入場行進の様に行進する様がなんともユーモラスで、この映画に面白さを加味していました。
前半は実にローカルな話です。
今年は9月22日(土)が秋分の日の祝日でした。祝日には富士神社境内でのラジオ体操はありません。しかし何故か、沢さん持参のCDラジカセから流れる放送の声に従って、神社内では20人近くの人がラジオの声に合せて体操をやっていました。さて何故でしょうか?
答えは簡単。皆ボケいてるのです(??)。22日が祭日と言う認識が全く欠落していたのです。中には、祝日にはラジオ体操無しという事を知らない方がいたかも知れませんが・・・。
その日は微かに雨が降っていましたから、数人の常連が姿を見せないのは、雨ゆえだと私は判断し、何の疑問も抱きませんでした。その日初めて読んだ東京新聞の「今日は祝日につき夕刊ありません」の記事を読んで、祝日を認識しながら何ら疑いを抱きませんでした。銭湯「ふくの湯」の湯に浸かっている時、突然悟りました。「今日は祝日なのにラジオ体操に行ったのは絶対にオカシイ」と。
参加してしまった人々はその事にどうやって気が付いたのでしょう。Kさんは何度も夕刊を見に行き配達されないのに業を煮やし電話掛ける寸前に祝日だと気が付いたそうです。
秋分の日は9月23日と思い込んでいた方もいるかも知れません。確かに1979年の秋分の日が9月24日であって以来、秋分の日はこの32年間9月23日だったから。
この事に触発されて”秋分の日一覧表”を調べて見ました。
その天文学的定義は「黄径を回る太陽が”秋分点”を通過する日」とありますが、暦の上で、その日には9月22日・23日・24日の3通りあります。1900年後半をから今日までを生きて来た人達は、秋分の日は9月23日と思うほど、圧倒的に9月23日が秋分の日で、その日のみが秋分の日と考えてしまうかも知れません。しかしその見方は近視眼的です。2100年以降には9月24日も再登場します。
一覧表から、秋分の日のルール(=規則性)を見つけ出そうとしましたが上手くいきません。しかし今後の2000年代に限って言えば
①2012年~2043年はオリンピックイヤーのみ9月22日
②2044年~2075年はオリンピックイヤーとその翌年が9月22日
③2076年~2099年はオリンピックイヤとその後2年間が9月22日
で、これ以外の年は全て9月23日が秋分の日です。2114年には124年振りに9月24日が秋分の日となるのですが・・・。
何時かはと思いながらノビノビになっていた事が2つありました。首相官邸へのデモと東京新聞の購読です。9月21日(金)に今年初めての国会周辺のデモに出掛け、9月22日(土)の朝刊から、”無料ためし読み”期間の東京新聞を読み始めています。
毎週金曜日に国会周辺で行われている「首都圏反原発連合主催」の”反原発 再稼働反対”デモは、週を追うごとに参加者が飛躍的に増加し、政治的役割も演じるようになってきています。反原発・再稼働反対の意思を持ちながら、遊びにかまけて出掛ける機会がなかった私は、遅ればせながらその意思を表示しようと、北海道から帰宅した翌日の21日夜、国会に出掛けて来ました。
聞いていた通り、国会を実に多くのデモ参加者が取巻いています。人の流れをかき分け、私は”スピーチエリア”を目指しました。スピーチエリアでは、一人1分の時間が与えられ自分の考えを自由に発言出来るシステムになっていると聞いていたからです。後に知った事ですが、このスピーチエリアは、国会前と官邸前と2つあり、私が到着したのは国会前だったようです。
数人のスピーチが終わるとシュプレヒコールです。”原発反対”、”再稼働反対”に続いて”田中辞めろ”との叫びも続きます。原子力規制委員会メンバーへの痛烈な弾劾の声です。その日再選された野田首相への批判もあります。倒閣運動ともとれる叫びもあります。”ふるさと守れ!”、”生活守れ!”、”子供を守れ!”、”廃炉 廃炉 廃炉”。一連のコールが数回繰り返されます。(写真:スピーチエリアにて)
シュプレヒコールが終わると、再度一分間スピーチ。このスピーチには著名人も登場しました。日本共産党志位委員長です。彼も含めて多くの演説者が語ったことは、「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す戦略の閣議決定が回避され、しかもそれがアメリカの圧力によるものだとの主張です。(写真:1分間スピーチで熱弁をふるう女性)
60年安保闘争時、私は授業をさぼり何回もデモに出掛けました。その時のデモの高揚とは様子が違います。
「都高教退職者会」ホーページに寄せられた安藤哲雄さんのメッセージにば、60年代と現在の状況を比較して、その差異に触れて次の様に書かれています。
『主催者は①警備の警察官とのトラブルを避けるアピールを徹底して繰り返し、②一方で色のつかない集会にするために、「反原発」「再稼働反対」以外の旗やポスターを説得によってなくす努力を重ね、③発言は一人1分1度だけの原則を国会議員や著名人に対しても守った結果、「原発いらない!」の一点で、誰でも安心して参加できる集会になって、参加者は増え続けてます』
さて東京新聞です。東京新聞は一ヶ月の購読料がお安い(朝日・読売・毎日3.950円 東京3,250円)上に、数人の知人から「日ノ丸・君が代裁判報道の姿勢が一番良い」と聞いていました。長年親しんだ朝日新聞への愛着が他紙へと踏みきれない原因でした。「前向き」の著者で93歳の吉沢久子さんが数紙の新聞を読んでいる事を知り、朝日新聞と東京新聞両紙の購読にフンギりました。22日に配達された、記念すべき第1号の一面タイトルを見て家人ともども吃驚。『閣議決定回避 米が要求』とあります。朝日新聞ではお目書かれないようなタイトルであり、昨夜多くの方が語った論点でした。
更に、22日夜9時時頃、知人のTさんからのメールが届き、そこには「今日(土曜)の東京新聞に私の写った写真がのりました。さて何の記事でしょう?」とあり、慌てて27面を見るとバッチリTさんが写っていてこれまた吃驚。(写真:知人Tさんが写された東京新聞)
帯広の市街地では鉄道の痕跡は殆ど残されていないと思っていましたが、違いました。
層雲峡から帰った次の日の朝、帯広郊外の士幌線跡を歩きました。”ヨメ”のヤヨイちゃんから、帯広駅の次の駅の木野駅があった場所には、スパーマーケットが作られ、鉄道跡地は川に造り変えられたとの話を聞いたからです。その人造の川は息子夫婦が住む直ぐ脇を流れていました。
まず川沿いを散策しました。上流の士幌方面へ川は一直線に、遥か彼方まで延びています。一方下流では直ぐに鈴蘭川に合流し、鈴蘭川は十勝川へと注いでいます。(写真:川となった跡地。士幌方面を見る)
木野駅跡地から帯広方面へと歩むと、こんもりとした盛り土を発見。この道を少し進むと盛り土は次第に高さを増し、両サイドの低地では農作業が行われています。土を耕している人に「ここは士幌線跡地ですか」と尋ねると、「そうです」との返事に確信を得て、更に400mほど歩むと「鈴蘭公園通り」手前で土手は大きく右にカーブし、跡地は帯広駅方面へと向かう公園通りに吸収されていました。前日の「鉄道資料館」で見た、ビデオのカーブはこの辺りであったかと、納得して引き返しました。(写真:ここが元士幌線)
北海道まで出掛けて、マイナーなことをやっていることよと、呆れられそうですが、こういう事も好きなのです。
最後に今回の旅行で印象深かったスポットを書き連ねます。
①ナイタイ高原牧場・・・日本一広い面積(総面積1700ha)の公共牧場。レストハウスからの眺めは壮観のはず。霧の為見渡せなかったのは残念
②「柳月」直営レストラン「トスカチーナ」で食したパスタは安価でを格別に美味しかった。(写真:柳月本店にて)
③国道273号線三国峠・・・ここから見える山並みが幻想的でした
④朝陽亭の瞑想風呂・・・朝陽亭は朝陽リゾートの”本店”。私達が訪れた2日後、囲碁名人戦の舞台となるほどの老舗旅館。こちらの風呂にも入浴可能で、2階の”瞑想の湯”でのんびり過ごす数時間は”癒し”効果抜群と思います。(写真:三国峠付近からの眺め)
⑤双瀑台から見る流星の滝・・・展望台までは徒歩20分の高台。ここに挑戦したのは息子から見て義父(60歳代)と実父(70歳代)の二人のみ。双瀑台から見える標高差120mの落差のある流星の滝は一見の価値あり。
⑥その他・・・帯広でもボウリングをやりました。私は久し振りに3ゲームで400超。(写真:双瀑台から観る銀河の滝。生憎の逆光)
ヤヨイちゃんの父上は気さな方で、ヨーロッパ旅行の達人。私と話が合い、ヤヨイちゃんからは「そこだけ盛り上がっている」とチェックが入ったほど。かくて9月20日14時10分帯広空港を後にし、自宅着17時40分。3時間半の帰路でした。
9月17日(月)から20日(木)にかけて帯広に出掛けて来ました。息子夫婦を訪ね、大雪山の紅葉を眺めることと、”ヨメさん”の父上との親交を温めることが主な狙いです。
大雪山の紅葉は残念ながら10日は早かったようです。ただ帯広から三国峠を越えて層雲峡に抜ける国道273号線のルートには旧士幌線の廃線遺跡があちこちに点在し、何度も車を降りての見学を繰り返し、撮影も出来ましたので、主に士幌線を話題に取り上げます。
朝9時10分、帯広の息子宅を出発。上士幌「道の駅」・ナイタイ高原などに寄り道して、最初に到着したのが「第3音更川橋梁」です。1936年に建設された長さ71mのこの橋梁の上を、かって士幌線が走っていました。
十勝平野を北上する士幌線は1925年、まずは帯広・上士幌間が開通し、その後1939年、十勝三俣まで延長されました。現石北本線上川駅までの延長計画があったようですが、その実現を見ることなく、1987年廃止されました。
ほぼ線路沿の273号線を車で走って想像した事ですが、鉄道は十勝平野を過ぎれば深く険しい山中を進んでいったことでしょう。
往時を連想すると”汽車ポッポ”の唄がピッタリです
「お山の中ゆく汽車ポッポ
・・・・・・
・・・・・・
トンネル鉄橋 トンネル鉄橋
トンネル トンネル
トン トン トンと のぼりゆく」 (写真:泉翠橋から見る橋梁)
トンネルとトンネルの間の渓谷に鉄橋が掛けられ、その鉄橋の廃墟が何ヶ所で観られます。
第三橋梁は国道の泉翠橋から見ました。三の沢橋梁は自然歩道を歩き、橋下から撮影出来ました。その両橋梁間にあったのが「鉄道資料館」。士幌線の62年間の長き歴史のエピソードが大型写真パネルで紹介されています。是非見たい「タウシュベツ川橋梁」は今夏の増水の為、見ることを諦め、写真鑑賞で我慢しました。(写真:三の沢橋梁)
大型テレビ画面では運転席からの乗車体験が出来ます。帯広⇒木野間の画面を見ていた息子夫婦、自宅付近を鉄道が通過していたので気が付いたのでしょう、”あそこだ”の様な事を呟いていました。(写真:鉄道資料館)
(写真:今は鉄道トロッコの駅)
(写真:往時を偲ばせる列車)
(パネルより:タウシュベツ川橋梁)
(ほろか駅ホーム跡)
糠平源泉卿を過ぎ、三国峠を抜け、双爆台に登り、層雲峡に至り、朝陽リゾトホテルに到着したのは16時を過ぎていました。(この項次回に続く)