マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

巻物「八景十境」の完全公開を観る(その2)

2022年02月25日 | 映画・美術・芝居・落語

 巻物の詩編に書かれている「備中太守太田君資宗」とは一体誰か。図録には次の様に説明されている。「江戸時代、現在の文京区千駄木一丁目ほぼ全域にあたる地域に屋敷を構えていたのは、大名・太田家です。武将太田道灌の系譜にあたり、八景十境詩巻作成の際、当主だったのが資宗(1600~1680)・・・」と。道灌から数えて5代目になる。
 詩文には「幕府四葉職役」とあるように彼は江戸幕府初期の重要な役割を担った大名の一人で、遠州浜松城の城主だった。藩主資宗が浜松に滞在していた夏、資宗の子・資次(すけつぐ)の招きに応じ、林羅山の子鷲峰が「駒籠別荘」を訪れ、そこで八景十境を見立て、資宗の依頼に応じて詩文を作成。詩編は1661年までには作成され、その後鷲峰の子・梅洞によって墨書された。
 巻末に「狩野牧心斎安信図之」とあるように、画巻を描いたのは狩野安信で、彼は狩野孝信の三男として京都に生まれた。兄の狩野探幽は江戸狩野の中心となり、安信は狩野宗家の養子となり狩野宗家を継いだ。詩編は寛文元(1661)年に作られたと書かれていることから、絵巻は1662年までの短期間に制作された可能性が高いとされている。
 ということは1662年頃の風景が描かれ、私たちはその頃の風景を目の当たりにするわけだ。本郷台地の東側にある上野台地の方が標高は低かったからこの地から上野の山も海岸線も見えたのだろう。 
                
             

 展示会場で一番最初に目に飛び込んで来たのが、図巻で冒頭に描かれている「東台池島」と題された風景(上の二枚の写真)。私はこの図が一番印象に残った。池は不忍池で島は現在の弁財天が祀られているところか?池の向こうの台地が上野台地だろう。それら全体は現在は上野公園となっている。五重塔も見えているがこれは谷中の五重塔ではなく上野の五重塔だろう。塔の右に見えるのは寛永寺だろうか、などと想像を逞しくした。
 詩文では次の説明文が書かれている。
 「台麓池中小翠塀
  漣漪百頃自清泠
  擘開江介竹生島
  移得君山浮洞庭」
 不忍池を洞庭湖に見立てるのは少し大げさのようにも思えるが・・・。


             

 「士峰積雪」では山脈と雲間の向こうに、雪の富士は神々しく描かれている。我がマンションも本郷台地の上にあるが、晴天の日には屋上から丹沢山脈を前景にしてこの様な風景が見られる。

 十景に描かれた庭園は台地から下る斜面と低地に造られたのだろう。「清徹泉」、「藤岸洞」、「葫蘆洲」、「松杉墩」、「白鳥沼」、「千竿塢」、「百花場」、「古
木林」、「錦楓径」、「翫月亭」と続く。後の世に、屋敷の一部は太田の原、太田の池と呼ばれる池や森などとなり、現在は「千駄木ふれあいの杜」と名付けられた森林となっている。
 ブログの読者の皆さんには来館をしての鑑賞をお勧めする。完全公開は来月の21日まで。入館料は一般で100円だが、65歳以上は無料です。


巻物「八景十境」の完全公開を観る(その1)

2022年02月18日 | 映画・美術・芝居・落語

 巻物「八景十境」は正確には「太田備牧(びぼく)駒籠別荘八景十境詩画巻」のことで、詩巻と画巻からなる二巻の巻物である。江戸時代の大名・太田資宗(すけむね。1600年~1680年)の駒込屋敷(現 文京区千駄木1丁目)からの眺めを「八景」、そして屋敷内の見どころを「十境」としたものである。
 図録には、詩は儒学者・林鷲峰(がほう)により詠まれ、その子梅洞(ばいどう)により墨書され、詩文をもとに制作されたと考えられる画巻は、絵師・狩野安信により描かれた、とある。

 詩巻の全長約6m、画巻の全長約11mからなる長大な作品は文京区の文化財に指定されているが、「文京ふるさと歴史館」の開館30周年を記念して、その全貌が特別展とて完全公開されたのであった。






 実は2020/2/16のブログは「本郷台地の東端を歩く」として、「千駄木ふれあいの杜」について書いていた。太田資宗の駒込屋敷の一部は現在では「千駄木ふれあいの杜」となり、杜の一角にはこの画巻の一部コピーが掲示されて、但し書きには区の指定有形文化財とあった。是非観たいものだとは思ったが叶わぬ願望だった。それがである。完全公開されると知り、これはと思い、勇んで2月10日(木)に観にいったのだった。あの雪の日で、今日ならば観覧者は少ないだろうと推測していたが、案の定、地下1階の会場には他に1名の方がいるのみで、ゆったりと、誰に邪魔されることなく両巻を観巻出来たのだった。


 安政時代の地図に「太田摂津守資巧」と書かれているのが駒込屋敷(白地の部分)で、近くには根津権現もあった。この屋敷の左側が本郷台地で右側が低地部分である。現在では、右端は薮下通りと呼ばれ、北にある塩見坂を上りきると、鴎外の住居だった「観潮楼」(現鴎外記念館)があった。その事からも推測出来るように、台地からの展望は素晴らしかっただろう。ここからの景色としての「八景」には東台池島(現、上野公園)・大洋層瀾(江戸の海岸線方面)・編戸晩煙(江戸市中)・湯島菅祠(湯島天満宮)・士峰積雪(富士山遠望)・武野平遠(武蔵野方面)・筑波岑蔚(つくばしんい 筑波山方面)・隅田長川(隅田川方面)が登場している。(以下次回に)


トムラウシ、遥かなり(その2)

2022年02月11日 | 山旅

 トムラウシ山行の2日目、この日も快晴で、白雲避難小屋からの展望が素晴らしい。忠別岳から五色岳へ長々と続く尾根筋や高根ヶ原などを前景にして、遥か彼方に冠型をしたトムラウシまでが見渡せたのだ。例えるならば尾瀬ヶ原を数倍にしたような風景が展開されていた。
 朝5時にスタート。イワカガミなどの、豊富な高山植物の群落を縫うように快調に歩を進めた。しかし大きな不安があった。この辺一帯はヒグマの生息地なのだ。多くの登山者はスプレーなどの熊対策を用意して入山することだろう。とある大学の山岳部は花火を打ち上げながら進んだとか。私達は鈴以外の用意をしていなかったので、賑やかな6人パーティーのやや後からの行進というズル。(写真:白雲避難小屋から遠くトムラウシ方面を望む)

 ヒサゴ沼までは距離は長いが、ゆったりした尾根コース。前景にトムラウシを望みながらの尾根歩きは爽快だ。尾根は忠別岳(標高1962m)・五色岳(標高1868m)へ経て仮雲岳(標高1954m)へと続くが、その標高が物語るようにアップダウンの少ないコース。先行の6名にやや遅れるように、私達も7時間20分でヒサゴ沼避難小屋着。(写真:五色岳山頂にて。遥かにトムラウシ)
 (16年前はここでもテントを張った。テントの中からヒサゴ沼水面に映る山肌や豊富な残雪が見られた。食事の準備を終え、その日の行程を振り返りながら酌み交わすひと時は別天地に入り込んだ感覚がしたものだった。)

 第3日目 朝起きると辺り一面はガスに覆われていた。ラジオの天気予報は「今日から明日にかけては雨」とのこと。友と相談し、五色ヶ原周辺の散策は断念し、トムラウシ登頂後は一日早めの下山に計画変更。「日本庭園」辺りからは雨が降り出し風も強くなってきた。登るにつれて風は更に強くなり飛ばされそうにもなったが、3時間20分でトムラウシ到着。残念ながら山頂からの展望はゼロだった。(写真:トムラウシ山頂にて)
 トムラウシから一気に高度を下げ「前トム平」でまで来ると雨は止み、風もおさまって来た。天候に煩わされることなく昼食をとったことをはっきり覚えている。しかし、ここからの下りが難儀だった。雨は激しく降りだし、道はぬかるみ、何度か尻もちをついた。地図表示のコースタイムを大幅にオーバー。下山がこんなに長く感じたのは、百名山最終登山だった魚沼駒ヶ岳以来のこと。山頂から「短縮登山口」まで6時間も掛かってしまった。
  疲れ切って下山口に辿り着き、ふと見ると一台の車が停車していた。ずぶ濡れの身、乗車を頼むのは気が引けたが、お願いすると快く乗車させて下さった。明日の登山の入口視察だそうな。車でも20分の距離だったから歩けば2時間は要しただろう。下山後に他力をお願いしたのはこの時が初めてだったが、感謝!感謝!の一幕。
 予定より一日早く着いたトムラウシ温泉・国民宿舎東大雪荘に空き部屋は無く、大部屋での雑魚寝。2日間ここの露天風呂に何回も入り疲れを癒し、帰宅の途についた。
 
 北海道の雄大な自然と荒々しい天候の一端に触れた山行だったと思う。もうあの山に登ることは叶わないだろうが、その麓に抱かれたトムラウシ温泉東大雪荘の湯にはもう一度浸かってみたい。


トムラウシ、遥かなり(その1)

2022年02月04日 | 山旅

 2020年の初めの頃だったと思うが、大学時代の友人H君やM君などが文理学部理学科の同窓会を模索し始めていた。私は数学専攻の仲間の住所やメールアドレスを連絡した。彼らの元には多くの情報が集まり、秋には同窓会を開催しようと盛り上がっていた。しかし、コロナ禍は収まらず無期延期。
 それを残念に感じたM君の提案で2021年の2月には4人がリモートでの“再会”を果たし、これまでの40年間を語り合った。私は主として百名山を登り終えた話した。その後H君からは彼が作成している冊子に登山について投稿して欲しいとの依頼があった。一度は断ったが、再度の依頼に応えて、13年ほど前に書いたブログを参考にしながら、一番印象に残っている、北海道のトムラウシ山について書き記した。写真は新しいものを加え、
その文章をここに綴る。

 『長年の目標の一つだった「日本百名山」を、魚沼駒ケ岳を最終として、登り終えたのは65歳のときだった。その後、「どの山が一番印象に残っていますか」とか「もう一度登りたい山は?」など聞かれる度に、私は躊躇うことなく、「トムラウシ山です」と答えてきた。そう、北海道のほぼ中央に位置し、そこまでのアプローチの非常に長いトムラウシ。岳人憧れの山とも言われるトムラウシ。幸いにも、山の友に恵まれて、私は1991年と2007年の2回、この山の頂に立つことが出来た。1度目の記憶を交えつつ、記録を残しておいた2度目のトムラウシ(標高2141.2m)山行を綴ることとする。

 第1日目 前日、羽田から空路で千歳を経由し、鉄道とバスを乗り継いで辿り着いた旭岳温泉「白雲荘」に岳友と私は一夜を憩い、翌日早朝、大雪山旭岳ロープウェイ乗り場「さんろく駅」へと急いだのだった。
 珍しいことに、この駅ではザックの重量チェックが可能で、岳友は15kg、私は16kg。4日間の食料を自前で用意しなければならないこの山行ではかなり重量制限をした積りだったが、二人とも15kgをオーバーしていた。終点駅「すがたみ」(標高1610m)に着くと、旭岳がはっきりと見上げられた。(写真:旭岳山頂で岳友と)
  最初に目指す旭岳(標高2290.9m)は百名山の一つで、山頂は北海道の標高最高地点。出発点から山頂が見えている登りが私は大好きで、気分爽快にスタートを切った。ただ浅間山に似てガレた砂地で足場が悪い。まだ登山に慣れない体に16kgのザックは脚にも肩にも食い込む。そこで極端に遅いペースで頂上を見ながら、50分歩き10分の休憩といういつものスタイル3本で山頂到達。この日は絶快晴で、旭川方面やこれから向かう大雪山系の雄大な山々が眺められた。
 ここから、この日の宿泊地「白雲岳避難小屋」までは豊富な高山植物や残雪を眺めながらの尾根歩きとなる。目指すトムラウシも遥か彼方に見渡せ、旭岳から3時間半で避難小屋到着。この時期小屋に小屋番はいるが食事は出ない。(写真:裏側からの旭岳。こちらはまだ残雪が)
 (第1回目の山行ではテントを張った。実はその時大失敗をしたのだ。テントの外に出しておいた登山靴が朝見ると無くなり、真っ青になった。直ぐに少し離れたところに放り出されているのを発見し、大事には至らなかった。多分キタキツネが食べようとして咥えていったのだろうが、食べられないことが分かり放棄したのだと思えた。以後の山行で靴はテント内に入れるという教訓は必ず守っている)