マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

源氏香を考察する

2016年11月30日 | 数学

 源氏香では5種類(ここでは、それをAB・C・DEとする)の香を5包み用意し、これを順次5回焚いていくそうな。このゲーム、焚かれた香の名を当てるのではなく、基本的には何番目に焚かれた香と何番目に焚かれた香が同じであったかを当てるゲームである。例えば香が(BBCDD)と焚かれれば、1回目と2回目が同じ香で、4回目と5回目も同じ香だが1・2回目とは違う香で、この焚き方は、予め決められていて、源氏物語第28帖「野分」であり、野分と答えれば正解となる。(写真:野分の図)
 
DEDEC)も(ADADE)もどちらも同じ焚き方と見なされ、第11帖「花散里」との答えが正解。(ABBCC)と(ECCDD)は同じ焚き方で、第18帖「松風」である。(写真:下に花散里図))

 

 
 とすると、異なる焚き方は全部で幾つあるかが問題となる。その答えだけなら既に分かっていて52種類であるが、数的問題としてどうして52なのか?など、私が源氏香を知ったとき興味を抱いた問題は4つある。
(1)
異なる焚き方が52種類あることを数学的に上手く説明出来ないか。
(2)
個々の焚き方を表現する図形で、より上手い方法は他に考えられないのか。
(3)
源氏物語の帖数と焚き方側の順序はどう対応しているのか。
(4)香の数を6・7・・・と増やしていくと異なる焚き方の場合の数はどう変化するのか
 
 まず(1)の問題で、何故52種類かを一つの数式で示すことは出来なかった。そこで、場合分けをしてその総計を求めた。
 (a)
全てが違う香  これを1+1+1+1+1 と表現する。この焚き方は1通り
 
(b)同じ香が2度焚かれた場合。 2+1+1+1 と表現する。この焚き方は10通り(数学記号を持ちれば5C2
 
(c) 同じ香が3度焚かれた場合。 3+1+1 と表現する。この焚き方は10通り(数学記号を用いれば5C3
 
(d) 同じ香が4度焚かれた場合。4+1 と表現する。この焚き方は5通り(数学記号を用いれば5C4
 
(e) 全て同じ香が焚かれた場合。5+0と表現する。この焚き方は1通り。
 
(f) 同じ香(例えばB)が2度焚かれ、更に他の香(例えばC)2度焚かれた場合。2+2+1 と表現する。この焚き方は15通り(数学記号を用いれば 5C2×3C2÷2
 
(g) 同じ香(例えばB)が3度焚かれ、更に他の香(例えばE)が2度焚かれた場合。3+2 と表現する。この焚き方は10通り(数学記号を用いれば5C3×2C2
 
(a)(g)ですべてを尽くしていて、その合計は1+10+10+5+1+15+1052 

 次に(2)の問題。例えば3+2 の一つの第24帖「胡蝶」は(ABAAB)や(EDEED)であるが、図形としてこれを表すと右の漆器に書かれた白い図形となるが、この様に線分のみを用いて表現したのは絶妙と思える。源氏香の基本は、同じ香を横線で結んでいるが、同じ香が2種類登場する場合、その違いは縦棒の高さを違え、横線と縦棒を交差させている。例えば「胡蝶」は〇▽〇〇▽などとも表せるかもしれないが、その表現は図形と言えない。源氏香は後水尾天皇考案の遊びと考えられているらしいが、兎も角、その図形は素晴らしい。右や下の写真のように、家具や衣装にも源氏香が使われている。

 

 
(3)の問題。この52帖を私は(a)から順次(g)まで並べて源氏の帖数に対応させたいが、源氏香ではどのような数学的論理から源氏の帖数と焚き方側とを対応させたかは分からないままである。(今後時間を掛けて考えたい)

 (4)の問題。不勉強ゆえ知らなかったが、ベル数と呼ばれる領域の問題で、例えば次の様な階段状の数列を作る。
    第1段   1
     第2段  1    2
     第3段  2    3    5
     第4段  5    7    10   15
     第5段  15  20  27   37   52
     第6段  52  67  87  114  151  203
    各段の最初の左端の数は、その上段の右端の数と同じ数で、以下どのように作っていくかはこのブログを読まれている方の推理にお任せすることとし、右端の数が焚いた香の数に対応するベル数で、異なる焚き方の数である。6個の香を用意すれば203通りある。6個の香では場合が多すぎ、4個の香では少ない感じがする。5個の香を焚く場合の数は52で、記憶を問うには程よい。源氏物語帖数54にも近似して、具合の良い香の数なのだ。
 『遠い唇』からスタートして、ベル数にまで到着してしまった。

 今日の一葉(東大構内の銀杏)
 


『遠い唇』より「ビスケット」

2016年11月28日 | 読書

 『遠い唇』は読んだ後、妻に回しました。妻は最終章「ビスケット」の謎解きに源氏香が使われたことに触発され、『源氏物語通信No92』に源氏香と「ビスケット」について綴っていました。今回は、そこに登場した文章をそのまま拝借(本人の了解済み)しました。要するに、他人の褌で相撲を取る訳です。 

 <源氏香というものがあります。香道での遊びで、嗅覚だけでなく記憶力も試されます。ご存知の方もおつきあいください。 







  江戸
時代以降のものだそうです
 
1回の勝負において、5種類の香(ABCDE)を5包み用意します。(以下の図で右から1回目・2回目・3回目・4回目・5回目です)
 右図は
帚木 5回とも、違う香を焚きます。右からABCDEです。







 若紫 12回がA34回がB5回がCを焚きます。ABCをそれぞれDEAとしてもよろしいでしょう。






 
初音 例えば1回がB24回がD35回がEを焚きます。







 数学で「組合せ」に属することだそうで、それによると52種類(注1)の組合せがあり、源氏物語54帖に合わせられました。「桐壺」と「夢浮橋」は除きます。
 
デザインとしても面白く、着物の模様等にも使用されています。
 この源氏香を使った推理小説があります。
 作者は、北村薫でデビュー作からずっと読んでいます。心が穏やかになる作品が続いています。その最近発行の『遠い唇』から。
 
 
「ビスケット」
 NHKの『探偵Xからの挑戦状!』シリーズの原作でもあるそうで、だから、この作品中唯一の殺人事件の謎解きです。 
 被害者のダイイングメッセイジが、右手の人差し指、中指、薬指が、三本ぴったりくっついている。親指と小指は左右に開かれ、要するに、≪131≫という恰好になっている。
 被害者は、アメリカ人の客員教授のトリリンさん。「日本語もペラペラで」、「伝統文化ならーーー茶道、華道、香道。なんでも興味を持って」いた。こう書かれていますから、香道→源氏香に繋がるのは、知っている人なら一直線でしょう。被害者発見の前に、関係者はアルファベットのビスケットをつまみながら、お茶をしています。

 
さらに、同僚教授村岡さん・関屋さんから、トリリンさんの語った、ダイイングメッセイジのことが出てきます。Vサインに薬指を立てて≪こうすればWサインだ≫、そしてあの≪131≫の手を見せて、Mだと言ったとも。そして、名探偵が登場し、関係者に竹河さんはいないか?という問いからパソコンがめでたく下記の源氏香図を指摘してくれて、落着です。(右:関屋。下:竹河)

               
 現代は、名探偵の脳の働きを機械が代用する、名探偵が生きにくい時代なのだそうです。
 そういえば、日本の囲碁ソフト戦は、趙名誉名人が21敗で勝たれましたね。>

 数学の「組合せ」から見た源氏香については、(注1)を中心に、次回私が綴ります。数学嫌いな方もおられるかと思いますが、出来ればおつきあい下さい。


『遠い唇』(著:北村薫 出版:角川)を読む

2016年11月26日 | 読書

 北村薫の新作『遠い唇』を読んだ。
 現役時代よりも通うことの多くなった日本教育会館内に付属の図書館があり、利用者は公共図書館よりも遥かに少ないことを知った。文京区などの公立図書館へ『遠い唇』をリクエストしても、人気作家の新作が回ってくるのは相当遅くなることが予想され、この本は「教育図書館」に予約した。1ヶ月を経ずして「本のご用意出来ました」とのメールが届いた。
 北村薫は好きな作家の一人で、作品は殆ど読んでいた。最近の著作では、荒川5中の大島先生から『太宰治の辞書』をお借りしたし、昨年8月には『八月の六日間』の影響を受けたこともあり、北アルプス最奥にある「高天ヶ原温泉」にまで足を延ばしたこともあった。

 新作は7編の短編ミステリーからなる。この短編集でもそうだが、殺人事件は滅多に起こらない。北村作品は、日常生活にひそむ謎から意外な真実が浮かび上がるといった構成が多いと思うが、この作品集も同じで、更には、人生の哀歓を感じさせられることともなる。読後感は爽やかである。7編の短編のなかでは特に表題の「遠い唇」と「ビスケット」を面白く読んだ。

 さて「遠い唇」。冒頭に主人公が紹介される。“分かり切った固有名詞が、時折、出てこない。そのくせ、半世紀近く前に聞いた言葉が、突然、はっきりと浮かんできたりする”とは、私のことではない。この文章から主人公が高齢であることが分かる。北村薫は文章が上手いと思う。
 現在は大学教授の寺脇はコーヒーの香りに誘われて、大学時代に同じサークルにいた長内先輩を思い出します。
 彼女は喫茶店で、ノートに“大學に来て踏む落葉コーヒー欲る”と草田男の句を書いて寺脇に見せたりした、美しい人。
 彼は年上の彼女にほのかな憧れを抱いていました。遠い遠い昔のこと。
 ある日、彼女から暗号めいたものを交えた葉書を貰います。「AB/CDE/FGHI/JKLMK/NMJKCDOの雪・・・・」
意味が解読できないまま卒業。
 やがて先輩が亡くなったという知らせに接します。
 長い時を経て、ふとしたきっかけで、改めて彼女からの葉書を見返しているうちに、寺脇は暗号の意味したことを知るのでした。”・・・・・・読み解いていたら、あの人はどうなっていたのだろう。・・・・・たまらなく、コーヒーが飲みたかった。”で物語は終わります。

 著者北村はインタビューに応えて「ここでは人生の、取返しのつかないことを書こうと思っていました。人生は誤解とか、いろいろあり、そういうものを抱えて人は年をとる。その過酷さを書きたかった」と述べています。『遠い唇』は、私をもそんな思いにさせてくれる作品でした。
 最終章
の「ビスケット」では珍しく殺人事件が起こり、“ダイイングメッセイジ”が残されていました。源氏香が謎ときの中心となりますが、それは次回ブログで。


 


中山道を歩く(浦和宿→大宮宿 5.9Km)

2016年11月24日 | 街道を行く

 115日(土)、朝9時に浦和駅に集合。中山道行の2日目、この日も好天に恵まれた。
 大学時代、浦和⇔北浦和間は、中山道に平行する裏道を毎週の様に歩いていた。教員免許を取得するためには「数学科教育法」などを受講しなくてはならず、在籍した文理学部の校舎と、開講される教育学部浦和校舎間を往復したのだ。新制大学は旧制浦和高校と旧制埼玉師範から成り立ち、“タコ足大学”などと呼ばれていた。 
 浦和の繁華街を抜けると京浜東北線などと立体交差する跨線橋が見えて来た。通学時、北浦和駅下車の際によく見た橋だ。その橋の手前で中山道は与野道と分離する。『浪漫の旅』を熟読すると、この与野道の前には「バンカラ像」が建ち、旧制浦和高校正門があった!この本を読むまでは、我が大学前を通っていた道は中山道と信じていたが、その道は与野道だった。私に小さな衝撃が走った。50年間以上も続く勘違い。良く見かけた跨線橋付近の道こそ中山道の街道筋だった。

 
暫く進むと「六国見(ろっこくみ)」の標識。
 
「中山道は、東海道・日光街道・甲州街道・奥州街道と並ぶ五街道の一つです。中山道と赤山街道が交差するこの辺りには立場茶屋があり、文化2年(1805年)刊の『木曽路名所図会』には<富士・浅間・甲斐・武蔵・下野・上州伊香保などあざやかに見えたり>とあり、関東六国の山々を見渡せる見晴らしのよい名所として知られ「六国見」と呼ばれていました」とあった。




 残念ながら山々は見渡せなかったが、旅を終え暫くして『天保国絵図で辿る 広重・英泉の木曽街道六十九次旅景色』を観た。浦和宿の項は英泉画。
 『六十九次旅景色』浦和宿には次の文章が添えられていた「空晴れたるときは、ここよりも浅間山見ゆる。宿場の画材として英泉も、無難に噴煙を吹き上げる浅間山を取り上げている」と。
 絵に見える土橋は浦和宿にはないので、英泉は目沼代用水の高台に移動して浅間山を描いたのであろうとの推察が続く。 『六十九次旅景色』は最初は英泉が24点を、替わった広重が47点を描いた。そこに登場する山では浅間山が一番多く描かれていたが、最初の一幅が右の”浦和宿 浅間山遠望”である。

 黄葉にはまだ早かったが、昭和初期に植えられた、見事なケヤキの並木は今に残り、並木に導かれるように旧中山道とは分岐して、初期中山道を進んでいった。初期中山道こそ、全長2Kmもの氷川神社への参道。大学時代にもこの参道を歩いたが、こんなにも長い参道であったとは!今回の旅の3大驚きの一つ。両側のケヤキ並木が見事で美しい。
 この近辺では国道17号線・旧中山道・初期中山道の3本の道筋がはしっている。1628年に大宮の氷川神社参道の西側に新たに大宮宿が作られ、中山道は付替えられた。利根川東遷に関わった、関東郡代伊奈忠次による付替え工事で、参勤交代が制度化される7年前のことだ。
 今回の旅では氷川神社には寄らず、ケヤキ並木を歩き、本陣碑を見ただけで先を急いだ。(写真:右が一の鳥居。下はケヤキ並木)

  

  浦和宿付近の地図

 大宮宿付近の地図

 




史跡めぐり「文京区海岸物語」に参加して(その2)

2016年11月22日 | 東京散歩

 このイベント参加者50名のうち私が属した2班は12名構成で、その班のガイド役を務めてくれたのは、ふるさと歴史館の「街歩きガイド」関谷弘子さん。御年は私と同い年くらいか。彼女を先頭に最初の目的地南谷寺(目赤不動)へ向かったのだが、その歩みは軽やかで速く、説明も分かりやすく丁寧だった。動坂遺跡へ向かう前に、南谷寺と徳源院に立ち寄った理由も明らかになって来た。道すがらではなく、敢えてこの二つのお寺は選ばれたのだった。(写真:最初に訪れた南谷寺)



 南谷寺。別名目赤不動と呼ばれている。
 元和年間、万行和尚は下駒込の地(東京都立駒込病院前)に庵を結び、不動明王像を安置した。創建当時「赤目不動」と呼ばれた寺院の不動明王に対する人々の信仰は篤く、多くの参詣者が訪れた。この不動堂の前の坂道は「不動坂」と呼ばれたが、現在は「動坂」と呼ばれている。(南谷寺=目赤不動に安置されている不動明王)

 赤目不動は、寛永年間に鷹狩に訪れた三代将軍・徳川家光の目にとまり、現在の地(本駒込1丁目)に地を与えられて移り、「南谷寺」の寺号を与えられた。その際「赤目不動」と呼ばれていた名を「目赤不動」改称することとなった。赤目不動は不動明王を移されたが、お堂は旧地に残った。
 時を経てお堂下から土器が発見された。


 南谷寺の境内には『赤目不動と呼ばれたお堂を1893(明治26)年に修理中、地下から土器・石器が出土した。人類学者坪井正五郎はその遺物を鑑定し、コロボックル人の使用した土器・石材(打製石器)と鑑定した』旨の碑が建てられている。それ故、まずは南谷寺を訪れたのだ。徳源院にも「太古の碑」として同じ内容の碑が建てられていた。(右写真:目赤不動内の碑)

                   
(碑には”コロボックル”の文字が)          (徳源院には”太古の遺跡”が)

 1974(昭和49)年に動坂遺跡が発見される81年も前に、土器が発見されていたのだ。
 動坂遺跡に回った際に、ガイド関谷さんは、道路隔てた、駒込病院前のお店を指さして「あそこに赤目不動尊はありました」と説明した。明治の遺跡と昭和の動坂遺跡とは繋がっていた。同種の遺跡と推定してよいのではと私も思う。私には新たな発見だった。
 その後、天祖神社・富士神社を見学し、小石川植物園に到着したがが、この二つ神社については何度もブログに登場させたので省略しよう。

 それよりも気になるのは坪井博士が唱えたコロボックル人種説だ。明治時代に書かれた碑に“コロボックル”の文字が刻まれていることは驚きだが、『つくられた縄文時代』(新潮選書)で、著者山田康弘は、「私たち日本人とは何者なのか」という、いわゆる「日本人種論」を語るなかで「コロボックル人」に触れ、概略次の様に紹介している。
 (1)シーボルト(フォン・シーボルトの次男)と同様「石器時代人=アイヌ人」説を唱えたジョン・ミルンは、北海道においては、コロボックル→アイヌ→日本人という人種交代を想定していた。コロボックルは実在の民族で、北方から来た人々と考えていた。(1881年の著作)
 (2)現在においては、コロボックルは石器時代に実在した民族ではなく、コロボックルはアイヌ語で「蕗の葉の下の人」という意味で、あくまでもアイヌの伝説上の人々であったと解釈されている。
 (私にとってはコロボックルは霧ヶ峰付近の山小屋の印象が強烈である。母の実家の檀家寺徳源院にこの様な碑が建てられていたことも驚きだった)