マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

ハラハラ散らぬ 桜かな

2015年03月31日 | 身辺雑記

 昨日の午後、町内会へのチラシ配布の下調べの為、自転車でご近所を回っていたら、ラジオ体操常連のYさんに呼び止められた。「神明公園の桜が、ハラハラ散らずに、椿の様に、ガクごと落ちているのよ。どうしてか分る?」と聞かれた。私に分かるわけがないが、そういう品種の桜もあるだろうと思いながら、「じゃ、神明公園に行ってみますよ」と別れた。後刻、急いでカメラを携え、自転車で5分の神明公園に向かった。

 この公園の一角にある、金網ヘンスで囲まれた場所は、富士前福寿会のペタンク練習場所。馴染みの公園に桜木は5本ある。低地の一本は満開に近いが、Yさんが言った通り、桜葉は一枚一枚散ったのではなく、椿の様にガクごと落ちている(右写真参照)。他の桜木も満開に近いが、こちらは殆ど散ってはいない。その差異はよくわからなかった。

 より詳しく調べようと富士神社と吉祥寺に回った。どちらの桜も満開で、花は微かに散っていた。散り方を調べると、”ハラハラ型”の一葉が多いが、”ボトボト型”の五弁も微かにあった。どちらもありなのだと私は理解した。しかし、ネットで調べると意外なことが書かれていた。


       (神明公園のソメイヨシノ)


     (吉祥寺のソメイヨシノ)

 現象的には椿タイプの”ポトポト型”の散り方が増えていると、幾つか書かれていた。今年は例年に比べて椿型が多いし、異常だという記述も散見された。その原因も大別すると三つあった。
 ①雀が桜にある蜜の味を知ってしまい、蜜を吸われ、食い千切られ桜花は花ごとポトポトと落ちる、との説(朝日新聞デジタル版)
 ②開花後の低温により花のまま落ちることが多い、との説
 ③金沢に住む方からは、原発の影響ではないか、との論

 花の散り方になどに気が回らず、日本酒のコップに花びらが舞い込むだけで浮かれていた身には、吃驚する問題提起だった。
 果たして、桜の散り方で椿型は本当に増えているのか、今後のデーター蓄積に待ちたいと思う。もしそうだとして、その原因は何だろう。同じ場所内にある桜に差が出ることまで説明出来る説を期待したい。
 桜はハラハラと散ってほしいし、桜吹雪は見てみたい。

 今日の一葉:色鮮やかな東京スカイツリー:自宅ベランダから撮影


東大本郷キャンパス内で花見

2015年03月29日 | 身辺雑記

 花の季節が巡って来た。27日(金)の午後の気温上昇の影響で、開花が一気に進み、昨日は土曜日ともあって都内各地は花見客で賑わったようだ。
 妻が講師を担う「源氏の会」は、午前中が地域活動センターでの『伊勢物語』のお話会。午後が花見散策と花見の宴。
 花見”実行委員長”の私としては、今年は何処で宴を張ろうか迷っていた。過去は、活動センターから近い、六義園・染井霊園・小石川植物園・播磨坂に出向いた。近場はあと飛鳥山公園くらいしか残っていないと思い込んでいたが、東博の裏庭は、宴は張れないが、花を愛でるにも相応しい場所と思い至り、前日の27日に、自転車で、自宅→東大→旧岩崎庭園→不忍池→上野のお山→東博と回って実踏して来た。
 上野の山の桜はまだ5分咲き。満開ではなかったが、人で満杯だった。不忍通りをはさんで喧噪と静寂とにくっきりと分かれていた。わけても、こちら側の東大キャンパス内にある、医学部前の「健康と医学の博物館」脇の一角は、ことのほか静かで、一組が花見をし、シートも一つ張られていた。加州大聖寺藩の江戸上屋敷跡地で、穴場的雰囲気濃厚の存在。”花見はここだ”と決めて実踏を終えた。

 27日(土)早朝5時50分発で、シート張に向かった。7時にならないと開門しない門が多いが「龍岡門」は東大病院への入り口。深夜でも開いているはずと見込んでの出発。やはり開いていた。
 ここで3組目のシートを張り終えた。他は例えば「人工臓器移植外科」や「バイオエンジニアリング専攻」などいかにも東大の医師や学生たち。私は心置きなく、用意しておいた『源氏物語の会 花見の宴席』を張り終え、帰宅した。



    (加州大聖寺藩上屋敷の跡地に建つ碑)

 午前10時半に『伊勢物語』を中座し、かねて注文しておいた「おつな寿司」のお弁当と「とり多津」の唐揚を手に入れ、東大農学部前で一行10名と合流。
 上野博士とハチ公像→正門→安田講堂→宴会場→鉄門→無縁坂→旧岩崎庭園→不忍池→清水観音堂→上野のお山→東博裏庭と廻った。

 大聖寺上屋敷跡地での花見は大好評だった。花は7分咲き。外部からは全く見えない。こちらはやや高台にあるので、下の通りはよく見える、という環境。日本酒は〆張鶴、ワインは井筒の赤。日頃に比べ皆口が軽くなり、和気藹々と、宴会は大成功
。費用はお一人1400円で終わった。





 不忍池から上野のお山への階段を上ると、そこは「清水観音堂」。「名所江戸百景」の中で、広重はこの舞台から、松の向うに不忍池を描いた。それに因んで観音堂の前に人工的に円形の”月の松”を造り、3年前に”除幕式”を行ったことがあった。私はその前日に”月の松”を撮影しブログ(12/12/13)に載せたところ、朝日テレビの「やじうまテレビ」からその写真を使わせてほしいとのコメントが来た。コメントを読むのが遅れたためOKサインは出せなかったが、私に不満はなかった。その松を皆さんに紹介し、皆さんはこれを舞台から眺めた。



 上野の山は通行が困難なほどの賑わい。何とか通り抜け東博裏庭へ。お山に比べて静かな雰囲気の中、桜のみならず、春の草木を鑑賞し、今年の、源氏の会の花見は終了。満足度高かった。





     (東博の裏庭に咲く垂れ)

 今日の一葉:枝垂れの背後に、前日が上弦だった月:28日夜、六義園で撮影


文旦とたんかんと

2015年03月26日 | 身辺雑記

 南国から、花より先に春の香り豊かな果物が届いた。
 2月には南国四万十の文旦が、3月はじめには屋久島発のたんかんが。箱詰めの多量なので、よく食し、お裾分けなどしてもまだ食べ切れていない。(大ぶりの皿の上。左文旦、右がたんかん)









 元生徒のヨツヱちゃんの夫さんの実家が鹿児島。屋久島は鹿児島県に属している。詳しくは知らないがその繋がりから、毎年屋久島からたんかんが送られてくる。姿形や色艶はミカンに似て、ミカンよりは大振り。甘い、実に甘い。一度食べたらその味の虜になってしまうと思う。我が家では右の写真のように「くし切り」で食しているが、残念ながら皮を有効利用はしていない。







 文旦は35年の長きにわたって味わっている。チエさんには我が家からは手作りの味噌を進呈し、チエさんからはそのお返しに文旦が送られてくる。その一方、高知に実家のあるチエさんは文旦注文の総元締となって、多分100軒分くらいの注文をまとめて四万十へ一括注文している。我が家はその一員だが、我が家でも注文を15軒分ほどまとめてチエさんに連絡している。ここの文旦は、非常に大きい。形や色はグレープフルーツに似ているが、味は格別に美味。一度注文すると必ずリピーターとなってしまうほどの人気商品だ。

 食した後の皮がまた美味しい。皮をピールにしている。食した皮を小片に切り、鍋で長時間弱火で溶かしつつ煮詰める。そこへ、三回に分けてグラニュー糖をまぶす。ここからが私の出番となる。鍋に蓋をしたまま、鍋を200回は振る。これを15回は繰り返し、漸く終了。兎も角腕が痛くなるほど振るのである。22日(日)の作業終了は午前1時半。翌朝のラジオ体操は辛かった。ピールは皿に乗せて今は乾燥させているが、ついつまみ食いをしてしまう。




 今日の一葉:5分咲きの、六義園の枝垂れ。25日夜撮影
 


大相撲珍プレイ(取り直し3回の激闘など)

2015年03月24日 | スポーツ

 小学生の頃はラジオにかじり付くように聞いていた。その後白黒テレビとなり、カラーテレビを経て、今デジタル放送で大相撲を観戦しているが、65年来の相撲ファンである。栃錦対若乃花、大鵬対柏戸など数々の熱戦に、手に汗握ってきたが、忘れることの出来ない珍しい取組をも見聞してきた。3回も連続して取り直しとなった一番や不浄負け、それに引き分けについて記しておきたい。 

 ①物言い3回。1988年夏場所の初日。その時の前頭7枚目霧島(現陸奥親方)対前頭8枚目水戸泉(現錦戸親方)戦を私は自宅で観戦していた。最初の一番は霧島がうっちゃったが物言いついて同体と見なされ取り直し。取り直し戦(その1)は水戸泉がうっちゃるも同体で取り直し。次の取り直し戦(その2)は霧島がうっちゃるもこれまた同体と見なされ取り直し。次の取り直し戦(その3)は又も霧島がうっちゃり。微妙な、物言いがついてもいい一番の様に私には見えたが、この頃になると、勝負審判もうんざりしたのか、物言いはなし。結局4番取って、水戸泉の寄り倒しに軍配が上がった。どの一番も四つ相撲。時に吊り合いもある力勝負で見応えがあった。「霧島対水戸泉」で検索すると、その時の様子がYoutoubeで観られるという便利な世の中になったものだと思う。https://www.youtube.com/watch?v=8p-FBRKfXyA 



 ②不浄負け。力士の一物が露呈してしまうとその力士の反則負け。ある人とこの話題になったとき彼は「それは恥ずかし負けでしょう」と言ったが、さにあらず。反則負けである。そんなこと起こるわけないと思われるが実際にあった。この一番私、放送時間帯ではなかったのか見ていない。Wikipediaにはこうある。
 『2000年5月13日の三段目の取組、朝ノ霧対千代白鵬で朝ノ霧が負けているケースが戦後唯一で、これは83年ぶりの珍事であったために日本国内だけでなく海外にも打電されニュースになった。同年5月14日発売の日刊スポーツ一面では、この不浄負けを東京地区スポーツ紙5紙の中では唯一一面で起用。「決まり手はモロ出し」と見出しを打った上で、審判委員たちの「見えてる!見えてる!!」の叫びを赤明朝体文字で大きさを変えて載せるなど、この日の日刊スポーツの売切店が多数あった程強烈なインパクトを残した』とある。
 恥ずかし負け、モロだし(もろ差しをもじった)などの表現は、雰囲気は伝わるが正式名は不浄負け。

 ③引き分け。これは現在でも可能な結末だが、1979年以来起こっていない。水入りの大相撲の後も、両者がっぷりマワシを引き合い、そのまま時間が経過すれば、両者とも疲労困憊となるはず。そこで二番後取り直しとなるが、取り直し戦でも
、水が入り、なおかつその後も動きがなくなったときに引分となる。1979年の三重ノ海対二子岳の一番以降引分は一度も出ていない。1955(昭和30)年秋場所11日目千代対若乃花戦が引き分けとなった取組に要した合計時間は17分15秒だったそうな。
 その当時は、現在よりもガップリ四つになる相撲が多く、水入りも多かった。照冨士対逸ノ城の水入りを観て昔を懐かしんでいる。

(付記:今場所、大相撲解説者として豊真将(立田川親方)がデビューした。意外に男前で、聞きやすい解説だったので一安心)

 今日の一葉:19日よりライトアップが始まった六義園の枝垂れ桜。咲き始め。22日写す。
 
 


大相撲優勝決定戦が5人で争われた日(プレイオフ考 その2)

2015年03月22日 | スポーツ

 大相撲が終わってしまった。終わってみればまたしても白鵬の優勝だったが、千秋楽の結びの一番まで優勝決定戦(プレイオフ)の可能性があるという理想的な展開だった。春場所千秋楽結びの一番は、37代木村庄之助(青森県出身)の引退の一番でもあったが、久しぶりに興奮した。
 優勝が13日目に決定しないで本当に良かった。この日、白鵬に勝った照冨士が殊勲賞(敢闘賞とのダブル受賞)は当然であろう。(私は白鵬は嫌いではないが・・・)
 この7場所、優勝決定戦から遠ざかっている。私が待ち望んでいる「巴戦」など望むべくもないが、かっては5人で争われたこともあったのだ。優勝決定戦への期待を込めて、ここでは4人以上での過去の例を思い起こしておきたい。

 1997年3月場所は、12勝3敗の魁皇・貴乃花・武蔵丸・曙の4人による決定戦。大相撲放送で「なにわの名勝負」として紹介されていた。トーナメント戦で争われ、一回戦(魁皇●ー○貴乃花)、(武蔵丸●ー○曙)。 決定戦は(貴乃花○ー●曙)で貴乃花の優勝

 1996年の11月場所は、11勝4敗の5人で争われた。
    一回戦 (若乃花●ー○武蔵丸)、(貴ノ浪○ー●魁皇) (曙は不戦勝) 
 巴戦が(武蔵丸○ー●曙)、(貴ノ浪●ー○武蔵丸)の結果、2連勝した武蔵丸が優勝。
 私はこれを、板橋区の、とある銭湯で観ていた。この頃、私はマラソンに熱を入れていて、高島平に住む妹夫妻もその一員の3F会のメンバーと共に、あちこちのマラソン大会に参加していた。この時は多分、光が丘グランドがスタート・ゴールのフルマラソンだったかと。その帰路の、汗を流した折りに観たのだった。本割終了後に4番も見られ、場内の観客も大喜びだっただろうが、テレビ観戦の私もラッキーとの思いで観戦した覚えがある。

 5人の場合は3人に絞っての巴戦。その可能性はあってもそんなことは実現しないだろうが6人以上の場合はどうなるか調べると、これが面白い。
 6人→3人に絞り→巴戦
 7人・8人→トーナメメント戦
 9人→5人に絞り→3人に絞り→巴戦
 10人→5人に絞り→3人に絞り→巴戦
 11人→6人に絞り→3人に絞り→巴戦
 12人→6人に絞り→3人に絞り→巴戦
 要するに12人以下の場合、2・4・7・8人がトーナメント戦で、他はすべて巴戦へと収斂していく。

 これを数学上の問題にまとめられることに気が付いた。
  まとめ
 Nを4以上の整数として、
 『整数Nが偶数ならば2で割り、奇数ならば1を加え2で割った数をMとする。Mが4以上の場合これを繰り返す。その最終結果が3で終わるようなNは巴戦、2で終わるようなNはトーナメント戦、となる』

 今日の一葉:ご近所の定泉寺の深山含笑