マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「走り湯」から伊豆山神社へ

2018年05月30日 | 

 今回の「熱海伊豆山」への旅では初めて「走り湯」を見学し、そこから伊豆山神社に詣でた。参道の途中には右写真の「階段図」が掲げられていて撮影をした。一種の断面図で、伊豆山近辺の道路の様子を説明するには恰好の写真である。
 Aは海抜0mの伊豆山浜で、車で東京方面から下田方面へと向かう時に良く利用する「熱海ビーチライン」が通っている。
 BにはA地点から階段数16段上で、ここに「走り湯」がある。
 Cには熱海からハーヴェストを通り湯河原へと抜ける国道135号線が通っている。
 Dは熱海市々道。初日にお刺身を買った「魚久」はこのそばにあった。
 Eに伊豆山神社がある。



 私はC地点まで一人で散歩にやって来るが「走り湯」を見にいったことが無かったので、5月22日(火)の散歩では、まずはC地点からA地点まで下って「走り湯」を見学した。

 C地点より220段ほど下ると走り湯で、朝早く一人洞窟の中に入っていった。もうもうと立ち込める湯気で眼鏡が曇ったが、辛うじて熱湯が湧き出すところが見られた。洞窟から出てきてこの湯の謂れを読む。






 
「走り湯」は今から1300年前の720年に修験道の行者役小角により発見され、『吾妻鏡』には愛媛の道後温泉・兵庫の有馬温泉と共に、日本三大古泉として紹介されているそうな。山腹から滝の様に海に流れ出した横穴式の源泉。それが「走り湯」の由来で、頼朝・政子もこの湯に浸かった後に伊豆山神社に参拝したとも書かれていて、本当かどうかは疑わしいが、私も同じ体験をしようと思い、神社に向った。 

 
階段数にして837段。標高差150m弱か。D地点まで600段ほど上がって来て、かなり足が重くなってきたが、あとひと踏ん張りと、一気に上った。陽はすでに天空にあり、相模湾がひろびろと広がっていた。
 伊豆山神社の説明版には栄枯盛衰が書かれていた。
 伊豆に配流された頼朝は源家再興を伊豆権現に祈願。征夷大将軍となった後は関東鎮護の権威を与え、最盛期には三千八百名の僧兵を擁した。
 しかし、秀吉の小田原攻めの際、神社は北条氏に味方し、1590(天正18)年、全山焼き討ちにされ、多くの僧兵が命を落とし、伊豆山
は3日3晩燃え続けた。


 家康により復興された伊豆権現は、江戸時代には12の僧房と7つの修験坊を有する繁栄を取り戻した。
 往時を偲ぶよすがは無いが、本殿にお参りし
「頼朝政子の桜小路」を散策してから下山した。静寂に包まれ森閑とした神社詣は森林浴にもなった。


無料の「踊り子号」

2018年05月27日 | 

 三島から修善寺方面へと延びている鉄道の名前を駿豆(すんず)線と呼ぶことは今回の旅行で初めて知った。実はこの線に過去に2度乗車していた。最初は1967(昭和42)年3月の、大学の卒業旅行で、7人の友との観光旅行だった。もう一度が2014(平成26)年、山仲間との天城縦走からの帰路に利用した。いずれの旅行でも天城トンネルを潜らずにトンネルの上を越えて行った。5月19日(土)に放映された「ブラタモリ」で、タモリ一行は天城トンネルを潜っていたが。

 その駿豆線の時刻表を調べていた時に、「無料の踊り子号」が一日に2本走っていることを知り、鉄道マニアの、指圧をお願いしている水野さんに話した。まさか知らないだろうと思っていたが先刻ご存知で、「東海道線から駿豆線に乗り入れる為に三島駅のホームは少し抉れているのです」と教えてくれた。そのことは今回の旅行で是非確かめようと考えていた。

 9時丁度に東京を出発した踊り子105号は熱海で、下田へと向かう「特急踊り子105号(10両編成)」と修善寺へ向かう「私鉄無料特急105号(5両編成)」に分離する。後者は東海道線の熱海→三島間の特急料金と指定席は有料だが、三島から先の特急代金は無料なのである。通勤・通学客への配慮なのか、観光客を多く受け入れたい鉄道会社の思惑なのかは知らない。
 ともかく、無料で踊り子号に乗車したいとの思いよりも物珍しさに惹かれて、5月21日(月)10時過ぎに三島の駅の4番線ホームで踊り子号の到着を待っていた。
 その間に「抉れているホーム」を見にいった。まずホーム下の線路配置を見た。右写真の如く線路は沼津方面を走れるような線路配置になっている。その辺りのホームをしかと見ると、抉れているではないか。こうしておかないと5両編成の最後尾の車両がホームに当たってしまうことが理解出来た。あえて、線路工事に携わる人に、抉れている理由を聞くと、水野さんの話の通りだった。







 
待つこと数分で踊り子号到着。先頭に乗車し、発車寸前の一瞬に、線路配置を見ると右写真に見る如く、列車が駿豆線方向に進める様に配置が変えられていた。
 
まさに”ミクロ”の世界であるが、こういう細かいことに拘るのは私の性質だと思っている。旅が面白さを増すときでもある。


願成就院へ(その1・女性の副住職)

2018年05月24日 | 仏像

 願成就院は、三島と修善寺を結ぶ[伊豆箱根鉄道]駿豆(すんず)線沿線の、韮山と伊豆長岡の中間辺りに位置する、高野山真言宗の寺院で、運慶作の国宝仏を5体所蔵している。昨年東博で開催された運慶展でその事を知った私達は、いつかはこのお寺を訪ねたいと思っていた。熱海伊豆山から2時間ほどの距離に宿泊していて、訪れるには絶好の機会だった。運慶展では展示されていなかった阿弥陀如来坐像を是非とも拝観したかった。


 
5月21日(月)朝、ネットで願成就院の休館日が火・水曜日であることを知って、22日(火)に行く予定を慌てて21日に変更し、熱海10時16分発静岡行を三島で乗り換え、無料の踊り子105号で伊豆長岡着10時55分着。途中鎌倉古道を歩きながら願成就院へ。




 
かつては広大な伽藍と敷地を誇ったであろう寺院も今は小院となっていた。守山の新緑を借景にして本堂の佇まいが美しい。拝観券を販売する人が、目の青い、作務衣を着た外国人であることを不思議に思いながら、本堂の扉を開けるといきなり阿弥陀如来坐像が飛び込んで来た。身の引き締まるような感覚。展覧会会場での拝観とは異なる感覚だった。

 本堂には如来像の両脇に毘沙門天立像と不動明王立像。不動明王立像の直ぐ傍に制吒迦童子(せいたかどうじ)像と矜羯羅童子(こんがらどうじ)像。全て国宝の5体がこの本堂内におわします。椅子席が用意されていて座ってじっくりと拝観した。妻は最近購入した双眼鏡を取り出しての拝観。
 隣での熱心な説明を終了した作務衣の女性が、次に私達に説明を始めてくれた。「随分熱心にご覧になっていましたね。どこでこのお寺を知りましたか」と尋ねられ「昨年の東博です」の切っ掛けが後に続く長い会話の始まりだった。


 彼女は概略こう説明してくれた。
 「運慶仏の第1号が奈良・円成寺の大日如来坐像(1176年)、次が興福寺の西金堂本尊の釈迦如来像(仏頭 1186年)で、第3号がここの阿弥陀如来坐像などの5体(1186年に制作開始)です。すでに建設されていた北条時政邸で制作された可能性が高い。東国における最初の造像です」と。弁舌爽やかに、滔々と語る口調に感心し、その事を絶賛すると「修行でお腹の底から声を出しているからでしょうか」と。修行の身と聞いて、私達は「御出家なさっているのですか」と聞き返した。「はい、住職の次女で副住職です」と。(写真:東博図録の参考図の阿弥陀如来坐像)
 その後、彼女の海外生活・廃仏毀釈・半蔵門ミュージアムなどなどにも話が及び、不思議な外国人についても「あの方は運慶仏に惹かれて、こちらのお寺様での修行に入られたのですか」と聞くと
やや躊躇った後「いえ、彼は私の夫で、アイルランド出身のイギリス人です」と。(私に惹かれて日本にまでやってきたのです、とは語らなかったが・・・)。「その事は毎日新聞にも載りました」聞いて早速、4月2日の朝刊静岡版を注文したのだった。

 


熱海伊豆山へ

2018年05月21日 | 

 昨日から、ハーヴェストクラブ熱海伊豆山に滞在している。今回は運よく2連泊の予約が取れたので、ここを基点にした、時間的に余裕ある旅行計画を作った。
 第一日目は茅ヶ崎で下車し、相模線を利用して、湘南地方に残された唯一の酒蔵「天青」と、そこの提供する創作料理を。二日目はMOA美術館の「岩佐又兵衛 浄瑠璃物語」展へ。最終日には、運慶作の国宝仏を所蔵する願成就院へ、という計画。
 し
かし、レストラン天青の食事は妻の喉には合わなそうでしかも高値。という訳で計画を一部手直した上で、昨日、駒込駅を9時34分にスタートし、上野経由「上野・東京ライン」で小田原へ直行、11時27分着。

 「天青」の代案として考えていた、駅そばの「サカナキュイジーヌ・リョウ」へ。11時半開店の魚料理のお店前には既に行列が出来ていた。待っている間に店頭を見ると右看板。海外の旅行者の評価が高い「エクセレンス認証」のお店でした。(写真下は賑わう店内)




 小田原は漁港を持つ城下町。美味い魚料理を手頃な値段で提供するお店が多いと聞いていた。その一つのお店に当たったようで大正解。新鮮な魚に満足し熱海へ。(写真:お刺身定食)












 この日の夕食は部屋食を予定していた。そこで伊豆山神社のそばにある「魚久」まで買い出しに。このお店の事は妹から聞いていた。ハーヴェストに宿泊の客が玄関先で「魚久」の出前を受け取ることがあるそうな。ネットで調べると良さそうなお店だが、出前を宿泊先の玄関前まで持ってきてもらうのは私の美学に反するので、買い出しにいった。(写真:買い物途中で。遥かに、微かに見えるは大島)

 お店はハーヴェストより標高にして85mほど高いところに位置するが、坂歩きは慣れている積りの私は徒歩で出掛けて行った。30分ほどでお店着。刺身盛り合わせを造ってもらい、それらを夕食にした。地魚中心の刺身が美味だった。


千川上水の”水道”(その1)

2018年05月17日 | 江戸の川・東京の川

 3月28日(水)のお話会では、「六義園の水の出入りと海老床地図」との話をする機会を得た。江戸時代、柳沢邸屋敷の回遊式庭園の中心に位置した大泉水には千川上水からの水が引かれ、そこからの排水は、現在の我が家の裏あたりを流れ、最終的には小石川と合流し神田川に注いでいた、という内容の話だった。
 千川上水に付いては、玉川上水からの分水点境橋を出発点とし、現在の千川上水公園(=掘割)までの、開渠部分についての話が中心だった。掘割から先の地中に埋設された“水道”部分については六義園までで話を終えて、殆ど語らなかったに等しい。
 実はその後色々と調べると、地下を木樋(時に竹樋)で流れていった水道部分にこそ千川上水の真の目的があったことを知らされた。手元にある『千川上水三百年の謎を追う』(著:大松騏一 出版:東銀座出版社)には、千川上水が必要とされた目的が書かれ、『正徳末期の上水図』が記載されている。
 「千川水道」という言葉で掘割から下流の木樋部分を表すことにし、『謎を追う』に導かれながら、千川水道の全体像を紹介したい。今日のブログでは、千川上水の目的を明らかにし、千川水道の全体像を示しておきたい。地図は、本文中の「給水先概略図(元禄~享保期)が見易いのでこちらを用いることにし、下に掲げる。『正徳末期の上水図』は最下段に。
 
 千川上水が開削された1696年には、江戸城下には、既に神田・玉川・青山・三田が巡らされ、人々の暮らしを支えていた。何故新しい上水が必要とされたのか?『江戸上水在絶略記』には概略次の様に伝えている。
 「
初めは、小石川御殿・湯島聖堂・東叡山・浅草御殿への上水である。多摩郡保谷村から玉川上水を引き、巣鴨村まで五里五十四町を堀り割り、庚申塚通りから本郷・湯島・浅草へかかる。仙川村の太兵衛、徳兵衛に開発を仰せ付けられ、仙の字を改めて千川として、両人の姓に賜る」と。

 千川上水開設の第一の目的は幕府にとって重要な施設への給水だった。その地域一円の人々の飲料水に供給されるのは後年のことだった。
 (
A)白山御殿は綱吉公の別荘。現在の小石川公園。
   (B)東叡山は上野寛永寺。江戸城の鬼門に建てられた徳川家の菩提寺。子院三十六坊を数えた大伽藍だった。
 (C)湯島聖堂は孔子を祀る聖堂。綱吉が湯島に移し、幕府の学問所として拡充した。
 (D)浅草寺は「あさくさの観音様」で当時は幕府の祈願所があった。
 (E)六義園については『略記』は触れていない。柳沢吉保にこの地が与えられたのは1695年で、上水が作られた1年前。西巣鴨の元桝から流れ出た上水ののど首をおさえる位置にあり、綱吉お成り御殿が築かれていた。私見だが、ここへの給水も同時に開始されたと思われる。

 千川上水の地図は「東京市史稿上水篇第一」に載っている。お話会で私は「東京都水道歴史館」発行の『玉川上水』を用いたが、千川上水が対象ではないこともあり、千川水道については線が細く見易くはなかった。そこで『謎を追う』から借用した。
 下の
地図には白山御殿への水道は書かれていない。東叡山までは水道は途中で途絶えている、など不可思議に思える点もあるが、それら個別部分については、暫く時を置くことがあるが、今後順次記していきたい。