マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

第3回中山道行 和田峠を越える

2019年02月27日 | 

 昨年の中山道行で和田峠(標高1600m)を越えたのは、3ヶ月以上も前の11月4日(日)だった。
 その前日の3日(文化の日)の14時頃には宿泊予定の民宿「みや」に到着し、荷物を預け身軽となって、そこから和田宿まで歩いた。「みや」のHPを見ると、「当民宿は長久保宿と和田宿の中間に位置し、我が宿より先に宿はありません。食事が出来るお店もありません」なる主旨が書かれていた。必然的に「みや」に宿泊することとなり、前日のうちに和田宿まで6Kmほどを歩いておき、車で迎えに来てもらったのだ。道筋にはコンビニも無ければ営業をしているお店もなかった。

 4日、早目の朝食をとり、用意してもらった昼食(おにぎり)をザックに詰め、宿発7時の車で和田宿まで送ってもらった。大変親切な民宿だった。(写真:和田宿本陣跡)








 和田宿は江戸時代には峠越えの旅人の往来で賑わったことだろう。しかし今その面影は殆ど残っていない。無人の里といった佇まい。和田宿から和田峠を越えて下諏訪までは22Km。気を引き締めて標高差600mはある和田峠を目指して、登山の心積もりで和田宿を7時30分には出発した。




 歩み行く道は緩い勾配の山道で、所々には往時を偲ばせる石碑が残り、紅葉も残っていて目を楽しませてくれたが、日没前までには下諏訪宿に着きたい一心で、ゆったりと遺跡を味わう心の余裕はなかった。

  

 最初に到達したのは唐沢一里塚。ここの一里塚は日本橋から数えて51番目の一里塚。概算で江戸から204Km(51×4)の地点。和田宿⇔下諏訪宿だけで6つの一里塚と書かれていて、その間の距離の長さを改めて思い知らされた。






 三十三体観音を過ぎる辺りからビーナスラインが見え始めた。











 遂には中山道はそのラインによって寸断され始め、コルゲート管を潜ることともなった。かつてはビーナスラインを「中山道」の看板を見ながら車で通り過ぎた。何度となく通過していった地点を複雑な思いで越えると程なく和田峠に到着した。和田宿を出てから4時間30分。(写真:この隧道の上をビーナスラインが通っている)





 そこは「古峠」と書かれていた。江戸時代、大名の参勤交代だけでなく一般の旅人の人馬で賑わった峠も明治時代に作られた新道によって急速に利用者は激減していったそうな。展望は得られなかったが一つの目標点に達し菅原さんも熊倉さんも満足そうだった。
 
 
 
 
 
 
 


自転車専用レーンが増設されていた

2019年02月25日 | 身辺雑記

 文京区の自動車道路の一部に自転車専用通行帯(以下自転車専用レーン)が完成してからもう9年が経っていた。東大農学部前の追分から地下鉄千石駅前までの1.2Kmで、旧中山道上に作られた(右図青い線)。国道上のものとしては都内で初めてのものだった。







 自転車利用の多い私は、嬉しくなって早速試乗したのだが、使い勝手は悪かった。レーン上に車が停車し道を塞いでいる場合が多いのだ。それを避けようとしてもガードレールで歩道側に回り込めない場合には嫌でも自動車道路を行かねばならない。一時停止して車の流れを見なければならないし、車に接近し過ぎて怖い面もあった。
 区役所に電話して実情を話すと「レーン上に駐車は禁止だが一時停車は可」とのこと。荷物を下ろすなど一時停車する必要性は理解できた。結局、自転車専用レーンは利用することは稀で、私の関心は薄れていったのだが・・・。




 数日前の散歩途上で旧中山道上以外の場所にレーンが作られていることを初めて知った。随分前から出来ていたのかも知れない。千石駅前付近から東洋大学西門前までの都道301号線(白山道路。上の図ピンクの線)
上に専用レーンが出来ていた。更に先の白山下へと延びる工事を予告する看板もあった。(写真:東洋大付近)







 
更にはその専用レーンの脇には白線で、右図の様な長方形が書かれていた。これは自転車専用レーンに停めるのを避けるための代替停車ゾーンで、自転車専用レーンに改良が見られたかと思えた。












 昨日の散歩でその近辺を歩いた。長方形の白線は自転車専用レーンが改善されたかと思えたが違った。付近に料金支払い機が設置されていて有料の駐車ゾーンだった。これでは自転車専用レーンに有効には働かないと思えた。(料金は60分300円)
 文京区や都区内で自転車専用レーンの整備はかなり進んでいるらしい。








 実は私は、朝は散歩が中心だが、昼間は自転車利用が多い。毎週、火曜日と木曜日は自宅→後楽園(ボウリング)→茗荷谷(勤務)→自宅と一筆書きの自転車走行。台東区や豊島区の図書館へも自転車利用が頻繁。区内全域で使い勝手の良い自転車専用レーンが増設されて欲しい。
 抜本的には、
人と自動車と自転車の三者が快適に共存出来るような道路の建設が必要だ。現状では人に迷惑を掛ける自転車走行が多々見られるが、都内のどこへでもサイクリング気分で行ける独立した自転車道路が整備されれば自転車運転の楽しさが増すはずだ。
 
 
 


境界線の十字路”✜”を捜しに

2019年02月23日 | 身辺雑記

 文京区の境界線を歩く前に地図を眺めて残念!と思ったことがあった。右の地図に見るごとく、4つの区、文京区・北区・荒川区・台東区は一点Tを共有しているのではないかと一瞬見えるのだが、良く見ると4区は一点を共有してはいない。(北区と台東区は接していない)









 文京区に三国坂と名付けられた、霊雲寺から湯島方面から下る坂がある。その坂を下りきった三国坂下付近は、文京区・台東区・千代田区が一点(図のT点)を共有し、その境界線はT字をなしている。これに代表されるように一般に三つの区は一点を共有する場合が多い。境界線はT字をなしているが、四つの区が一点を共有することは稀らしい。
 区の境界線のみならず、県や国の境界線も含めて4つの境界線が一点で交わる点を十字路(✜と書く)と名付け、各種の地図上で✜を捜す”旅”に出た。都内地図でも都道府県地図でも✜を見つけることは出来なかったが、世界地図上で1つ✜を見つけた思えたのだが・・・。

 今日のブログは地図上と文京区内を彷徨った結果を綴る。
 東京都は23区のみならず市まで含めてその境界線上で
✜は見つけられなかった。それらしく見える点はすべてT字をなしていた。県境はどうかと『ワイドアトラス日本地図帳』を眺めたがそこにも✜は無かった。惜しいと思えたのが、甲武信岳付近。この山は甲州(山梨県)・武州(埼玉県)・信州(長野県)の三つの国の上にあるので、各県から一字を取って甲武信岳と名付けられたと言われ、3県の上にはある。群馬県の境はすぐ傍まで伸びているが甲武信岳山頂とは僅かに離れていた。要するに✜をなしてはいない。
 世界地図『ワイドアトラス世界地図帳』を見ると中央アジアに惜しい点が存在した。ロシア・中国・モンゴル・カザフスタンの国境線だ。しかし良く見るとは✜ではなく、T字をなしている点2つが接近しているに過ぎなかった。カザフスタンとモンゴルは国境を共有していない。

 世界地図上✜と見える点が存在した。アフリカ南部のザンビア・ジンバブエ・ボツワナ・ナミビアの4ヶ国の国境線は一点で交わるかに見えた(右図)。しかしネットで詳しく調べるとT字点が2つ(T1とT2)つあり、ナミビアとジンバブエの国境は接していない(下図参照。黒い線が国境)



        
 現在のところ区境より広い領域の境界線上で✜は発見出来ないでいる。ご存知の方がいたらご教授下さい。

 より狭い領域ではどうかと文京区内を調べた。数日前の散歩途上で✜を発見した。右図「文京区広域案内図」に✜(T点と表示)があった。
 より詳しい図もあった。文京区内の住所掲示板は処により下図の如く色分けがされている。白山・千石・大塚・小石川の4つの町は一点で交差し、境界線は✜をなしていた(下図参照)。


  
 
 町より狭い領域の丁目の境界線上には✜は多数ある。それは道路が丁目を分けていることが多いからだ。
 
 


 


輪投げ大会で惨敗

2019年02月21日 | 文高連

 実は昨年の夏に行われた、文高連第32回輪投げ大会で、私達富士前福寿会は3位に終わり、連続優勝は4回で途絶えていた。今第33回大会は予選会・決勝ラウンドが2月19日(火)~20日(水)に行われ、昨日の決勝戦で私達は9位と惨敗した。
 普通、前大会の6位まではシードされ、予選会には出場しなくてよいのだが、今回は出場チーム数の関係で、シードは2位までで、3位だった私達は予選会から出場した。 
 予選会は得点443点(5投)で参加47チーム中の2位通過。1位の「播磨坂クラブA」は全てのゲームで100点を超えるという、輪投げ大会史上初めての快挙で、合計546点で予選を通過していた。私の得点は43点。今までで最低点だった。
 20日が決勝大会。
 朝のラジオ体操の時、会長の小林さんがやって来て「不調は前日までの旅行が原因では?決勝では投げる順番を1番目にして、気分転換を図ろうか」との話。私はトップバッターの得点が低ければチームの士気に係わると思い、その提案には乗らなかったが、心使いは有難いと思った。
 ただ投げ方のどこをどう変えれば分からないで気分は暗く、出来れば出場したくないななどと思ったりした。しかし試合当日には不可能なことで、私は上着から靴、靴下など着ていたものは全て替えて気分転換を図り大会に臨んだ。

 決勝大会(6投)では我がチーム全員の調子が悪かった。おなじコートで3番目に投げる播磨坂チームは100点以上を連発するに対して、私達は60点台が3回、100点以上は1回。まるで勝負にならなかった。目標点600点に遠く及ばない459点。私は辛うじて100点を超えていた。前日の審判を勤めていた、丸山延寿会の伊藤さんから「投げ方は良いのですが、投げた輪が得点板を超え過ぎています。投げる位置を少し後ろにずらしたら」とのアドバイスがあった。それを実行した結果惨めな成績で終わらなかった。こうしてアドバイスをしてくれる人がいることをしみじみ有難いと思う。
 隣組の寿神明クラブAの、初の準優勝と寿同志会の古豪復活は少し悔しいが嬉しさの方が大きかった。
 反省会は「サイゼリア」で。文字通りの反省もした。662点も出した播磨坂チームとの得点差は200点以上。衝撃的敗北だ。このチームの得点を上回ることは尋常では出来そうにない。運を天に任せるのみではどうしようもない。果たしてどうすれば良いのか?


ハーヴェストクラブ山中湖マウント富士へ(その2)

2019年02月19日 | 

 今回の旅行では、残念ながらダイヤモンド富士は見られなかったが、冬花火・紅富士の他に月富士(?)も見ることが出来て満足だった。

 旅行2日目の17日(日)午後、富士山頂は雲に覆われていた。これではダイヤモンド富士見学会のバスは出ないだろうと予想していたら、「現地まで行きます。そこで駄目だったら諦めがつきますから」とのことで、16時にマイクロバスはホテルをスタートした。当然ながら見学地点は毎日移動するそうな。この日は旭日丘付近の湖畔にはすでに多くの人がカメラを構えていた。一時は山頂は見えていたが、やがて山全体が雲に包まれ始め、カメラマンたちは三脚を閉じ始め、この日は”絶望”と悟った。(写真:ダイヤモンド富士を待つカメラマンたち)

 19時からは河口湖畔へ。20時丁度花火は上がった。見学者はそれほど多くはなく、20分ほどの小規模な鑑賞会だったが、真上に上がる花火は美しかった。打ち上げ地点の間近で見ていたので、不発弾ががゆっくり落ちて来るおまけまで見られた。


  

 河口湖から21時過ぎに帰ってきて、部屋での遅い
夕食。用意しておいたミートローフと果実酒を味わった。果実酒はソルダムを漬け込んだもの。澄んだ紅色に仕上がっていた。








 
 夜中、ふと窓外を見ると微かに富士が見え、慌ててベランダに出た。もう23時を回っていたが、暗闇の中に真っ白な富士が浮かび上がっていた。初めて観る幻想的な富士山だった(帰りのマイクロバスのなかで、その風景を見た人は、怖かったと語っていた)。花火鑑賞会の時に気が付いたのだが、この日は十三夜で、月の光が富士山を照らしていたのだ。私達は勝手に月富士と呼ぶことにした。

 

 翌朝は快晴で、日の出前に展望台に立った。この時期だけに見える紅富士。この日の日出時刻は6時半。富士山には地上より10数分前に日が射し始め、それが紅に染まり出した。撮影した写真をみると、肉眼で見るほど紅色は鮮明ではない。
 会計を済ませると、「宜しければ」と富士山の、A4の大きさの写真を7葉プレゼントされた。その中には赤富士もあり紅富士もあった。最下段に2枚並べたが、赤と紅の違いが鮮明となる。
 16時には帰宅し、18時にテレビをつけると、「山中湖でダイヤモンド富士」の映像が流れた。現地に留まっていれば見られたダイヤモンド富士。やや残念・無念だっが・・・。
 
 

山中湖 
 

 紅富士
 

 日出
 

 ハーヴェストからプレゼントされた写真(上が赤富士で下が紅富士)