マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『いまだ下山せず!』を読む(その2)

2009年10月31日 | 読書

 
  (宝島社文庫表紙)

”3人はいったい何処に消えたのか?”この難問を解く為に泉さん達は情報収集に奔走します。この厳冬期、槍ヶ岳を目指したパーティは17。行動中にのらくろ岳友会の3名を見かけなかったかを文書で問い合わせ、直接に話を聞きにも出かけます。より重要な証言が得られそうと思えれば、遠く長崎までも足を延ばします。そうやって作り上げたのが「北アルプス証言地図」。更に「のらくろパーティの足跡」をも完成させます。そのパンフレットを基に捜索メンバー達の討論が延々と続きます。
 
 槍ヶ岳へ突っ込んで行ったのか?エスケープルートの常念コースに変更したのか?はたまた途中から引き返してきたのか?雪解け開始前に遭難地点を特定しておかねばならないのです。

 「大村労山パーティ」の証言の重要性を感じた泉さんは長崎に飛び、直接話を聞きます。常念山頂を目指し大村労山パーティの二人は、猛吹雪吹きつのる稜線をラッセル中に、常念岳方面から下ってくる3名と遭遇。先頭の”赤いヤッケ”の人間と握手をし、言葉も交わしたとも語るのです。総合的に判断し、この3名こそのらくろ岳友会の3名だろうと推定します。
 槍ヶ岳を目指したにも拘わらず、猛烈な悪天候の為か、槍ヶ岳突入を断念した3名は、エスケープルートの常念に向ったものの、何故か常念からも撤退したと判断せざるを得なくなります。その撤退の尾根上に彼らの足跡を発見出来ない以上、最後に残された可能性は唯一つ「常念乗越」から下る「一の沢」ルートしかありません。積雪期決して下ってはいけないと言われる沢コースです。この一の沢は特に雪崩多発の最も危険な沢なのです。
 あの3人が山の鉄則を犯すはずがない、犯していて欲しくない、岳友たちの偽らざる心境です。しかし泉さんはこの沢に彼ら3名は眠っているとして、捜索地点を一の沢に特定するのです。

 捜索活動開始前に挿入された一章「男たちの残像」で、彼ら3名の生い立ちと素顔が語られます。遭難数年の後、3名の生まれ故郷の北海道滝川市や高知県まで出向き、肉親の方々から聞き取った生の声。実在したとは思えないほどの個性的で魅力的なキャラクターがそこには書かれていました。

 捜索再開から3ヶ月、6月27日と28日に、一の沢で漸く2遺体発見。6月30日に最後の遺体も。遭難原因は雪崩でした。遺族が遺体に接する場面では涙無しには読み進めません。
 
 どうして3人は鉄則に反してまで一の沢を下ったのか。山仲間が、一の沢を遭難地点と推定し入山するたびに抱き続けた疑問は最後まで解かれないまま、ドキュメントは終わります。
 最終ページで、遭難現場に雪の墓標を立て終えた遺族の一人が急な斜面をあえぎながら登り、稜線に出て、広大な谷の向こう側に、槍ヶ岳から穂高連峰へと続く稜線を眺めたときの描写を、著者はこう語ります。

 『兄はたしかに、弟の足跡を求めてやってきた。しかしそのとき、兄を捉えていたものは、もう弟ではなかった。
    ドーンと土鳴りがする風景
    天空にそびえ立つ 白い槍
    頂から走り下る あらぶる谷々
    そこへ続く 長い尾根の道
    人がこの世に現われる前に刻みあげられた地球の貌・・・

 一年前、捜索のために登って来たものがそうしたように、兄もまた、声もなく、そこに立ちつくした。』

 遭難の物語であり、ミステリーでもあり、人間のドラマでもあるこのドキュメント。「卓越した記録文学」との評もあります。私は更に、基底通音として流れるのは自然賛歌なのだと思いながら物語を読み終えました。

 
 
 


『いまだ下山せず!』を読む(その1)

2009年10月30日 | 読書

 10月24日(土)、吉田敬子さんの「鋸屋根」についてのトークショーを聞きに、自転車で谷中へ出かけようとすると雨、インフルエンザが流行っていることだしと理由を付けて日和りました。その夜から読み始めたのが「いまだ下山せず!」(泉康子著:宝島社文庫)です。
 かって10年ほど前に読んだことがありました。迫真の山岳遭難ドキュメントです。もう一度読みたくなり、再読を始めました。一度目はどんな結末をむかえるのかを一刻も早く知りたくて最終章まで”一気読み”してしまいました。今回は地図を傍らに置きながらの熟読でした。再読して新たな感動に包まれました。物事に誠実に、ひた向きに取り組む人間達の織り成す物語だからです。

 話は1986年12月28日に遡ります。厳冬期の槍ヶ岳を目指して縦走に出かけた「のらくろ岳友会」の3名は、予定日を過ぎても下山せず、遭難が懸念され始めます。3人の計画は、中房温泉経由→燕山荘→大天井岳→(喜作新道)→西岳→槍ヶ岳→横尾で、エスケープルート(逃げ道のこと)が常念岳から上高地へ。この計画の最終地点「木村小屋」での捜索活動から物語りは始ります。
 何処に消えたか分からない3名を求めて懸命の捜索活動が開始され、ヘリコプターも飛びますが、皆目その姿を見出せません。遭難を知って豊科駅近辺の捜査宿には家族や会の仲間のみならず、山の友達が続々と詰め掛け、本格的な捜索活動が展開されます。しかし、手がかりは全くつかめず、次第に生存へ希望が消えかけていきます。

 このドキュメントの著者は「のらくろ岳友会」の前副代表泉康子さん。会の”縁の下の力持ち”的存在の方で、そこから長く続く捜索活動の中心メンバーであり、捜索活動の膨大な記録をしっかり取っていた方。その泉さんが中心となり、遭難2年後に「槍への道」と題する報告書を発行していますが、そこには書き込む事が出来なかった捜索の日々の悲喜劇にスポットをあてた、もう一つの報告書が、この「いまだ下山せず!」なのです。

 第1次捜索活動は虚しく終わり、生存への期待を諦めて、何処へ消えたのかを求める第2次捜索活動。著者が意識したは否はわかりませんが「
失踪人捜し」のミステリーが提示されます。「3人の男は何処へ消えたか」という謎を著者達は追い掛けるのですが、その記述がそのまま読者への謎の提起にもなっていて、ミステリー小説を読んでいるような感覚になります。当時入山していた山岳会からの情報収集に全力で取り組みますが、それらの情報を繋ぎ合わせても、何処へ消えたかは「難解なパズル」、どうしても解けないのです。(次回ブログに続く)
 

 


重陽の節句に菊酒

2009年10月27日 | 身辺雑記

 中学時代のクラスメイトのBさんから、9月中旬「菊酒」に関するパンフレットが送られてきました。「平安時代から伝わり、長寿を願って呑む『菊酒』をご存知だろうか」で始まり「大ぶりの杯に菊花を散らして、優雅に味わう菊酒、呑む日時は旧暦9月9日の重陽の節句。今年ならば10月26日に限定される」と書かれていました。


         
(頂いたパンフレット)
 この文章を読んだとき、ある事が閃きました。かって味わった日本酒の中でも、私の中で1・2を争うほど美味だった「菊姫」で「菊酒」と洒落込もうと考えたのです。20数年前、吟醸酒なるものを始めて知りました。以来「久保田」や「手取川」「香露」などの吟醸酒をこよなく愛するようになりました。ただ定年と共に美酒の世界からは足が遠のいていきました。ところが「菊酒」に触発されたかの様に「菊姫」を思い出したのでした。
 ただ、この「菊姫」なかかな見つかりませんでしたが、10月17日に日暮里近辺を散策中「山内屋」なる酒店に寄ったところ、「菊姫」が置いてあり、4合ビンの吟醸酒2本買って来て、10月18日に「菊酒」の予行演習を実施し、昨日の重陽の日を迎えたという分けです。
 パンフレットは語ります「その一日限定の美酒とは、菊の花びらをはらはらと散らした日本酒で、菊花も日本酒もとくに品種や銘柄を問わない。ただその選び方に呑み手の洒脱さが出る」と。銘柄を問わないのに銘柄に拘ってしまった私は洒脱ではないのかも知れません。
 「菊酒を口に含むと、馥郁たる菊の香りに酒の香味が合う。いっときの夢心地を味わいたい」とも書かれています。菊の香りより「菊姫」の馥郁たる香りに夢心地となる「菊酒」でした。



       (予行演習時の菊酒)


          (重陽の日に菊酒)


川越へ芋堀に

2009年10月26日 | 

 昨日10月25日(日)は町内会のバス旅行でした。目的地は”小江戸”川越。小雨降るなか、総勢30数名一台のバスに乗り込み、駒込神社前から出発し、関越道路SAでのトイレ休憩を挟んで一路川越を目指します。
 川越は30歳代の頃一度訪れた事がありますが、何処をどう歩いたか記憶が定かではありません。初めて訪れる街のような期待感を抱いて、今日の日を待っていました。
 最初に到達したのは「あらはたえん」。ここでは芋堀体験。手袋をはめた手で軽く土を掘るだけで薩摩芋が現れます。収穫は7kgほど。ジャガイモ堀りの経験がありますが、薩摩芋は初めて。大量の収穫に周りからも歓声があがります。


        (あらはたえんに到着)


          (いも堀に熱中)


         (大収穫です)

 「何故川越が薩摩芋なのでしょうか」とバス内で司会を務める町会の若衆から問題が出されましたが、誰も答えられません。私も全く知りません。そこで収穫後、農園の方にお聞きすると「焼芋を、川で江戸へ直ぐに送れたから」との返事。分かったようで分からない話でした。この川越と薩摩芋の関係、川越と江戸を行き来した”運河”、何れ調べて見たいと思います。

 農園を後にいよいよ川越の町に向かいます。最初に訪れたのが『川越まつり会館』。丁度一週間前の土・日に『川越まつり』が行われたばかりですが、その祭りに登場した山車を中心に据えての展示の数々。山車展示ホール内には川越まつりで曳かれる本物の山車が2台展示されていて、華麗な幕や精巧な彫刻により飾られた山車の迫力に圧倒されました。反対側では大画面のスクリーンに祭りの模様の映像が流れ、町衆の熱気が伝わってきます。


      (会館内には多くの町の提灯が・・・)


        (館内展示の山車:パンフレットより)


 天下祭りとは将軍閲覧の祭りを言うそうで、永田町の山王祭りと神田明神祭がその代表格。川越祭りはその天下祭りの様式を色濃く残すそうで、来年は是非この天下祭りを直接見たいと強く思いました。特に興味を持ったのは街角を山車が90度回転する模様です。池袋から30分ほど来れる川越、細かい技術的な面もさることながら、豪壮な山車やその上での華麗な人形を見に訪れたいと強く思わせる会館でした。

 昼食は「いも膳」でのいも懐石。その後街歩き。蔵造りの街でもある川越、その素晴らしさを実感しつつ、昔と比較して人の出の多さと、街がいささか観光地化されてきていることを感じました。


 
         (商店の蔵)


        (重厚な感じの蔵)

 今回の旅行の全てを企画し、運営に当たった若い方々(と言っても皆さん40代以上とお見受けしましたが・・・。神輿の担ぎ手の面々です)のお骨折りに感謝・感謝です。
 7kgの薩摩芋どの様に料理するか、料理長とじっくり相談したいと思います。


鋸(のこぎり)屋根

2009年10月22日 | やねせん

 見るべき眼を持った人が見ると、凄い事に発展するのだと実感する場面に遭遇しました。昨日の勤務帰り、日暮里駅で下車し、夕やけだんだんを下り、谷中銀座を素通り、「Cafe Vulgar」のコーヒー一杯で疲れを癒した後、夕食の食材の買い物がてら,、よみせ通りを散策していた時のことです。「吉田敬子 鋸屋根写真展」に出会いました。今までに何度もその前を通った事のある、”妙な”形をした屋根のある建物の中での写真展です。「鋸屋根写真展」と題された写真展、10月18日から25日までの開催です。


       (建物に貼られたポスター)
  
 
         (写真展より)

         (写真展より)


     
(ポスターには第二会場地図も)

 実は私が妙な屋根としか見ていなかった屋根、「鋸屋根」だそうです。鋸(のこぎり)の形をしたこの鋸屋根とは工場建築に用いられた屋根の一形式で、ギザギザの形をした三角屋根のこと。通常、北側のガラス面(採光面)から光を取り入れ、天候に関わらず均一の明るさを得て糸を織る事が出来る、という大きな利点があるので、織物工場に多く採用されているそうです。その屋根が、このよみせ通りに面する谷中に現存していたのです。
 この建物は明治43年に建築され、1954年までは「千代田リボン製織」の織物工場であったが、今現在は印刷会社の所有だそうです。
 その「鋸屋根」に魅せられた写真家の吉田敬子さんは、300余りの鋸屋根の現存する桐生市をはじめ、日本に残るこの屋根を訪ね、その撮影した鋸屋根工場は1000棟を超えるとの事。こことは場所を別にした第二会場ではそれらの写真が展示されていて、10月24日(土)夕方には彼女のスライドトークも開催されるとの事。夜の谷中散歩も良いなと思います。
 
 その第一会場には山崎範子さんの「月刊 のこぎり屋根0号」が置かれていました。もうお一方鋸屋根に魅せられた方がいたのです。桐生市の「のこぎり屋根」の写真の数々が登場するこのパンフレットで、山崎さんは語ります「彼女(吉田敬子)の写した鋸屋根を自分の目で見てみたい。そして、まだまだ知らない鋸屋根を、彼女のあとを追いながら探し歩きたい」と。0号と書かれた決意表明号、1号からは旅の様子が載るものと期待します。
 
 この建物の現存する台東区谷中、よみせ通りを境に文京区千駄木と接します。今は区界のこの道、かっては藍染川が流れていました。パンフレットはその事にも触れ「藍染の反物を洗った川沿いには、染物屋が散見した。そして明治のこのころ日暮里・谷中辺りは、ネクタイ工場が集積する織物の町という顔もあった」


     (谷中ののこぎり屋根:今朝写す)


     (建物反対側駐車場より撮影)


       (朝日を浴びる鋸屋根)

 谷中の知らない面を教えてくれた写真展、吉田さん、山崎さん、有難うございました。