マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

野火止用水行(平林寺)

2023年06月18日 | 江戸の川・東京の川

  茅葺屋根の総門(県指定有形文化財)から真っ直ぐに延びている参道を進んだ。山門、仏殿、中門(通年閉門)、本堂へと続いている。総門から本堂まで、禅宗典型の、一直線に配置されているのだ。ここを歩むうちに平林寺の品格の高さを感じ、おのずから厳粛な気持ちにさせられる。
 取り分け、扁額「凌霄閣」が掲げられ、築350年と伝えられる山門が堂々としていて見事だ。江戸時代前期、平林寺が岩槻から現在の地に移転された際、山門もここに移転された。
 金鳳山と号する平林寺(臨済宗)は永和元年(1375)年に現在の岩槻市に創建された。寛文3(1663)年、信綱の遺命によって野火止(のびとめ)の地に移転された。この地には、信綱の命により開削された、玉川上水から分水された野火止用水が流れ、平林寺には平林寺堀が引かれた。水の利を得た地域一帯は、新田開発が進み、江戸近郊の農業都市として発展を遂げていった。本多家は平林寺を菩提寺とした。(写真:山門)

 参道左側にある放生池まで流れて来た平林寺堀は、ここからは逆に、参道に沿って山門から総門へと流れ、総門からは寺の外部へと流れて行く。(写真:参道沿いの野火止用水)










 菅原さんと私は「大河内松平家廟所」を目指した。本堂奥に広がる「廟所」は信綱の祖父大河内秀綱、父久綱に繋がる直系一族と、傍系大喜多家、右京太夫家の墓所で、170基もの墓石が一箇所にまとまって残存していた。このような大廟所を以前見た記憶がない。(写真:信綱の墓所)

 それにしても広大な敷地の古刹だ。平日故か、殆ど参詣者にも僧侶にも会わないという静寂さ。
 この日更に奥には進まず、平林寺を出て、平林寺向かいにある「睡足軒の森」を散策し、「架け橋」で昼食をとり、この日はお招きを頂いていた菅原さん宅にお邪魔した。


野火止用水行(史跡公園から平林寺へ)

2023年06月13日 | 江戸の川・東京の川

  6月1日(木)、菅原さんと今年2度目となる野火止用水を散策してきた。6月2日(金)に予定していたのだが、2日以降天候は雨気味との予報で、日程を順延ではなく、前倒しして出掛けていった。
 前回の散策では史跡公園から右に分流した「平林寺堀」を歩いたので、今回はここから進行方向を左に取り「本流堀」を辿って行った。東久留米駅からは史跡公園経由で新座方面へ西武バスが数多くスタートしているのだが、この時は生憎待ち時間が長いため、東久留米団地行きバスを利用し、終点から史跡公園まで歩いてからの出発となった。


 平林寺堀はその名前が示す如く平林寺本堂目指して流れて行くのに対して、本流は主として野火止緑道と呼ばれる平林寺の西側端を流れ、その先で飲料水や農業用水として利用されたであろう«本流»だ。本流の水量は、見た目平林寺堀の3倍はあろうかという流れで、この地点でも水は澄んでいる。
 分流後暫くは自動車道路の脇を流れるが、道路が右折する反し、流れは真っすぐ「本多緑道」へと進んで行く。関越高速道路と交差するまでの道は野火止用水中圧巻の景観だ。緑豊かな景色の中、用水開通直後もかくあったかと思わせるような清き流路だ。緑道左側には「本多の森お花畑」が現れ、4月には菜の花が、8月にはヒマワリが美しいとか。ここに寄らず先を急いだ。


 用水は関越自動車道を真っ直ぐ跨いでいたが、人が進み行くには用水とは違う跨線橋を渡らねばならず、本流からは一時離れた。伊豆殿橋で本流に戻って来られたが、ここからは前回歩いたと同じ道を進んで平林寺総門へ。
 かつて平林寺には入山したことがあったと思うのだが、確たる記憶はない。総門から本堂方面を眺めると、この寺の品格が伝わって来るほどの景観だ。

 


野火止用水行を再開(その1)

2023年05月08日 | 江戸の川・東京の川

 前回、野火止用水沿いを歩いたのは昨年の5月7日で、ほぼ1年前のことになる。妻の体調が徐々に悪くなり、彼女を一人置いての外出が不安になって来ていた。更には一緒に通院することも増え、川沿い歩きどころでは無くなっていった。
 その後、妻の急死という思いもかけない事態に遭遇し、茫然自失の日々を過ごしてきたが、多くの方の助けを頂いて、心理的にも少しは落ち着いた日々が訪れ、ブログも再開出来た。介護の必要が無くなり、旅にも行ける状態なのだが、まだ、一人旅には何故か不安を感じている。川歩きには何度もご同行をお願いして来た菅原さんに今回もお声を掛けた。86歳になられた石川さんは体力に自信が持てないとのことで、今後の参加は断念されていたので、二人旅となった。
 4月27日(木)は西武新宿線「久米川駅」に9時半に集合し、東村山市・久米川から新座市にある平林寺まで約12km(歩数22000歩)の距離を歩いてきた。(写真:中橋の下を流れる清流)



 新座市にある「史跡公園」までは、野火止用水に沿うように東北東方向に「水道道路」が延びている。用水沿いの道と水道道路を交互に進んだ。時に開渠あり、時に暗渠ありだった。用水の水勢は上流ほどではないが澄んだ流れだ。多分不要になった用水路は一時は邪魔者扱されたのではなかろうか。貴重な武蔵野の自然を惜しむ住民の熱意に行政が動かされ、この歴史的遺産を後世に残そうと、昭和59(1984)年8月“清流の復活”がなされ、通水が復活した。(写真:新座市史跡公園にある碑)
 新座市に至るまで用水は東村山市・東久留米市・清瀬市などを流れるが、新座市に至るまでに分水は行われていない。それでも見るべきこのは幾つかあった。

①恩多野火止用水水車苑
 新青梅街道を越えて暫く行くと水車が目に飛び込んできた。立派な水車小屋と水車だが、水の供給は用水からではないらしい。
 帰宅後ネットで調べると
 「恩多野火止水車苑の水車は、天明2年(1782)に旧大岱(おんた)村(現・東村山市恩多町に含まれる)の當麻(とうま)本家の酒造米の精米を目的に川越藩の許可を得て設置したといわれます。水車は直径7.5 メートルにも及ぶ大きなもので、酒造業廃業後は脱穀などに利用し、水車業を営んだとされます。水車苑は、天明2年(1782)頃から戦後まで使われていた場所に水車を復元し整備したもので、東京都内では数少ない野火止用水の憩いの地となっています」とあった。(写真:恩多野火止水車苑)

②万年橋のケヤキ
 更に500mほど進むと万年橋のケヤキの巨木があった。根が用水を橋のように跨ぐので万年橋のケヤキと呼ばれているとか。掲示板には次のように書かれていた。
 「用水を掘る時、このケヤキが大木であったため、その根の下を掘り進んだ話や用水が出来た時ケヤキが植えられ、土橋ぞいに根が延びた話などいろいろありますが、根が向こう岸に達し、あたかも橋のようだったことから、万年橋のケヤキの名で地元に親しまれています 東村山市教育委員会」とあった。(写真:万年橋のケヤキ)
 


“塩の道”新川再訪

2023年04月08日 | 江戸の川・東京の川

 3月22日(水)、江戸時代の“塩の道”新川を友人の菅原さんと歩いて来た。江戸時代、千葉県行徳(現市川市)で作られた塩は、新川や小名木川を経て江戸市中に送られてきた。というよりむしろ、生産地から日本橋などへ、より簡便・安全に塩を搬送するために、幕府は運河小名木川を開削し、新川の流れを改修した。
 “塩の道”の全行程を見たくて、私は2021年2月に行徳から旧江戸川→新川→新川西水門   
 旧中川→小名木川→隅田川 と川沿いを歩いて来た。その中でも、江戸時代の雰囲気を今に伝える新川沿いの風景に心惹かれ、今年も再びここを訪れたのだった。前回の様子は21/3/5  21/3/12  21/3/19のブログに詳しいのでそちらをご覧下さい。
 さて、今年は都営新宿線船堀駅→宇喜田橋→(ここから新川)→新川さくら館→新川口橋(旧江戸川との合流点 ここでUターン)→西水門橋(中川との合流点)・火の見櫓→宇喜田橋→船堀駅 と廻ってきた。
 この日の散策で初めて気が付いた3つの事を記しておこう。
 ①大島桜・・・新川沿いにも各種の桜木が植えられているが、この日は大島桜が満開だった。この木とエドヒガンの掛け合わせからソメイヨシノが生み出されたという大島桜。花びらの色は真っ白だった。(写真:オオシマザクラ)






 ②行徳船の模型・・・今回初めて知ったことだが、新川さくら館の奥に多目的ホールがあり、私たちが行った時には「江戸木造和船展」が開催されていた。和船の細工師の中山幸雄さんがいらして、色々話を伺うことが出来た。中山さんは漁師町羽田に生まれ、幼いころから和船に乗り親しみ、幼い頃から和船模型を作り始めた。長じては多くの船大工に学び、機械技術者としての本業の傍ら縮尺1/70和船模型を長年作り続け、その数200隻を超えたそうな。その和船が会場いっぱいに展示されていた。そこに、行徳から江戸へ塩を運んだ行徳船の模型も展示されていた。模型とは言え、ここで行徳船を見学出来たことは行幸だった。(写真:展示されていた行徳船の模型)

 ③火の見櫓からの風景・・・前回来たときはコロナを警戒して櫓の中には入れてもらえなかったが、解禁になっていたので、早速櫓に登った。階段にして60段、予想以上の階段数だった。昇り切ったところに出窓があり、外を覗くと、新川が一望の下。荒川と中川が並行して流れ、新川と中川の合流の様子が良く理解でき、私は満足だった。(写真:火の見櫓から見る新川)


野火止用水行(その2)

2022年05月13日 | 江戸の川・東京の川

 5月7日(土)、石川さん、菅原さんと私の3人で、西武拝島線玉川上水駅から西武新宿線久米川駅まで野火止用水を歩いて来た。(写真:野火止用水の一風景)
 天気予報によれば7日は7時頃までは雨、それ以降は曇りで、8日は概ね晴れとのことだった。どちらの日にしようか迷ったが、7日にしましょうとお二人には電話連絡した。早く歩き始めたい気持ちが勝ったのだ。朝5時頃からヤキモキしながら雨空を見上げていたが、予報通り7時には雨は上がり、歩く途中では日差しも見えてきた。結果オーライだったが、このような場合、8日(日)に順延しておいた方が選択としては良かったのではと少し反省。玉川上水駅へは前回は多摩都市モノレール線を利用したが、今回は高田馬場駅から拝島駅行き準急を利用した。直通で39分で行けて、このルートの方がより便利だった。
 さてこの日は次の様に進んだ。
 玉川上水駅→小平監視所→野火止用水分岐点→松の木通り→東大和市駅→青梅橋跡→清流復活の碑→九道の辻→台湾料理「秀味軒」→久米川駅
 スタートが9時15分頃でゴールが12時過ぎ。歩数にして13000歩。
 野火止用水は玉川上水と比べると“小川”と呼ぶのが相応しい細い流れの清流で、鯉も小魚も鴨も生息していた。子供が川遊び出来るような場所もあった。人との関係が身近に感じられる川で、その様になるには“清流の復活”があったことを知った。今回は主として清流の復活について綴る。
 ①小平監視所
 小平監視所の役割を誤解していた。ここは羽村から流れてきた玉川用水にゴミ除去などの浄化をして再度玉川上水に流しているものと思っていた。それは間違いだった。浄化後、東村山浄水場に送られ、水道水となるのだった。
 実は多摩川の流れは羽村の下流、昭島市に造られた「多摩川上流水再生センター」で砂ろ過とオゾン処理され、オゾン処理することにより脱臭・脱色・殺菌された水が導水経路でここ小平監視所に送られ来る。1986(昭和61)年から小平監視所の下流の玉川上水に導流されるようになり、清流が復活したのだった。導水経路を経て送られて来たオゾン処理された水は、野火止用水側では青梅橋跡の先で姿を現し、用水の出発点となっている。(上図参照)
 実は野火止用水の清流復活は1984(昭和59)年で、玉川上水より2年早いのが面白い。
 ②松の木通り
 分岐点からは拝島線に沿って東大和市駅先まで緑道が伸びている。気持ちの良い散歩道だが、実は暗渠とは言い切れないように思う。既にかっての野火止用水は完全に埋められてしまい、地中に設置された導水経路からの流水が青梅橋の先から野火止用水として流されているのだ。







 ③青梅橋跡
 青梅街道が渡っていた橋で、東大和市駅は昭和54年3月までは青梅橋駅だった。木の根元に庚申塔の祠と青梅橋の親柱がある。(写真右は青梅橋先の野火止用水。下は野火止用水と交差する拝島線)


 

 ④ホタル生息中
 野火止緑地と呼ばれる辺りでは野火止用水は小川だ。その小川は蛍が生息するように2本のより細い水路に分けられ、一方には金網が被せられていた。この辺りに住む方々の上水への愛情が案じられた。







 ⑤ふれあい橋
 この近辺の橋は平成に入り作り替えられた。小振りな橋も多く見られた。



 ⑥九道の辻
 かつて、江戸道、引股道、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道などの9つの街道の分岐点となっていたので九道の辻と呼ばれている。旧鎌倉街道の中間地点に位置し、ここから鎌倉や前橋までが、ちょうど72Kmであったそうな
 ここを過ぎた頃3人とも空腹を感じ始め、久米川駅近辺で昼食出来そうなお店を探し始めた。


 ⑦台湾料理店「秀味軒」
 
 飛び込みで入ったお店だが、ネットを見ると地元の評判の高いお店。私は好みの焼きそばを注文したが、初めて食する台湾焼きそば、予想以上に美味だった。3人で生ビールで乾杯。本日の散策はここまでで終了した。