マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「猿若祭二月大歌舞伎」を観る

2017年02月27日 | 映画・美術・芝居・落語

 昨日の2月26日(日)、妻と二人、歌舞伎座で「猿若祭」の千秋楽を観て来た。この数年頂いているチケットで歌舞伎観劇の機会に恵まれているが、以前に「猿若祭」を観た記憶はない。
 チケットに同封されていたパンフレットには、右写真に見る如く“江戸歌舞伎三百九十年”と冠されている。正確には1624(寛永元)年に、初代猿若勘三郎が江戸に下り日本橋中橋で興行を始めたのが、官許による大歌舞伎の始まりとされているそうだ。
 京都で阿国歌舞伎が始まったのが1603年とされるから、約20年遅れのこと。





 今月の演目『猿若江戸の初櫓』では、阿国歌舞伎に登場する道化の進行役猿若が、江戸の地に猿若座を建てるいきさつがい演じられていた。
 出雲の阿国(七之助)が猿若(勘九郎)と連れ立って江戸へ下って来たというストーリー(史実ではない)だが、舞踏劇と言った方が適切か。長唄囃子連中と筝曲連中の音曲を背に受けて、勘九郎・七之助を中心とした舞が展開される。息の合った兄弟二人の華麗な舞。私は双眼鏡で特に阿国を演じる七之助を見続けた。優雅にして妖艶な美しさに見惚れるばかり。(写真はいずれも勘九郎と七之助)

 

 長唄からは“京の都を後にして 東に下る花一座 一富士二鷹三茄子よい初夢や 櫓幕”と流れ来る。ここでも富士神社が登場する古川柳に出会った。
 実は30年前の「猿若祭」では勘九郎・七之助は『門出二人桃太郎』で初舞台を踏んだ。その勘九郎の二人の息子が勘太郎・長三郎を名乗って、夜の部で同じ演目で初舞台に立った。歌舞伎の伝統が綿々と受け継がれていく一瞬に立ち会ったとも言える歌舞伎座観劇だった。
 帰りの地下鉄では東京マラソンを走り終えた多くのランナーに出会った。昔を偲ぶ縁(よすが)。私が出場したのはその前身の「東京ハーフマラソン」。懐しくもあり、羨しくもあった。





 今日の二葉(左はキリシタン坂と庚申坂の間を通過する丸の内線。右:坂と坂を結ぶ通路トンネルは地下鉄の更に下を通る。いずれも今朝撮影)
  


『更級日記』始まる

2017年02月25日 | 街道を行く

 妻が講師の「源氏物語」の会は、昨年12月で『竹取物語』を終了し、今年2月からは『更級日記』が始まり、その第1回が211日(土)に行われた。『源氏物語』→『大鏡』→『雨月物語』→『平家物語』→『伊勢物語』→『竹取物語』など、今までは、古典では名高い物語文学が続いて来たが、読み合わせは、初めて日記文学となった。出席者は13名。
 購読本は、角川ソフィア文庫『更級日記』(原岡文子訳注)。現代語訳も付いているが、本文も読みやすい。

 作者菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)は13歳のとき、上総介の任期を終えた父の上京に伴い京都に上った。さてどの道を行ったのか?残念ながら、私達が歩き始めた中山道ではなく、東海道だった。今までの作品に比べて身近に感じられるテーマが物語の最初に登場し、非常に興味が湧いてくる導入だ。現在の千葉県市原市から出発し、松戸の辺りで隅田川を渡り(諸説あるらしい)、足柄山を越え、富士山を眺め、遠江・美濃・近江を経て京三条に至った。
 先走るが、その後の展開を読むと、上京後、少女時代は『源氏物語』などの物語を読み耽り、33歳で橘俊通と晩い結婚。夫の死後は侘しい生活。その中で物語は執筆された。宮仕えに係わるものもある。「日記」とはあるが、毎日の生活を日々綴ったものではなく、晩年に創作されたものらしい。当ブログのタイトルは『マーちゃんの数独日記』と日記風体裁を取ってはいるが、日々の生活を語らない日が多い。最近は”隔日”記になっている。

 妻が毎回用意する資料は2種類あって、ひとつが写本でもうひとつが10ページほどのレジメ。妻は右写真の写本を読むのだが、このようなものを初めて読む者には難解。私は『竹取物語』の途中で挫折。今回は読む上での“用例集”が配られているので、それを傍らに置いて読みゆくのだが、そう易しくはない。前途多難だ。(写本は、右上から始まり、”あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に・・・と書かれている)
 
レジメには物語の解説のみならず、蘊蓄も詰まっていて、こちらが語られる場面が多々ある。これまで、中流貴族の平凡な女性の一代記とされてきていて、「夢見がちな受け身の人生」を愛される向きもあったけれど、物語作者の一面もある作者の、作為性・物語性をも、見ていこうというものだそうである。今後の展開が楽しみだ。



文高連「輪投げ大会」で連覇なる

2017年02月23日 | スポーツ

 220日(月)~21日(火)の2日間にわたって開催された第29回「輪投げ大会」で、私達富士前福寿会は優勝し、大会2連覇を果たすことが出来た。初日の予選会では参加48チームのうちから15チームが予選通過。2日目はシード9チームを加えた24チームでの決勝ラウンド。結局、参加57チームの頂点に立てたことになる。
 この大会の第1回は2003年に実施され、その後、毎年2回ずつ開催されて、今回が第29回大会。過去の詳しいことは知らないが、連続優勝はそう多くはないだろうと思う(後楽クラブが達成されたことがあった。他は今のところ不明)。連覇することが出来、本大会にその名を刻むことが出来たと言っても過言ではないだろう。(写真:右は賞状、下は開会式)

 

 ゲームの流れ。第1ゲームは得点が94点で4位の出足。第2ゲームが112点で2位に浮上。第3ゲーム目も100点台で1位に。以下5ゲーム目まで最低でも90点台の点数で1位を維持。最終6ゲームを残して、2位とは32点差。これならば何とか逃げ切れるとの思いを抱きつつ最終ゲームへ。
 しかし、落とし穴が待っていた。81点しか得点できなかったのだ。2位の“根津寿クラブ”が114点以上取れば逆転。2位に甘んじなければならなくなる。ひやひやの思いで、相手チームの結果を待っていると、105点、8点差で辛うじて逃げ切った。前回の610点には及ばなかったが589点。(写真:区議会を一時退出し、開会式で挨拶する区長)

 我がチーム5人のうち目標点をクリヤ―したのは3名で、私を含め2名は70点台で目標に遥かに届かなかった。特に会長は目標点160点を20点超えての181点。2ゲーム目では、9点棒に5本を含む52点。名人芸で、それが優勝の原動力。彼からその力を貰おうと何人もの人から手に触られたそうな。熊坂さんが148点、会長夫人が117点で3名が目標突破。都大会に参加することとなった。大会後の“優勝祝賀会”の味はやや苦かったが、皆強気になっていて、都でも10位以内を目指そうと。

 面白い話を聞いた。9個の輪が全て得点棒に入る“パーフェクト”が初日の予選会で出たそうな。29回を数える大会で2人目。しかしそのチームは予選会の通過ならず。このゲームが団体戦であることの象徴。
 驚いたことは、やはり予選会には95歳の高齢者が参加。それなりの得点をあげていたとのこと。そういえば、選手控室で目の前に席をとった“寿同志会”の皆さんの中に90歳の方が2人も。それぞれ年齢よりお若く見え、顔の色つやも良い。このゲームは高齢でも可能なことを改めて認識した。平均年齢が74歳の私達のチームなどは“若い若い”と言われてしまう。“花の命は短くて”と言われない為には練習に励む他かないか。

 今日の一葉(昨日は日の出が6時20分。その時刻に屋上から撮影)
 


中山道を歩く(行田→熊谷宿)

2017年02月21日 | 街道を行く

 中山道行の4日目、私たち一行3名は宿泊先「ホテル花湯の森」を後にして、籠原駅から行田駅へと向かい、前日のルート最終地点の熊谷堤からスタートした。中山道が堤の上を通るとは想像していなかった。熊谷堤はさくらの名所であるらしい。
 早朝の土手歩きは気分爽快。右手には行田の町を、左手には荒川河川敷を見下ろしながらの歩み。右写真に見る如く「海まで72.0Km」の表示は、この地点が東京湾から72キロ上流にあることを示すもの。この様な標識が400m毎に立てられている。国道17号線には100m毎に道路標識が立てられていることを思い出した。間隔は何故500mでなく、400mなのか?私はそういったことが気になってしまう性質だ。まだ国土地理院に問い合わせてはいない。








 堤を下り久下源八地蔵尊前を通過。英泉画「熊谷」には、この地蔵様が画の右端に描かれている。(写真は最下段に)

 更に進むと街道は再び元荒川に急接近する。もうここは元荒川の源流地点なのだ。よ~く考えれば中山道を歩めば、この源流地点を通過し“ムサシトミヨ”に再会するはずであったが、全く忘れていた。元荒川の清流は眺められたが、魚の姿は小さい故に肉眼でムサシトミヨを見ることは出来なかった。(写真:ムサシトミヨと元荒川)







 6年前に知ったことだが、ムサシトミヨはトゲウオ科の珍魚で、今ではここ元荒川の源流にしか生息していない。冷たく、綺麗な湧水を水源とする細い川で、水草が繁茂するところにのみ生息するそうだ。その時に訪れた保護センターは2004年に作られ、2008年には元荒川源流は名水百選に選定された。




 
 (左:熊谷市のマンホール蓋にはムサシトミヨが)

 第六中山道踏切を越えると熊谷宿。大きな宿であったはずなのに、「本陣跡の碑」が建てられているのみで「本陣跡」は何処にも見当たらない。「本陣跡」の立看板を読んでいると、傍らで立って看板を見ていた人が語り掛けて来た。「大空襲でみんな焼かれてしまったのですよ」と。そうだ、ここ熊谷はポツダム宣言受諾後、敗戦の日の未明の大空襲で町の大半が焼失したのだった。アメリカ軍が酷いのか、日本政府に非があったのか。敗戦が確定的な状況下での大空襲。惨いことが強行されたのだ。











 
更に進み行くと熊谷寺。”熊谷寺”と書いて“ゆうこくじ”と読む、熊谷次郎直実が庵を結んだ寺だが、寺内には一歩も入れない。『浪漫の旅』には「・・・空襲後、寺と市に行き違いがあり、今も境内への立ち入り禁止である」と書かれている。敗戦後、間もなく72年が経過しようとしているに未だ立ち入り禁止のまま。私たちは外から寺の外観を眺めるしか出来ないが、それは見事な建物のお寺様だ。






 その先に、世にも珍しいものが待っていた。デパート内の通路が中山道になっているのだ。「八木橋百貨店」の通路が中山道!!。熊谷空襲後に八木橋百貨店が中山道の土地を買収し、新店舗を建てたそうな。敗戦直後のドサクサの時期だからこそ起こったことか。それは兎も角、そんな珍妙な痕跡を今現在味わえることは楽しい。店内の行灯には「中山道」・「熊谷宿」と書かれ、出入り口には「旧中山道跡」の碑が建っていた。
 熊谷には本陣跡は残っていなかったが、「熊谷寺」と「八木橋百貨店」に熊谷大空襲を起点にした痕跡が残っていた。

  

 
 
                (英泉画:熊谷宿)


Wi-Fiはブラックボックス

2017年02月19日 | 

 一昨夜、草津から帰京した。
 初めての体験が幾つかあった。
 驚いたことは中沢ビレッジや湯畑付近に若者の姿が非常に多かったこと。気が付くと若者の集団のなかに高齢者は私たち二人のみといった瞬間もあった。大学の漫画研究同好会や音楽関係クラブなど、スキー場に足を運ぶのではない、文科系のサークルの姿が目立った。
 初体験は、テルメテルメという、本館からは離れた総合温泉施設内「わたの湯」の入浴。44度の高温に3分ずつ何回か入浴した。高温の湯には文京区の銭湯で慣れていたから困らなかったが、入浴を繰り返す合間の休憩時間に非常に多くの汗をかいた。運動不足になりがちなホテルの生活には非常に有難かった。(写真:快晴の朝の草津白根)

 不思議に感じたことはWi-Fiの世界。私が不明だけなのかも知れないが、その不思議体験を記しておきたい。
 宿泊数日前にホテルにネット環境を問い合わせた。各部屋でWi-Fiは使えるが有線でネットに繋がる環境はないとのことだった。到着してWi-Fiに繋ごうとしたが、セキュリティー情報がどこにも書かれていないので、フロントに電話で問い合わせると、「各部屋ではWi-Fiは使えません」とのこと。「約束が違うではないか」とやんわり抗議してその場は収めた。ポケットWi-Fiは持参していなかったし、スマホでテザリングをするにも許容容量に接近していたのでそれも止めた。要するにネット環境が無くなってしまったのだ。
 夜になって「会員特別ルーム」や1階のフロント付近ではWi-Fiの使用が可能と知り、メール送信などをした。
 翌朝、あるいはと思い「Surface」を起動させネット接続を試みると、何とネットに繋がった。ホテル側正式見解とは異なる。何故正式見解とは異なりWi-Fiに繋がったのか考え込んだ。次の二つのうちどちらが正しいのか。どちらも間違いで他に理由が考えられるのかと、迷った。
 (1)1階に設置されているであろうルーターに届く電波のうち、弱い電波が宿泊階の12階にも届いている。
 (2)一度セキュリティーを通過した後は弱い電波でも受信できる。
 帰宅後、パソコン師匠の石野さんに電話した。(1)でも(2)でも、要するに弱い電波が届いていたらしい。その環境は天候などの状況によって変化するし、部屋がどちらを向いているかにも依存しそうだ。目には見えない無線は私にはブラックボックスだ。
 会員専用施設のタワー棟1階には会員専用の部屋が新設されていて、フリーWi-Fi・コーヒーメーカー・全身揉み器・新聞雑誌などが整備されていて、快適に長時間過ごすことが可能であった。

 今日の一葉(ホテル内で)