マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『黒牢城』(著:米澤穂信 出版:角川書店)を読む

2021年09月24日 | 読書

 実に面白い歴史小説だった。ミステリー小説でもあった。米澤さんの著作は過去に2冊しか読んでいない。ミステリー短篇の金字塔と言われた『満願』は山本周五郎賞などを受賞していた。『Iの悲劇』は限界集落を舞台とした連作短編集だった。現代の、短編ミステリーを描く作家と思い込んでいたので、戦国小説を描いたことに驚いた。

 ときは天正6(西暦1578)年。松永弾正滅びての翌年、本能寺の変の4年前
 ところは北摂津にある有岡城
 主な登場人物は荒木摂津守村重と黒田官兵衛
 織田信長に反旗を翻し、有岡城に籠城する荒木村重を、軍使としての黒田官兵衛が訪ね来るところから物語はスタートする。官兵衛は謀反を止めるよう説得に来たのだった。毛利の援軍は来ないだろうから、この戦に勝ち目はないと大局を説く官兵衛をこのまま帰す訳にはいかないと判断した村重は官兵衛を土牢に監禁してしまう。
 官兵衛を地下牢に閉じ込めたことを“起点”とし、約1年後に村重が城を捨て、官兵衛が救出されることを“終点”とする、二つの歴史的事実は抑えたうえで、その間はフィクション構成でミステリーが創作されていた。
 地上では、中川清兵衛の裏切りがあり、高山右近が守る高槻城が開城し、今また、大和田城を守る安部兄弟も戦わずして織田に下った。そこで人質としていた安部二右衛門の一子自念を成敗することとなるに及び、村重は自念を即刻成敗するのではなく、土牢が完成するまで屋敷に留め置くことにした。自念が閉じ込められた納戸は屋敷の奥にあったが、閉じ込め置いた翌朝、自念の死体が発見された。
 死体には矢傷があり、何者かに殺害されたのだった。納戸に通じる庭には昨夜降った雪が積り、人跡はなかった。村重は納戸を警護していた御前衆を中心に聞き取りを始めるが杳として犯人を特定できなかった。この曲事たる謎を官兵衛なら解けるかと村重は地下牢に下りていき、事の次第を官兵衛に語るのであった。
 ここまで読み進んできてはっきりわかるのだが、これは「地下牢に閉じ込められた官兵衛を“安楽椅子探偵”にしたミステリー」なのだ。
 第1章「雪夜灯籠」では雪密室が登場する。牢を去り行く村重に官兵衛は歌に託して解決へのヒントを謡う。ヒントから謎を解いた村重は犯人を突き止める。これ以降城内で不可解な出来事が発生するたびに、村重は秘密裏に土牢訪れ謎を打ち明ける。官兵衛は協力的に推理を披露するわけではなく、遠回しにヒントを出すのだ。
 村重が何度か地下牢に下りてくにつれ二人の人間関係は微妙に変化していく。官兵衛が徐々に精神的に優位に立ついくのだが、二人の駆け引きというか会話が実に面白い。
 最終章「落日孤影」で、官兵衛は村重に「何時まで待っても毛利は来ませんよ。摂州様が直々に安芸まで出向き毛利家当主に談判いたすべきかと」と語る。その言に触発されたか、天正七年九月二日、荒木村重は有岡城を抜け出る。

 村重が有岡城を落ち延びて行った後の登場人物のその後が語られる。特に村重の妻千代保(ちよほ)と竹中半兵衛の二人が光輝いて見えた。
 千代保は大阪本願寺の坊官の娘で、熱心な一向門徒。村重は、実はどの謎にも彼女が大きな役割を演じていたことに気が付く。その千代保、六条河原へと運ぶ車から下りると帯を締め直し、いささかも取り乱すことなく、穏やかに静かに首を切られた。物語には全く登場しないが、村重・千代保の子どもは後の岩佐又兵衛と言われている。
 救出された後、官兵衛は手打ちにされたと観念していた息子松壽丸(後の黒田長政)と再会する。官兵衛はわななく唇で「半兵衛殿は一命を賭して、善因を施されたのか。これが憂き世に抗うすべと申されるか、半兵衛殿」と。竹中半兵衛は信長の命に背き松壽丸の命を守ったのだった。
 完成度の高い作品だと思う。どんな賞にノミネートされるか今から楽しみに見守りたい。


『蓬莱町だより』と草津温泉場

2021年09月17日 | 銭湯

 草津亭を探そうと駒込神明町を何度か歩いのだが、最終的に辿り着いたのは駒込蓬莱町だった。駒込蓬莱町は1966年の住居表示変更後は向丘2丁目となった。目指す場所に行く前に区立図書館のHPに「駒込蓬莱町」で検索すると『蓬莱町だより』がヒットし、借りてきて読んだ。
 この冊子は文京区の町会のひとつ「蓬莱町会」が発行している『蓬莱町だより』を町名創始百周年記念事業の一環として一冊の小冊子にまとめたものだった。年に2回の発行で、創刊号から第85号(平成26年7月)までが載っていた。町会各部の活動報告のみならず、蓬莱町を通った市電や肴町あたりの様子など蓬莱町界隈の様々が書かれていて、読んでいて興味が尽きなかった。19号では「温泉まわり」が書かれ、第22号には「六番地の草津温泉のこと」が登場していた。

 そこには前回のブログに書いた事柄以外で以下のようなことも書かれていた。
 「現在は向丘2丁目16番地となっている角地から北方向にかけて広大な地域に、六番地の草津湯があった。藤谷彦一郎の経営する銭湯というより市内の温泉場で、同時に宿泊も出来た旅館をも兼ねた温泉旅館があった。現在改築中の浅草寺裏の草津亭という料亭も藤谷という姪の人が経営していたから同系列であったということは間違いないだろう」と。

 又混浴についても記述がある。「明治ご一新以来、東京府における湯屋の取り締まりをみても、何度も混浴禁止令が出ている。男女を隔日に分けて入浴させる様にしろとか、湯槽の中央に仕切り版を設けるなどとお触れがでている」
 さて、そんな知識を仕入れ、『ヒポクラテス』に登場する「郁文館の前、駒込蓬莱町6番地の記述を頼り出掛けていった。その位置は私が勤務していた向丘高校の、本郷通りを挟んで斜め前辺り。本郷通りを日医大に向かった左折する一歩手前にもう一本左折する道がある。その道の正面が郁文館だ。(上の写真で、赤で囲ったところが郁文館。水色囲いが蓬莱町6番地)
 最初に訪れた時は郁文館の裏手に回った。そこには「夏目漱石旧居跡」で、猫の像が2匹鎮座していた。その横にあった、蓬莱町の地図には郁文館と六番地が書かれていた。この地図を頼りに郁文館の前辺りを探索したが、明治の頃の建物の痕跡は殆ど残っていなかったが、古びた門構の中を除くと右と下の写真の様な景色が見られた。まあこの辺に草津温泉場はあったのだろうと一応の満足をして帰って来たのだった。





駒込蓬莱町にあった「草津温泉場」

2021年09月10日 | 闘い

 文京ふるさと歴史館発行の『近代医学のヒポクラテスたち』には文京区にゆかりの小石川養生所・順天堂や森鴎外などが紹介されていた。column記事も豊富で、その中の1つに「文京にあった温泉!?」が載っていた。学芸員・東條幸太郎氏による文で、駒込には草津温泉が、根津には「根津温泉 神泉亭」があったと書かれていた。
 『新撰東京名所図会』(第50編1907年)は、駒込蓬莱町六番地(現・向丘2丁目)にあった「元祖草津浴」について、「営業主藤谷彦一郎、上州草津温泉の湯花をうつし浴槽を開く、所謂薬湯なり。客室あり、料理あり、旅館を兼業とす。庭域広大にして(中略)・・・一日の清遊足る」とあった。要するに温泉付きの料理旅館だったのだろう。
 ただ当然草津から湯を運搬してきたものではない。湯の花を持ってきて湯に投入したのだろう。ここで思い出すことがある。草津温泉中沢ヴィレッジのログハウスに何度も宿泊していた頃には、この湯の花が必ず準備されていた。一袋入れるだけで湯は白濁した。それだけ草津の湯の花は濃厚で有名だった。
 しかし、10数年前のことになるが、信州白骨温泉の温泉源が不都合で湯を供給出来なくなったとき、とある旅館はそれを隠すため草津の湯の花で代用し、テレビで嘘がすっぱ抜かれたことがあった。それ以降ログハウスでは湯の花は使わなくなってしまった。
 明治の頃に既に草津の温泉の名前は全国区で、いとせめて湯の花を用い「草津温泉場」を名乗ったのだろう。

 右写真は草津温泉場の広告。31個以上の効能や入浴等の利用料金も書かれ、藤谷の名も見える。
 この温泉場付近に森鴎外が住んでいた。鴎外の弟森潤三郎著『鴎外 森林太郎伝』には「・・・郁文館の前に草津温泉があって、仕出し料理をするので私達は晩餐には度々取り寄せ、客の時は必ず此処に注文した」とも書かれている。
 更には又、明治時代発行の料理店の番付資料には前頭に「コマコメ草津温泉」が入っていることから、草津温泉は料理屋としても評価されていたことが窺われる。
 ふと、あることに気が付いた。草津亭のかっての経営者は藤谷氏で、駒込蓬莱町にあった草津温泉場の経営者も藤谷氏。これは偶然ではなく、両温泉場には何らかの繋がりがあったと見るべきだろ。  
 さて草津温泉場は現在どうなっいるのだろうと「駒込蓬莱町」を訪ねた。


草津亭は駒込の何処にはあったのか?

2021年09月03日 | 闘い

 もう10数年前のことになるが、「現在は浅草にある懐石料理・草津亭は明治の初めには駒込神明町にあったらしい」ことを知った。知人の鶴岡さんが代表を務めるNPO法人の主催で「在原業平は隅田川の何処を渡ったか」をテーマとするイベントが開催された折のこと。会場を借りての講義は妻が受け持った。その後隅田川に架かる桜橋近辺を散策し、最後に浅草の懐石料理店「草津亭」での会食となった。その折、妻は「草津亭は明治5年駒込神明町で産声をあげ、・・・」と書かれた掲示版を見たそうな。
 この話に興味を抱いた私は「草津亭は駒込神明町の何処にあったのか」を調べるため、かっては神明町と呼ばれた現本駒込5丁目付近を歩いた。駒込神明町は遊里のあった街。現在でも神明三業地とも呼ばれることがある。
 神明町のいわれは天祖神社が江戸時代には神明宮と呼ばれたことにちなむ。町の範囲は富士神社と天祖神社を含む一体と、不忍通りの北側。いずれにせよ私の日常生活の地域。そこに大きな花街があった。
 『東京 花街・粋な街』によれば、この花街は昭和4年以降短時間に急速に発展したらしい。芸妓屋78軒、芸妓202名、料理屋21軒とある。主な料亭には「伊豆栄」や「次郎長」などの名が挙げられていたが「草津亭」の名はなかった。戦前の最盛期には芸妓400人もいたらしいが、昭和20年4月と5月の大空襲でこの辺り一帯は六義園を除いて全て焼失していた。






 最近まで何度かこの付近を探索したが、今では往時を偲ぶものは何もない。「をどり」の看板の架かる一軒があるいはその名残か?
ネットでも調べたが、その場所は全く分からなかった。そのまま、年が流れていった・・・。







 今年に入り、「文京ふるさと歴史館」友の会々員となり、その縁で、平成22年の展示企画に「文京にあった温泉!?―駒込草津温泉場―」があったことを知った。早速、資料の有無を聞くと、この展示の資料はないが、平成24年度特別展『近代医学のヒポクラテスたち』には駒込草津温泉場が登場しているとのこと。早速図書館から借りてきて読むと、草津亭ではないは、駒込蓬莱町に「草津温泉場」があったのだった!(以下次回に)