マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

蛙坂と下弦の月

2018年12月01日 | 

 12月1日。今日から師走。今年もあとひと月。残り少なくなった。
 このブログ『マーちゃんの数独日記』と銘打っているが、毎日の出来事を記録する日記にはなっていない。日々見聞することや感じていることは多いのに、3日に一度程度の更新では書きそびれてしまうことも多い。その辺をどうしようか思案していた。結論は毎日更新しようと。それも”絵日記”に倣って”写真日記”として短文を綴り、数日に一度は今までの様な長文のものを挿入しようと、決めた。12月1日から暫くはそんなスタイルを開始することにした。

 昨日の早朝散歩は丸の内線「茗荷谷駅」付近へ。茗荷谷坂を下り、貞静学園裏の蛙坂を昇っていくと、「メゾン蛙坂」名のマンションが目に入った。こんな名前のマンションもあるのだと、その建物を見上げた。快晴のこの日、建物の間から下弦の月が見られた。これは面白い写真になると、慌ててカメラを向けたものが左の写真。
 11月にしては暖かく過ごしやすかった日。夕方から妻と「肥後細川庭園」に出掛けた。
 

 

 

 

  

   


『ぶんきょうの坂道』の坂を上り終えて

2016年02月09日 | 

 文京ふるさと歴史館発行の『ぶんきょうの坂道』には全部で115の坂道が載っている。一昨年までは精力的にこれらの坂道を歩いたが、去年一年は少しご無沙汰していた。目白台下にある“関口フランスパン”を訪れる機会を利用して、今年に入って目白台の坂の残りを全部上り、後は小石川台地を下る堀坂と六角坂を残すのみとなっていた。
 そこで7日(日)にこれらの坂に出向き撮影をして来た。『・・・坂道』には115の坂道が紹介されているが、既に坂道の痕跡がないものもある。小石川植物園内にあるとされる鍋割坂(病人坂)はついに発展出来なかったし、目白台地を神田川へと下る浅利坂は『・・・坂道』に「現在は家がたてこんで坂はなくなっている」と書かれ、両坂は写真も掲載されていない。
 ネット上「23区の坂道」では文京区の坂道117が紹介されているし、名前の付けられていない坂道が多数あることも考え合わせると、全部を上ったと言い切れるものではないが・・・。それでもこの時点を区切りに”完登”の感想を綴っておきたい。(写真:『ぶんきょうの坂道』の表紙は広重の相生橋)

 坂名の名付け方が面白い。坂名には坂上や坂途中にある神社・お寺や武家屋敷に由来するものが多い。
 金剛寺坂や蓮華寺坂・浄心寺などは寺名に由来し、安藤坂や伊賀坂・服部坂は武家屋敷名から採られている。上るのが大変なので胸突坂と命名された坂は3つ。昼なお暗かったからか暗闇坂との命名が2つ、等々。
 一番長い坂は?多分菊坂。広重『名所江戸百景』に登場する坂は?相生坂。個人名が登場する坂は?実盛坂。クイズ問題が出来そうである。
 ここで、私好みの坂を3つ挙げたい。それは鷺坂と鐙坂と胸突坂(芭蕉庵脇)
 鷺坂は小石川台地を音羽通りへと下る坂で坂の周りの石積が美しく直角に曲がっている。(写真:鷺坂)



 鐙坂は、昨年に閉店した菊水湯そばの坂道で『改撰江戸志』には坂のかたちが鐙に似ているから名付けられたのだろうと書かれている。やはり石積が見事で、坂途中には金田一京助旧居もある。(写真:鐙坂)










 水神坂とも呼ばれる胸突坂は長くて急な階段状の坂道で、坂下には芭蕉庵が、西に神田上水を守護する水神社がある。芭蕉庵は、松尾芭蕉が上水工事にかかわって、この辺りに居住したと伝えられるゆかりの地で、「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の句の真筆を埋めたと伝えられるさみだれ塚がある。(写真:胸突坂)
 最後に面白い名前の坂5つ。妻恋坂・炭団坂・異人坂・お化け階段・鼠坂。



         (芭蕉庵)  
 本書は坂名と所在地だけでなく、その由来やエピソードなどが紹介されていて、坂道探訪の良きパートナーであったことも書き添えておきたい。坂めぐりは歴史巡りでもあった。


『文京をとことん楽しむ!』講座に参加

2013年03月23日 | 

 3月19日(火)の夜、文京アカデミー特別講座に参加した。会場は文京区シビックセンター26階にある「スカイホール」。その下の25階は展望ラウンジで、ここからは、東京スカイツリーや新宿副都心の高層ビル群が望め、富士山・筑波山を初め多くの山々が見渡せる。東京の夜景も楽しめる。レストラン「椿山荘」もあり、何度も訪れていたが、26階での催しには初めての参加で、どんな会場なのか、そこにも関心があった。
 
 会場は100人強の収容能力はある、半径の大きい円形の会議室で、やや高い壇上で講義をすることも出来る様に作られている。今夜の「文京をとことん楽しむ」講座の講師は、イラストレーターにして著述家の林丈二氏。1977年に出版した写真集「マンホールのふた」がデビュー作で、以後数冊の本を出版。路上観察の第一人者であるという。パワーポイントで作成した作品をプロジェクターで拡大しての説明。生徒数は約70名ほど。
 まず”前座”として文京建築会のユースの会副代表栗生はるか氏が登場し、会の活動の様子を語った。1日で60体の狛犬を撮影してまわったり、文京の坂道を訪ねその名前の由来を考えたり、銭湯のタイルをなぞったりしているとのこと。私も同じようなことをしているなと思いながら話を聴いた。(写真:プロジェクターによる映像。文京区の”区”は挿入ミスとのこと)

 真打ちが林氏で、彼の紹介する楽しみは具体的なテーマを決めて区内を歩きまわること。具体的にこんなことをして来ましたと幾つものテーマが紹介された。
 ”明治24年11月8日に樋口一葉が歩いた道をたどる”
 ”明治25年3月9日に樋口一葉が歩いた道をなぞって歩く”
 ”かつて文京区にあった牧場を巡る”
 ”マンホールのふたを撮影する”(マンホールのマンとは、この穴には人間がようやく入れる程度の大きさしか無いから、人間のマン+ホールと呼ぶことを初めて知った)
 ”郵便ポストを探す”
 それ以外にも、防火水槽・消火栓・照明灯・小さな路上植物園などなどを探して撮影して来た
様子が、写真と共に紹介された。文京区立誠之小学校出身者らしく、文京区のこんなことまで知っているのかと、うなるほど細部のはなし。彼の勧める「文京をとことん楽しむ」方法は、煎じつめれば「テーマを決め、細部にこだわって区内を隈なく探索する」こと尽きる。分かりやすい方法論で私も既に実行している事ではあった。(写真:こんな幅の薄い階段も発見したとの話)





 終わり近くに、テーマは照明灯になり、そこで富士神社の照明が登場した。その説明によると、この照明灯は、明治10年に築地に灯されたガス灯と同じ様式とのこと。私が毎日通うラジオ体操の広場にすっくとたっている照明灯が明治10年代のものとは。全く知らないことであり、本当にそうなのか、ラジオ体操の長老沢さんに聞いてみたが、分かりませんとのこと。これはもう確かめようが無い感じで、面白い話なので信じることに決めた。(写真:富士神社内にある照明灯)

 


『のぞき坂』から覗く

2013年02月16日 | 

 東京が大雪に見舞われた1月14日(月)の翌日の朝、「のぞき坂」別名胸突坂が、テレビに登場したそうで、想像するに、この坂がにわかゲレンデに早変わりし、にわかスキーヤーの滑降が見られたのだろう。私の関心はその映像よりも”東京で一番の急坂”の一番にあった。目黒区で生まれ育った私にとって、行人坂と富士見坂こそが、区内で一番急な坂と信じて疑っていなかったからだ。
 品川区にある東急線目黒駅から、途中大円寺を左手に見て、目黒雅叙園へと下る行人坂。途中都立教育相談所を右手に見て、目黒川の造る谷側へと下る急坂の富士見坂。特に中学生時代の印象が強いが、これらの急坂を何度も上り下りした。私の知っている坂の方が急坂だぞとの思いから、のぞき坂と比較したくて、月の湯と併せの、2月12日の”訪問”と相成った訳だ。

 目白駅から目白通りを椿山荘方向に進む。台地を切り通して出来た明治通りと立体交差し、直ぐを右折するとのぞき坂だ。坂上に立つと、なるほど急な坂が真っすぐに伸びていて、下まで見通せる。彼方には高田馬場の街の屋根並みと、その向こうに新宿のビルも望める。坂を下り切る辺りは上りかと思えるほど凹に湾曲しているよう見える。ただ行人坂と比較して、こちらの方が急坂だろうか。見た目には分からないし、比較する術が無い。下り切ってから、逆方向の上りに掛って初めてこれはキツイ登りだと実感した。行人坂ではここまでの厳しさは経験しなかった。なるほど恐れいりやした。
 胸突坂とのネイミングも頷けるが「のぞき坂」が良い。崖から下を覗く、そんな雰囲気が坂名から連想される。(写真:のぞき坂)


 目白通りを更に東へ進むと、豊島区と文京区の区界の「日無坂」。鷺宮高校に勤務していた頃、深酒をすると、必ず高田馬場からタクシーを利用した。どのドライバーもこの坂を上り、不忍通りへと抜けた。そんな理由で何度も通った坂だが、歩いたことはなかった。こちらも神田川方向へと通じる坂。のぞき坂ほどの急坂ではないが、長い真っすぐの坂だ。下り始めてすぐ、階段状の坂が左手へ枝分かれしていて、両坂に面して立つ日本家屋が印象深かった。偶然にもその翌日に、WOWOWで観た「八日目の蝉」で、誘拐・解放された後、成長した主人公が自転車で下る場面を見て、”日無坂だ”と私は叫んでしまったが、果たして正解か?映画に坂と川が登場すると、さて何坂・さて何川などと、枝葉末節が気になってしょうがない。(写真:日無坂
 
 (日無坂と枝分かれの坂)           (人気のない幽霊坂)

  
 この日は目白台運動公園脇の幽霊坂と小布施坂(両坂とも初めての坂)を下り、永青文庫へ通じる胸突き坂を登り、月の湯へと回った。区内の、名の付いた坂は115。”完坂”まで残るはあと僅かとなった。(写真:小布施坂)

 

 

 

 


   (小布施坂上の公園から新宿方面を望む)

     (神田川上の橋から椿山荘ホテルを望む)


東京に、又雪が降る

2012年02月29日 | 

 今日の未明から又雪になった。今日は本来ならば、家人と目黒雅叙園の百段階段を観にいく予定だった。友人宛てのメールにもそう書いたら、雪の坂にお気をつけとの返信メールを頂いていた。
 それなのにである。早朝のラジオ体操にも出掛け、その気になっている私に反し、寒さに弱い家人は躊躇いがちで、結局後日に延期した。そこで出たがり屋の私は、雪の六義園から鐙坂・曙坂と巡ってきた。今日のブログはその写真展。


 ①富士神社社務所でのラジオ体操に出掛けると、Sさんから1枚の写真を渡された。10数年前の雪が降った日の朝、ある方が雪ダルマならぬ雪狛犬を作成、Sさんはそれを写真に撮影したとのこと。10数年前の富士神社の様子が分かる貴重な写真なので借りてきてコピーした。(写真① 10数年前の富士神社








 ②の数枚は久し振りの雪の六義園。訪れる人は疎らだけれど、皆写真撮影に精を出していた。(写真②:雪の六義園 以下同じ)


















 



 ③は鐙坂。実は1月28日の朝日新聞夕刊に”坂を歩けば江戸情緒”と題して登場し、「日本坂道学会」を形成する上野勝さんが「江戸情緒がたっぷり残る一押しの坂」として紹介していた。私は「菊水湯」を訪ねた時にこの坂を発見し、私のお気に入りの坂でもある。掲示板には馬につける鐙に似ているところからその名が付いたと書かれている。晴れた日の鐙坂は3度ほど観ているが雪の鐙坂は初めてで、
たいし撮影もしたくて敢えてここを訪れたが雪はかなり消えていた。(写真③ 鐙坂


 ④曙坂。文京区立誠之小学校付近の坂。坂と言うよりは階段。結局今日は百段階段を観る代わりに四十段ほどの階段を昇る事となってしまった。(写真④ 曙坂)











⑤おまけ。早朝、我が家から見た屋根屋根屋根。