マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『修羅走る・関ヶ原』(著:山本兼一 出版:集英社)を読む

2014年12月31日 | 読書

 『軍師 官兵衛』が最終回を迎えた12月21日(日)に、『修羅走る・関ヶ原』を読み始めた。これは全くの偶然で、大河ドラマは、安倍首相の不意打ち解散のあおりで一週間先延ばしにされ、一方、本書は4ヶ月も前にオンライン予約しておいたものだが、20日、不意に“ご準備出来ました”とのメールが到着したのだった。“不意”のドッキングのなせる偶然だった。

 『関ヶ原』は、この戦場に立った視点武将17人を設定し、1600年9月15日の一日の戦いを描き出した。石田三成や徳川家康は当然のこととして、黒田長政・島左近・福島正則など大名・武将のみならず、三成の部下の土肥市太郎なる武将の視点からも物語は語られる。
 登場人物ごとに、彼の過去が記述され、この戦いに参戦する経緯が語られるが、著者が一番描きたかったのは、武将たちの覚悟と死生観だ。
 
 物語は15日未明、笹尾山に陣を張る三成のもとに、小早川秀秋の家来松野主馬が主君の裏切りを注進する場面からスタートする。それを聞いた三成は、秀秋の裏切りを阻止し、家康の首を狙つべしと、土肥市太郎・次郎に密命を授ける。最終的には、秀秋の裏切りによって東軍は勝利することになるのだが、秀秋の裏切りが、後半まで、ストーリーを貫く柱になっている。”義”を唱え主君の裏切りを阻止せんとする主馬の必死の思いが、私の胸をうち、戦場を駆け巡る市太郎の活躍にわくわくする。。 

 独立して語られていたことが、相互に関連を持っていることが次第に明らかになり、幾つもの伏線が大団円に向かって収斂していく。史実ではないだろうが、戦いに敗れ自刃した大谷刑部から、市太郎を通して、かっての盟友正則へ、一通の書状が届けられる。そこにはただ”くれぐれも”とのみ書かれていて、正則は刑部の豊臣家を思う気持ちに震える。

 細部も面白い。島左近と後藤又兵衛が刀を交える場面がある。実際はどうであったかわからないが、西軍の左近と、東軍に属する黒田は最前線で対峙していたから、そういう場面があっても不自然ではない。“三成に過ぎたるものの二つあり、島の左近と佐和山の城”とうたわれた左近と、黒田節で後世に名を遺した又兵衛。両者は落馬し取っ組み合いとなるが、石田本陣が危うしと見て左近は、去っていく。

 本著は、今年2月に胸の病で亡くなった、山本兼一の遺作である。自らも死と直面しながら、戦場という修羅場に身を置き、死と向き合わねばならなかった男たちの覚悟のありようをこそ、彼は執筆しだかったのだろう。最後まで、小早川秀秋の視点を登場させないところに山本の想いが汲み取れる。
 
 今年も間もなく暮れます、良きお年を。
 
 
 


朔旦冬至、19年に一度は何故?

2014年12月29日 | 地学・天文

 冬至と新月が重なる“朔旦冬至”。19年毎の事とは、新聞やテレビでも報道されたことなのだろうか、ラジオ体操帰りの、人の輪でも話題になっていた。12月23日(火)のブログで、私は何故19年毎なのか、数値的に説明が出来ないでいると書いたが、この問題は時折、頭に浮かんでいた。
 簡単に考えれば、この問題の本質は、中学受験にも登場する”再会”問題なのだ。例えば、「宮下公園に、週一度ラジオ体操にやって来るカズオさんと、3日に一度やって来るトモコさんが、今朝公園で会いました。次回会うのは何日後ですか」。お受験に出される問題はこれより複雑になっているが、問題の正解は、7と3の最小公倍数の21で、21日後。6日毎に来る人と、8日ごとに来る人ならば、正解は6と8の最小公倍数から24日後。

 365.2422日後に再びやって来る“冬至君”と、29.5306
日ごとにやって来る”新月”さんは、2014年12月22日に会いました。再会はいつでしょう。問題はそうなるから、365.2422と29.5306の最小公倍数を考えれば解けるはずである。ところが最小公倍数も最大公約数も整数の世界の問題。少数が絡むと上手く解けない。両方の数を100倍し、少数部分を切り捨てた、36524と2953の最小公倍数を考えたがこれも失敗。多分、近似値計算が関わるはず。

 25日に小田原へ向かう電車の中でも、この問題を考えていたが、終点間際に、良いアイデアが浮かんだ。というほどのことではないが、冬至から冬至に至る、365.2422の整数倍と、新月から新月に至る29.5306の整数倍の表を作り比較する、という考え。これはパソコンの得意分野だ。
 旅にはタブレット「Surface」を持っていくことが多い。宿着後、早速、「エクセル」を開き、列側に29.5306の整数倍、行側に365.2422の整数倍を作り、その差の一覧表を作成し、差が1日以下となるセルを調べたころ、 新月が235回目と、冬至が19回目がピップアップされた(下の表参照)。具体的に記すと
 冬至側  
265.2422×19=6939.602
 新月側  29.5306×235=6939.691
 となり、その差が0.089日。
 
 19回目の冬至と235回目の新月が同一の日となる。というわけで、次回の朔旦冬至は19年後。

 もっと、上手い。簡単な説明を気が付かれた方はコメント下さい。

   と書いてきて、誤りに気が付いた。(ここまでお付き合い頂いた方、スミマセン)
 実は、2033年12月22日は新月だが、冬至は12月21日と一日前にずれてしまう
。22日に新月さんがやってきても、冬至君は前日に来てしまっていて再会出来ない。未来版”君の名は”。
 ”
朔旦冬至は19年に一度が原則”と言うべきなのだ。2033年は1日のずれ。更に19年後の2052年は朔旦冬至。

 


ハーヴェストクラブ熱海伊豆山へ

2014年12月27日 | 

 暮れも押迫った12月25日(木)に「ハーヴェストクラブ 熱海伊豆山」に宿泊して来たのは、空き室がこの日しか無かったから。今年2月に宿泊し、是非、再び訪れたいと思っていた。3ヶ月前の予約優先権利のない私たちは、何度かオンラインで予約状況をチェックし、漸く、空いている日を見出し、その執念実っての”勝利”。
 駒込から熱海へは、小田急線経由ではなく、東京駅経由で、JRのみの利用。小田原へなら小田急線利用の方が安くなるが、熱海迄だとジパング倶楽部3割引きがお得。ジパング倶楽部は年末のこの時期辛うじて使用でき、熱海への往復切符が購入出来る。問題は、100キロ以上の切符なのに途中下車が不可。そこで熱海の一つ先の「函南」まで購入(東京電環から函南までは熱海までと同一料金)。この様に購入すると、“途中下車”の例外規定を外せる。(途中下車に関しては  https://www.jreast.co.jp/kippu/05.html 参照)

 東京駅始発10時12分発の小田原行き15号車に乗車。この車両にもボックス席があり、旅行気分が十分味わえる。空いていたので、二人でボックスを占領し、ゆったりと1時間半の乗車で小田原下車。昼食はお気に入りの「菜たんこん」。昼食後熱海から宿のマイクロバスでハーヴェストへ。
 フロントでアクシデントがあった。私たちの申し込みは通常料金の部屋の積りだったが、予約は一室5000円ほど高い部屋と言われ愕然。宿のミスか、私たちの勘違いか。電話予約の時に「和洋折衷の部屋ならお取り出来ます」と言われた様な気がしないでもないが、その言葉が、5000円お高いというシグナルだったらしい。今更ここで引き返す訳にもいかず、妻はOK。ポイントが溜まっていたのが幸いした。お蔭で、和洋折衷の、広くて豪華な部屋から駿河湾・太平洋を一望できる恩恵に私は浴した。

 正面に初島とその先の遠景に大島。遥か右手彼方に伊豆半島。夜には熱海の街の夜景が。早朝6時50分過ぎには日の出を拝むことも出来た。
 この宿は、ハーベストの中でも最新に近い。東京から近距離にあり交通費もお安い。露天風呂の温泉からの展望と、質の高いバイキング料理。更に至る所でリゾート気分が味わえる施設・雰囲気が用意されていて、ハーヴェストの中では一番人気。毎夜のバイキングがそれを物語っている。
 今回の旅ではあまり出歩かず、ぼけっとリゾートして来た。(写真:日の出)



       (早朝の初島)


     (奥の湾が熱海の中心街)


     (大島はうっすらと霞んでいた)


     (夕暮れに、伊豆半島)


『ボストン美術館 ミレー展』を観る

2014年12月25日 | 映画・美術・芝居・落語

 12月24日(水)、三菱一号館美術館で「ボストン美術館 ミレー展」を鑑賞してきた。

 東京新聞販売店の読者サービスの抽選に応じての当選。こうやって手に入れたものはそう価値が高いとは思えないのだが、美術館チケット売り場で入館料を見て驚いた。大人1600円とある。この建物へは昨年の7月6日に、新協建設主催の”訪ねる会”で訪れたが、入館は初めて。三菱美術館は友の会の会員になるにしても、年会費1万円とお高い。サントリー美術館の年会費5000円と比較するとよく分かる。

 

 




 例によって横道の話が長くなってしまったが、この「ミレー展」、絵画を観る楽しみを改めて教えてくれた。
 ミレーは1814年、フランス・ノルマンディー地方の、海辺の小さな村に生まれた。その生誕200年を記念しての展覧会。ボストン美術館に所蔵されている多くに作品が展示されていた。
 「種まく人」などでは、労働に精を出す農民の写実的な動作が美しく見える。プロレタリア絵画とは呼ばれないのだろうが、今までの高踏的な絵や、貴族的な絵画から見れば、革命的な題材だったのだろう。フランスでは絶賛のみならず、多くに批判をも浴びたそうな。
 私は気に入った絵の絵葉書を購入した。右写真に見る「馬鈴薯植え」はその1枚。ロバの傍らに子供を寝かせ、馬鈴薯の種をまく夫婦ふたり。平安で穏やかな日常が凝縮・象徴されている。

 一方、彼はファンテーヌブローに定住し、その森の様々な風景を描いたが、細道や小川やブナの古木などの、鬱蒼とした風景は、北八ヶ岳や奥秩父の山々を歩いているとき見た光景と似ていて、しみじみと懐かしく感じられた。日本の絵を観ることの方が多かった私には、バルビゾン派の絵画は新鮮だった。



     (刈入れ人たちの休息)



 
 (日没前の光に照らされるイガマメ畑)     (糸紡ぎ、立像)


冬至に、ゆず湯とかぼちゃ

2014年12月23日 | 身辺雑記

 昨日の12月22日(月)は冬至だった。天文学的には太陽黄径が270°になる瞬間。昼が一番短い日。昨日の、日の出から日の入りまでは9時間45分しかなかった(日の出時刻はまだ遅くなるが)。この日はゆず湯に入り、かぼちゃを食べると風邪を引かないと言い伝えられている。風物詩に関心の薄い私だが、文京区の“シニア入浴シール”12月分が余りそうなので、「ふくの湯」へ出かけ、かぼちゃ半分が冷蔵庫に眠っていたので、妻にかぼちゃスープの調理を頼んだ。

 「ふくの湯」到着は16時45分。何時もより凄く混んでいた。カランは数か所しか空いていない。私の記憶とは異なり、ゆずは個体で浮いているのではなく、湯船に繋がれた袋に入っていた。一人しか入れない、甕風呂でのんびり湯に浸かりながら、ゆず袋に触ると、袋の中でゆずは割れていた。店主が新たに入れたゆずは割れてはいなかったから、時間が経過すると割れてくるのかと想像した。
 
 心なしか、何時もより温まった感じを抱きながら帰宅すると、妻はかぼちゃを煮ていた。その柔らかくなったかぼちゃをバーミックスで粉砕し、後は調味料を加味し、とろ火で長時間煮込んでいた。私の仕事は、2ヶ月前に、かなり固かったかぼちゃに包丁を入れ、ハーフにしただけ。このスープに出会い、終戦後沢山食べさせられて嫌いだったかぼちゃを好物へと変化させてくれた妻に感謝。


 実は昨日は新月でもあった。かって冬至は、新年の初日とされた日。一方、新月は月の初日。両方の初日が重なるのは珍しく、それだけ目出度い日とされてきた歴史があるらしい。“朔旦(そくたん)冬至”と呼ばれることを、ネットサーフィンしているときに知った。次は19年後とか。今年の元旦は新月だった。私がよく利用するホームページ“月齢カレンダー”(http://koyomi8.com/moonage.htm)で調べると、次に、元旦が新月と重なるなるのは2033年。こちらも19年後だ。この19を、私は数値で上手く説明出来ない。
 ただ、今年の元旦(20時)が新月で、そこから12回目の新月が12月22日(11時)であったことから、この間の経過日数354日13時間を12で割ると29,54を計算で導き出すことができる。月齢29,53日の良い近似値となっている。

 何故冬至にゆず湯であり、かぼちゃなのだろう?かぼちゃはこの時期まで保存が効き、栄養的(ビタミンAやカロチン)にも望ましい野菜なのだろうか。ゆず湯は格別に温まるから、が私の実感。

(以下の写真は、今朝「ふくの湯」で撮影したもの)


   (甕風呂)

 
(丸山清人さんが3年前に描いた富士山)