マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『・・・末の松山浪こさじとは』

2012年03月11日 | 文学

 3月4日(日)の日経新聞朝刊に、「鉄塔家族」で大仏次郎賞を受賞した佐伯一麦が「震災と歌枕」と題する一文を寄せていました。初めて知った事柄で、非常に興味を持って読んだ記事内容をまとめてみました。

 ≪仙台市の北隣に、人口6万人余りの多賀城市がある。東日本大震災では津波による被害も大きかった。その住宅地には「末の松山」という歌枕がある。
 ”君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波もこえなむ”(905年奏上の東歌)
 ”ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは”(百人一歌に取られている清原元輔の歌)
 などをはじめとして、「末の松山」は多くの歌人たちに詠まれ、反語的な表現もあるが、いずれの歌も、末の松山を波が越すということは起こりえないとの意で用いられている。
 
 869年の貞観津波の際に、陸奥国府の置かれていた多賀城近くの小高い丘の上の末の松山だけは波が超えなかった、との口伝えの噂が都人の耳にも聞こえ、それが歌枕の故事となったのではないか。
 今回の津波でも、波は「末の松山」を越えなかった。その麓近くには芭蕉が同じく『奥の細道』で歩いた歌枕「沖の石」があるが、こちらには津波が押し寄せた。
 慶長三陸津波の78年後の1689年に芭蕉は多賀城を訪れて、古人の心を想っては哀傷の思いを深めた。芭蕉にとって、旅に出て歌枕を訪ねることは、厄災のなかで生きた古人たちの心へつながることだったのだと、いまにして改めて思われる≫と綴り、
 ≪今回の震災によって、古の歌枕を改めて再認識させられると同時に、陸前高田の奇跡的に唯一残った松のように、新たな歌枕も生まれるかもしれない。だが原発事故の被災地が歌枕となることは考えにくく、それも原発のやりきれなさを象徴しているのではないだろうか≫と結んでいる。

 従来から、文献研究者には存在が知られていた貞観地震はマグニチュード8.3以上と想定され、それに伴う巨大津波の甚大な被害の様子は、口伝で京にも伝えられた。都人が、当時の鄙なる地多賀城の末の松山を歌に登場させるほどの強烈な言い伝えだったと、私にも理解出来たのでした。