マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

今日から巻機山へ

2017年07月31日 | 山旅

 今日から2泊3日で巻機山(まきはたやま。標高1967m)へ。メンバーは、8日の奥高尾縦走のときと同じで、草野さん夫妻・若菜さん・私の4名。31日(月)は新潟県南魚沼市清水の民宿に泊まり、8月1日(火)に山頂を目指し、巻機山避難小屋泊。2日(水)に帰京の予定。
 記憶に間違いがなければ、今から36年前の1981年に草野さん夫妻・向丘高校若手同僚を含む5人で、割引沢を詰めて山頂に立った。頂上付近にテントを張り、調理もしたのだが、その記憶は微かにしか残っていない。ただ、頂上付近には池塘や高山植物が豊富で、たおやかな風景が拡がっていたことはよく覚えている。その風景にもう一度出会いたくて、再度頂上付近に宿泊するのだが、天気予報によればイマイチの天候だ。僥倖に恵まれれば、高山植物にも出会えるだろうが・・・。てなわけで、ブログ更新は一時休みます。

 この数日間、山行の準備と「花火鑑賞会」の準備で気忙しかった。
 29日(土)の隅田川花火大会は雨中での開催。こちらの鑑賞会は屋上故に、雨の中の開催とはいかない。急遽、場所を屋上からエントランスホールに変更しての「懇親会」とあいなった。延べ40人ほどの参加で、花火というツマミは無かったが、焼きそば・唐揚げ・ウインナー・ピザなどを肴にご酒と会話を楽しんだ。花火鑑賞は出来なかったが、皆満足そうだった。

 最近引っ越しをされて来た方に中国人がおられる。3世帯同居のご家族のようだが、そのおばあちゃんと勤務持ちの娘さんも参加。丁度良い機会だったので、中国の故郷のことなどを伺った。おばちゃん一人のときは言葉の壁のため会話が進まなかったが、日本の会社に勤め、日本語が流暢な娘さんを交え、おばあちゃんとも話が出来た。花火鑑賞会で一番嬉しかったこと。
 焼きそばとウインナーは自宅で妻が調理し、ラジオ体操仲間のUさんがそれを1階まで運んでくれた。今回は島田屋の焼きそば使用の効果か、”この焼きそば美味い”と売れ行きが良かった。二人には感謝!感謝!。こちらも嬉しかった。
 


忍川を求めて(その3・おかず横丁)

2017年07月29日 | 東京散歩

 7月21日も19日同様「佐竹商店街」に続いて「おかず横丁」に回った。
 「
佐竹商店街」南出口から清州橋通を真っ直ぐ南に向かうと蔵前橋通と交差する。その手前に「おかず横丁」入口はあった。「おかず横丁」は蔵前橋通の一本裏通りの、長さ230mの商店街で、正式名称は「鳥越本通り商盛会」。





 この辺の地理には詳しくなかったが、帰って来て地図を眺め、新たなことを知るのも又楽しい。
 蔵前橋通は文京区のサッカーミュージアム入口交差点を西の端として、東西に走り、隅田川・旧中川・荒川・新中川を跨ぎ、江戸川に架かる市川橋まで続いている。その隅田川に架かる橋の名前が蔵前橋。
 清州橋通は隅田川に平行するかの様に南北に奔っているが、南下するにつれて次第に隅田川に近づき、清洲橋で隅田川を越える。蔵前橋・清洲橋ともに隅田川に架かり、両橋の間に両国橋と新大橋が造られている。
 「
おかず横丁」は「佐竹商店街」よりも庶民的な感じのする商店街で、下町の雰囲気が濃い。夏の午後の暑い時間帯での散策だったからか人通りは疎らだった。その日は入らなかったが気になる店を写真に撮りながら、ぷらぷらと歩いた。(写真:「魚米」)
 
  
            (煮物「入舟屋」)

 すると、右写真の看板が目に入った。納豆に釣られて入った店が郡司味噌漬物店。間口は狭いが奥行きの深い店。納豆が好物の私には堪らない。3パック入りが
300円と、普段購入するものよりかなり高い”うまい納豆”を買ってしまった。翌朝早速、トーストの上に納豆を乗せて食した。我が家では“ナット―スト”と名付けた一品。流石に美味しい納豆で、これは癖になりそうな味だ。




    
 
水茄子も求めたがこちらは午前中に完売とのこと。「いつも木曜日に仕入れますが、金曜日の午前中には売り切れてしまいます」とは若き店員の言。次回は木曜日に来ますと言って店を後にしたが、実に感じの良い応対でありました。
 更に進むと、大勢の母親と子供たち。何の店だろうと覗き込むと和菓子屋「港家」。後日ネットで調べると、ここにはかき氷の老名手がいるらしく、この商店街の中で二番目の有名店(一番は”孤独のグルメ”に登場した居酒屋「まめぞ」)。350円の氷宇治は絶品とのこと。次回はこちらの店にも回ろうと思ったのでありました。




 商店の殆どは日用食料品のお店。1949(昭和29)年に二つの商店街を一本化して現在の「正盛会」となったとか。家内工業の多いこの一帯では、主婦にとっては夕食などの準備の手間が省け、大変有難い商店街だったことだろう(今でもそうか)。戸越銀座や東十条に較べれば、店数も60数軒の小規模な商店街だが・・・。閉店雰囲気の店が殆どないのが嬉しい。


忍川を求めて(その2・佐竹商店街)

2017年07月27日 | 東京散歩

 721日には妻を誘い、二人で「佐竹商店街」と「おかず横丁」を歩いて来た。この時は都営大江戸線「新御徒町」で待ち合わせ。A2の出入口から地上に出ると直ぐそこが「佐竹商店街」の入口だった。








 この商店街は実にユニークだ。
 ここは、
江戸時代は出羽久保田藩20万石(藩主佐竹氏)の上屋敷だった。明治になって上屋敷や周りの武家屋敷は撤去され、“佐竹ヶ原”と呼ばれるほど荒れ放題だった時期もあった。その後、見世物小屋が集中して賑わうようになり、明治半ばからは民家が立ち並び、商店街も形成されるようになった。大正初期には戸数3813戸、人口12034名にまで膨張、下町佐竹の名は東京中に響きわたり、明治から大正時代にかけての黄金時代を築き上げていったとか。存じませんでした。

     

 江戸時代の地図に現代の地図を重ね合わせると面白い。屋敷の真ん中に商店街の道路が南北に奔っている様になる。(右図)。アーケードになっているのは武蔵小山商店街などと同じだが、アーケードの天井から下がる垂れ幕でいろいろの事実を知った。「佐竹商店街は日本で2番目に古い商店街です」とある。1番古い商店街は金沢の片町商店街で、そこに続いて明治31年に商店街組合を結成したそうだ。
 
「のどの薬龍角散は秋田佐竹家の家伝薬だった」ともある。商店街の名前に“佐竹”を使用したり、佐竹家伝薬を登場させたりで、ここの人々の“佐竹家”への愛着が伝わって来る。
 「夏目漱石は東上野で小学校時代を過ごした」とか「樋口一葉は下谷御徒町に住んだことがある」、「佐竹に明治時代見世物の大仏があった」などの垂れ幕も見える。こちらは御愛嬌か。

 
       (大正時代の商店街)

 昭和レトルト調の雰囲気の漂う店構えが多い。飲み屋さんもちらほら。残念ながら閉店してしまった店も見受けられる。布鞄工房HOSONOには立ち寄ってみた。買いたくなるような商品が多数。
 
  


 私達がそこを歩いたのは16時くらいなので、街が賑わう時間にはやや早すぎた感がある。私的には一杯引っかけたいのだが、お酒が飲めなくなった妻はケーキ屋さんや珈琲店志向。この日は猛暑日だったので喉が渇き、佐竹商店街を出てから“かき氷250円”の張り紙に惹かれて
和菓子屋「東洋庵」に寄った。そこの店主と話し込んだ。昭和13年生まれの店主曰く「ここは忍川が流れていました。その先が三味線堀でね」。昭和13年生まれというから、その頃には忍川も三味線堀も既に無い。親から繁栄の話を聞かされてきたのだろう。
   
        
  (頭が痛くならない、粉雪のようなかき氷)

 そのときに、佐竹商店街と三味線堀が結びついた。鳥越川を堀り広げて三味線堀を造ったのは佐竹商店街へ物資を運ぶ目的ではなかったかと。
(写真:三味線堀の絵。左側が佐竹商店街とのこと)
 
 帰路は大江戸線を1駅歩いて上野御徒町へ。吉池に寄って魚物を購入して帰って来た。次回は夜の佐竹商店街を歩いてみたい。


忍川を求めて(その1)

2017年07月25日 | 江戸の川・東京の川

 719日(水)と21日(金)の二日間、不忍池から流れ出ていたという忍川はどこを流れていたのかを知りたくて、東上野・元浅草・小島・鳥越など台東区南部を歩いてきた。
 忍川は人工的に造られた川で直角に曲がったりする。何処を流れていたかを歩きながら探るのは難しいと判断して、出掛ける前に流路推定の為に下調べをした。コンピューターソフト「江戸・東京重ね地図」、『旅の達人 全東京地図』、『復元江戸情報地図』に拠ると、不忍池からの放水は、忍川→三味線堀→鳥越川→隅田川と流れていた。その流路のそばには「佐竹商店街」や「おかず横丁」もあることを知り、これは楽しい散歩になると予想された。今日はその見聞記。
 ブログ最下段の
地図a図は江戸時代の水の流れ。その下の地図b図はその現代版で、流路には青い線を付けた。忍川は不忍池から三味線堀まで流れていた。
(1)不忍池の排水口
 
不忍池の西南に右写真の排水口があった。現在、そこから水はかっての忍川を流れているとは思えないが、ともかくこの辺りが忍川のスタート地点だった。














(2)三橋
 
流れは池を出ると直ぐに「三橋」と呼ばれる橋が架かっていた。現在の、不忍通りと中央通りの交差点「上野四丁目」付近には三本の橋が架かり、江戸市民はその橋を渡って上野のお山へ上っていったとか。右写真の如く『復元江戸情報地図』からも三本の橋が架かっている様子が分かる。“三橋”という地名は現存しないが、上野広小路付近の和菓子処「みはし」はそこから来ている名前とか。






(3)三味線掘まで
 
アメ横を横切り、「忍川橋架道橋」の下を通った。今回の散策で“忍川”の名前に出合った唯一の場所。川は無くなったが、その上をJR線が通っている。昭和通りを潜って抜け、直ぐを右折すると春日通りに出る。その通りを東に進み、清洲橋通りと交差し右折。この通りに沿うように忍川は流れ、三味線堀に達する。




  
         
   (架道橋下より商店街を見る)       (昭和通りは地下的空間を潜る)

(4)三味線堀
 
看板には次の様に書かれていた。「三味線堀は、現在の清洲橋通りに面し、小島1丁目付近の西端に南北に広がっていた。1630(寛永7)年に、鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から“三味線堀”と呼ばれた。・・・堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の整備にともない、次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである」と。(写真:佐竹商店街のお店で撮影。三味線堀の絵)

(5)鳥越川
 
三味線堀から下流は鳥越川。“鳥越”の名は町名にも神社名にも残り、鳥越祭りなどビッグの名前として残っている。清洲橋通りを南下し「おかず横丁」を越えて蔵前通りとの交差を左折し、そのまま真っすぐ進んで隅田川に注いでいた。

 忍川は明治年間に暗渠化された。

 7月19日は蔵前橋まで歩いて散策終了。
江戸の町は水の街であったと改めて思ったのでした。
次回ブログは「佐竹商店街」と「おかず横丁」の予定(写真:蔵前橋より上流を望む)



                             

            

             
  

    
                            地図a図
 
 
                           地図b図




「紺屋と高尾」を観る

2017年07月23日 | 映画・美術・芝居・落語

 7月4日(火)、頂いたチケットで新橋演舞場「七月名作喜劇公演」夜の部を観て来た。(1)お江戸みやげ (2)紺屋と高尾 の二本立て。どちらも楽しく観られたが、特に「紺屋と高尾」は面白く、会場は笑いの連続だった。
 「お江戸みやげ」では芝居見物に来たお辻(波乃久里子)が心を奪われてしまう人気役者の阪東栄紫を演じるのが喜多村緑郎。その緑郎が「紺屋と高尾」では吉原の最高位の遊女高尾(浅野ゆう子)に一目惚れしてしまう、紺屋の職人久造役。つまり緑郎は「七月公演」では、惚れられる役どころと惚れてしまう役どころの両方を演じていた。













 昨年9月の「新派特別公演」では、歌舞伎界を去った市川月乃助は、二代目喜多村緑郎を襲名し、それ以降新派の舞台を踏むことになった。改名後、私達は新派公演を観てはいなかったので、緑郎の活躍ぶりは知るよしもないが、今月を見る限り、立派に主役を張っていた。「お江戸みやげ」ではイケメン役。「紺屋と高尾」では二枚目半を熱演していた。(写真:左緑郎、右浅野ゆう子)
 「紺屋と高尾」は落語でも有名で、こちらは「紺屋高尾」の名で語られている。実話があったらしい。新派では一竜斎貞丈口演を平戸敬二が脚本を書いていた。落語は「You tube」で先代円楽を聴いてみた。筋立ては落語と新派では些か違いがあるようだが、基本は同じだ。
 主人の代参で江戸に来た紺屋の職人久造は、何と、華やかな花魁行列を観て、高尾太夫に一目惚れしてしまう。大阪に帰った久造は寝たっきり。医者は“恋患い”と見抜いた。それも今を時めく花魁高尾太夫に。必死に働いて50両を貯めて花魁に会いに行く。久造の真心を聞いて高尾太夫が感激。その妻になることを約束。





 
勇んで帰って来て報告する久造の話を誰も信じない。大阪にやって来る約束の日に高尾太夫は現れない。「お前は騙されたんだ」と嘲笑されるが、年期が明けて、高尾太夫は駕籠に乗ってやって来る。その高尾太夫を演じるのが浅野ゆう子。実に艶やかな花魁を演じていた。この舞台の花形は正に浅野ゆう子だ。観客の私もが惚れ込むような艶なる美しさ。本来は藤山直美が演じるはずだったが、乳がん治療に専念の為に降板、急遽浅野ゆう子が代役となった。直美の高尾も観てみたかったが、代役浅野ゆう子にピッタリの役。浅野ゆう子の花魁姿を観られて大満足。(写真:浅野ゆう子)
 
高尾太夫が素顔を見せる場面がある。もの憂げに外を眺める太夫の横顔に憂愁が漂う。花魁高尾にも多くの苦しみを乗り越えてきた過去があったのだ。
 駕籠でやって来た高尾の嫁入りに久造の母が大反対する。店主の娘が久造に惚れていることを知っているからだ。その母親の前で土下座して嫁入りを懇願する高尾。それでも母は首を縦に振らない。思いあまった高尾は、染の原料藍の入った甕に手を突っ込む。母親も高尾の意気込みに、結婚を許し、メデタシメデタシで幕。ただただ面白かった。