マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「源氏物語の会」の歴史を思い起こすと(その2)

2023年06月03日 | 学び舎

 「源氏物語を楽しむ・日出」スタートとほぼ同時に妻は「源氏物語通信・日出」を発行し始めた。それは最終122号まで続くのだが、源氏物語に関連すること、旅行に出かけた際に感じた事、読書感想等が綴られ、読み合わせの日の冒頭に配られた。
 手元にある第1号は次のように記されている。
 「長い間親しんできた『源氏物語』を、大人の方にお話ししたいというのが、退職後の夢でした。『源氏物語』の語る沢山のことを、出来るだけお伝えしたいと思っています。その一部を、月1度程度、こういう形でお届けしたいと思っています」
 「会でお話するために、『源氏物語』を改めて読み直しています。何十年ぶりかという箇所もあります。そうしたら、以前には興味を持たなかったことや登場人物で、新鮮に思えることがいくつもあるのですね・・・」。通信発行の目的も会を立ち上げた目的と同じだった。

 会は2011年9月10日に第100回目が行われ、2013年11月には『源氏物語』を読了した。それを記念して2014年1月25日に、そば工房『玉江』(現在は営業していない)でお祝いの会が開かれた。学ぶ方々にとっても教える者にとっても、目出度いひと時だった。(写真:お祝いの会で)



 以後、『大鏡』・『雨月物語』・『枕草子』・『平家物語』・『伊勢物語』・『竹取物語』・『更科日記』・『土佐日記』・『和泉式部日記』と続き、『奥の細道』は数回で終わってしまった。読み合わせ会の進め方は、妻が本文を2度読んだ。訳が付いている文庫本を使用したので、2度目の時は生徒さんは訳を目で追い、逐条解釈はしなかった。では何をしたのか。その周辺の諸々を語った。それまでに蓄えてきた蘊蓄を語っていた。
 春には会終了後お花見に行った。その準備は時に、とし子さんやヨツヱちゃんに手伝ってもらったが、主に私だった。六義園・染井霊園・小石川植物園・東大構内・神田川沿い・アイトソープ研究所などで桜を鑑賞した。それ以外に、佐多稲子旧宅から田端散歩・業平ツアー・浅草羽子板市巡り・谷中散歩などもあった。(写真:東大病院付近でのお花見)



 今しみじみと思うのだ。皆さんと色々な時をご一緒に過ごせたことは、妻にとって本当に有難い事だったし、楽しいことだったと。(写真:場所は谷中天王寺)


 


「源氏物語の会」の歴史を思い起こすと(その1)

2023年05月29日 | 学び舎

 5月16日、『心泉亭』で開かれた「偲ぶ会」へ、ともさんは貴重な資料を持ってきてくれた。会の萌芽となった、井草高校での公開講座から始まり、「源氏の会」で何時どんな古典を読み合わせて来たかが一目でわかる一覧表を作成してくれたのだ。そのプリントアウトしたものを、この場で披露してくれた。その資料に基づき、私の記憶を交えながら、その軌跡を綴ることとする。(写真:心泉亭玄関)
 2004年、都立田園調布高校を病の為定年1年前に退職した妻は都立井草高校に嘱託として勤務し始め、そこでの3年目の9月に公開講座「源氏物語」読む、を開始した。参加者を、確か都の広報で募集すると定員の3倍ほどの応募があったらしい。16日の「偲ぶ会」に参加された川津さんは当選し、ヨツヱちゃんは落選したことが改めて分かり、皆さん吃驚した。
 井草4年目の2007年9月~11月も同じ公開講座が開かれ、更に話を続けて欲しいという熱心な受講生の声に応える形で、公開講座からは離れ、自前の、私的な会を発足させた。即ち、「源氏物語を楽しむ会・井草」である。
 妻はこの会の盛況に力付けられたらしく、それまで親しくお付き合いしてきた方々(元同僚・大学時代の友人・地域の方々)にお声を掛け、「源氏物語を楽しむ・日出」も立ち上げた。その第1回が10名位の参加で、統廃合となった豊島区立日出小学校の建物の一角にある教室で開かれた。最初の時は受講生の方が、会場場所が分かるだろうか心配になって、私は会場付近に立って生徒の方々の登場を待ったことを昨日の様に鮮明に覚えている。(写真:統廃合後の日出小学校)
 月に2度ほどの読み合わせ終了後は池袋周辺のお店で、皆さんとランチしたことも楽しい思い出だ。会場確保は私が豊島区役所まで出かけたが、我が家近くにある「駒込地域活動センター」の方が会場確保が楽なことを知って、
2010年4月からは会場を主として地域活動センタ(時として勤労福祉会館)に変更した。
 以後は変更はなかった。井草は会場確保してきた方がそれを続けることが困難になってしまい、区切りの良いところで終了した。それまでは月2回の日出と月1回の井草の合計3回。妻は夜遅くまでの準備。超忙しい日々だった。


大泉高校の桜並木

2023年03月30日 | 学び舎

 3月27日(月)、大泉学園駅そばにある湯葉料理店「梅の花」で妻を偲ぶ会が開かれた。大泉高校定時制のミニ“同窓会”にもなっていた。
 大泉学園駅を降りて驚かされるのはその変化の激しさだ。駅そのものが高架になったほか、新たに道路が造られ、大きなビルも建築されていた。そのビルの一つに「ゆめりあフェンテ」があり、その4階に「梅の花」はあった。
 参加者は4名。御歳86歳の石川さんは妻が敬愛していた方のおひとりで、最終学年時の担任は石川さんと私。元生徒の佐藤登志子さんと佐藤ヨツヱさんの二人は源氏の会の会員で、祥子の大ファアン。以上の4人以外に大竹君が参加予定だったが、交通事故のため残念ながらの欠席。彼は妻を「祥ちゃん 祥ちゃん」と気軽に呼んでいた。全員が初めて顔を揃えたのが1970年の4月だったから、その時から53年の歳月が流れていたこととなる。
 会の発案からお店の予約などを全部を仕切ってくれたのは登志子さん。この日も陰膳を用意し、その陰膳に、妻が写る写真や、妻が100号以上は発行していた『源氏通信』を閉じたファイルなどを置いてくれた。ご酒に、私が好む〆張鶴まで用意されていたのは偶然だったのだろうか。
 話は時に妻の話題に触れながら、この4人が一緒に登った尾瀬や八ヶ岳などにも及び、楽しい語らいはあっという間に2時間以上が過ぎてしまった。
 実は会が始まってすぐ、最近俳句を始めた石川さんから、右上の写真にあるような一句が紹介された。『源は 桜吹雪の 大泉』。この句は全員の心に響いていたようだ。私には、4人が大泉高校に引き寄せられるように集ったのもその源は、校門から旧校舎に向かって一直線に延びる桜並木。時に桜吹雪を降らしたあの桜並木。私にはそう読めた。
 会終了後、牧野記念庭園に行く可能性もあったのだが、皆の足は大泉高校に向かった。あの桜並木に向かった。以前ほどの勢いは感じられなかったが、時として桜吹雪を散らす桜並木は私たち4人を、美しい風景を織りなして迎えてくれた。
 丁度56年前の1967年3月に面接に訪れ、桜並木に魅せられて、是非この学校で教えたいと思った遥か昔の日のことを私は一瞬、切ない気持ちで思い出したのだった。

 


「協働のまちづくり講座」を語り終えて(その2)

2019年12月20日 | 学び舎

 12月14日に行われた講座の副題は「本駒込周辺の魅力と歴史を中心に」で、聞きに来た方の中には本駒込に長年住んでいる方や冨士講の方もおられ、本駒込について詳しい方もおられるはず。そこでそれらの方々が「初めて聞いた話」と思われる事柄をいくつか用意しておいた。ここでもその幾つかをここでも綴る。







 ①現在の六義園「大泉水」の水は江戸時代、柳沢邸から江岸寺や圓通寺の門前を流れ、白山下を通り、春日で小石川に合流していたこと。これには所謂「海老床地図」の一部をお渡しして示した。













 ②柳沢邸の一部は大正時代に理研が設立されたが、それ以前には巣鴨病院が開院されていた。そのことは小石川高校資料室にあつた「小石川検定95」にも登場していると説明した。












 ③「道坂」がそう呼ばれる所以は江戸時代その場所に赤目不動が祀られたことに端を発するが、明治26年、そこから「太古の遺跡」が発見され、その記念碑は南谷寺と徳源院に存在すること。
 ④水上勉の『私版 東京図絵』には「私の父が建てた目赤不動は道坂途中にあった」と記されている。彼のお父さんは宮大工で、1940年に、彼は蓬莱町の飯場で働いていた父を頼りに上京し、赤目不動跡を案内してもらっていた。1994年に再訪した際にはそこには何も無く、ご近所の方に聞いて徳源院を詣で石碑「太古の遺跡」に再会した。












 
⑤縄文海進により文京区の一部も入江となり現在の不忍通の辺りは海だった。本郷台地東端崖線には幾つかの貝塚が形成され、その一つ「駒込神明町貝塚」は「文京ふるさと歴史館」の文化財一覧に登録されていること。











 ⑥富士神社鳥居の左横に「富士   」との碑がある。この削り取られた部分は“大権現”と書かれていたはず。安政時代の地図には「富士浅間神社」と「真光寺」が併記されている。ここでも廃仏毀釈は行われ、その石碑はその名残と推測できること。
 などなどを語った。


「協働のまちづくり講座」を語り終えて(その1)

2019年12月17日 | 学び舎

 田端の話は後日に回します。
 12月14日(土)、文京区勤労福祉会館(以下勤福)で表題の話を終えてほっとしている。
 開演は10時からだったので9時少し過ぎには会場に到着すると、助太刀をお願いしていた菅原さんは既に着いていた。私たち二人はパソコンとプロジェクターを立ち上げ、勤福のスタッフは椅子のセットをして準備完了。参加をお願いしておいた深谷在住の石野さんも遠路はるばる駆けつけてくれた。席は30以上用意され、机は使用しなかった。10時には30名を超える方々が席を埋めた。


今回のテーマは「本駒込周辺の魅力と歴史」について。所長さんに紹介された後、語り出したが少し緊張していたと思う。本駒込に住んで僅か36年に過ぎない私は自分を“本駒込の新人”と思っている。その言わば新参者が本駒込について語る経緯から話を始めた。
 話の構成はA「素顔の本駒込」、B「本駒込の歴史に触れる」、C「アド街ック本駒込」の3本とし、Aに一番時間をかけた。使用した主なソフトはパワーポイントで、場所等の説明には「江戸東京重ね地図」に切り替えた。このソフトは江戸時代の地図が瞬時に現在の、同じ場所の地図と入れ替わる。登場させたのは天祖神社・富士神社・南谷寺などの神社仏閣に六義園・動坂貝塚など。聴いている方々が知っている事柄もあったが、初めて知ると思われる内容もいくつか用意した積り。内容の話は次回とすることにして・・・。(以下も含めて写真はいずれも石野さん撮影のものを使用)

 11時35分には話を終えた。話を聞いての感想が耳に入ってきた。概ね好評だったのでホットした。今までの講座のなかで一番面白かったと嬉しい感想を述べた方もいた。お世辞にも「この続きを又」と言われて嬉しかった。語りたいことの70%くらいしか語れなかったと思うがそれも良しとしよう。メールには「若々しいお声で」ともあった。自慢ではないが声だけはいつも褒められる。
 私がお声を掛けた方々は、向丘元同僚・ボウリング仲間・富士前福寿会などの高齢者クラブ会員・ラジオ体操仲間・富士前町会の会員などで、その分だけで合計12名の参加があった。

 会終了後菅原さん石野さんと「三菱養和スポーツクラブ」へ。そこには「本駒込活動センター」での『土佐日記』を終えた源氏の会の11名がすでに到着していて、合流して昼食。私達3名は生ビールで乾杯。格別に美味しかった。