マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

茨木のり子眠る墓へ

2023年08月31日 | 

 鶴岡旅行の2日目、私たちが宿泊していた九兵衛旅館まで、車で迎えに来て下さったのは、大島先生が酒田工業高校勤務の時の学年主任だった菅原和晴先生。この日一日中車で、私たちを案内して下さった。この日は宿→村上→(日本海沿岸ドライブ)→浄禅寺(茨木のり子の眠る寺)→加茂水族館→玉簾の瀧→丸池様→藤沢周平記念館 と案内して下さった。
 今回の鶴岡旅行の、もう一つの目的が茨木のり子の墓に詣でることだった。  
 2010/12/13~12/14のブログには、後藤正治著『清冽 詩人茨木のり子の肖像』を読む、を綴った。秀逸な茨木のり子の評伝を読んだ私は次のように書いた。「今は、山形県鶴岡市加茂にある三浦家の菩提寺浄禅寺に夫とともに眠っています。見上げると広い空。眼下に青い海。まことに眺望よしの墓地だそうです。鶴岡には、今年4月29日に『藤沢周平記念館』がオープンしました。是非ここと、彼女の眠る寺を訪ねたいと強く思います」と結んだ。(写真:浄禅寺)
 更に、その翌年の7月に、妻と青森→弘前→酒田→鶴岡→山形の旅に出たことがあった。その鶴岡で、茨木のり子の墓に詣でようとして加茂行のバスの時刻表を見ると最終便は出てしまっていた。無念の思いを抱いた記憶があった。
 さて、8月7日、漸くその思いが遂げられる日がやって来た。菅原先生運転の車は何故か浄禅寺に直行せず、まずは新潟県村上に入った。後で理解したことだが、多分菅原・大島両先生は私たちに日本海沿岸ドライブを楽しんでもらおうとしたのだった。前日は特急「いなほ」から日本海を眺めた。この日はより近くから日本海を身近に味わった。この日、海は穏やかで、遥か彼方の水平線が美しく見えた。岩場が多く、泳げそうな場所は少ないのだが、商業主義の香りが全くしない海水浴場がところどころに顔を出した。加茂水族館を横手に眺め私たちは先に浄禅寺へ。
 茨木のり子眠る三浦家の墓には茨木のり子の文字は全く見えない。多分彼女の強い希望でもあったのだろう。そこからは日本海が眺められた。空と水平線と海があった。茨木のり子は海を眺められる墓に眠っていた。13年越しの思いが遂げられた瞬間だった。(写真:三浦家の墓。ここに茨木のり子は眠る)




 
 (写真:左は墓からの眺め。右の写真は左から菅原先生・大島先生・菅原さん)

 その夜、料亭『すず音』で、『茨木のり子への恋文』の著者戸村雅子先生親子さんとご一緒に食事を摂った。著作から伺われるお人柄以上に雅子先生は穏やかで、しかも何事にも積極的・意欲的に取り組まれる方とお見受けした。現在も「茨木のり子 六月の会」の事務局長を務められていた。(翌8日も車で宿まで迎えに来て下さり、市内をご案内して下さった。)






 
 茨木のり子の墓に詣でたその夜に『・・・恋文』の著者との夕餉。この粋な組み合せは大島先生の発案だろうか。しかし、以下に書くような人間関係でもあったのだ。

 戸村雅子先生→教え子の大島先生母→大島先生→弟の鶴岡市長皆川治氏←後援会戸村雅子先生。鶴岡では人の輪がぐるぐると回り繋がっているのでありました。


松ヶ岡開墾場を見学後、九兵衛旅館へ

2023年08月24日 | 

 当日、現地松ヶ岡で待っていて下さったのは古野(ふるの)さん。彼は大島先生とは高校時代の同級生で、なんと大学も同じだった。卒業後は山形県職員として県庁にお勤めとのことで、古野さんに案内して頂いて、開墾記念館やワイナリー、旧蚕室など、松ヶ岡(正確には松ヶ岡開墾場)のあちこちを案内かたがた説明をして頂いた。(写真:松ヶ岡開墾記念館)
 松ヶ岡については詳しくは知らなかった。ここが見学地の一つと知ってにわか勉強をしたのだった。古野さんの説明に、にわか勉強の結果を加えて綴ると・・・。
 庄内藩は戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として「官軍」と戦った。「官軍」を寄せ付けないほどの勇猛さで不敗の強さを持っていたが、時に利あらずして降伏した。庄内藩が会津藩の様な運命に会わなかったことを私は不思議に思っていたが、そこには西郷隆盛の存在と、軍事的には敗れていなかったことが大きいと思えた。
 明治5年、旧藩士卒ら3000人は刀を鍬に持ち替え、月山山麓235ヘクタールの開墾竣工を僅か58日で成し遂げた。旧藩主酒井忠發も開墾地を訪れ、「松ヶ岡」の標を自筆し、以降「松ヶ岡」が開墾地の名称となった。
 その地で、明治6年からは茶の栽培を開始し、生糸の生産・輸出を目的として桑園開発も始め、7年末からは本陣東側で蚕室の建設にとりかかった。瓦葺上州島村式三階の蚕室が五棟現存していて、鶴岡城の屋根瓦も用いられているそうな。第一蚕室は開墾記念館となっている。残存する旧蚕室は風格を感じさせる見事な建物だ。
 明治8年(1875年)建築の1番蚕室は、松ヶ岡開墾記念館として、幕末以降の庄内藩の歴史や、開墾と養蚕に関する歴史資料を展示するほか、日本遺産「サムライゆかりのシルク 日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へ」認定のストーリーを紹介している。


 現在ではワインの醸造が開始されていて、私たち4人は「ワイナリー ピノ・コッリーナ松ヶ岡」に暫し憩い、松ヶ岡を後にし九兵衛旅館に向かった。

 九兵衛旅館は部屋数13のこじんまりした旅館だった。館内には、藤沢周平が登場する数々の写真が展示され、映画『たそがれ清兵衛』などのポスターが貼られ、周平全集が並べられていた。この旅館の特徴は親切丁寧な接客にあった。更に料理と湯が素晴らしかった。お風呂は3つ用意されていたが、川の湯と山の湯しか入る時間的余裕がなかった。そのどちらの湯も源泉かけ流しの、透明で肌触りの良い湯だった。羽黒山下山の疲れもこの湯で癒えていった。(写真:右は山の湯。下は豊富な金魚が見られる川の湯)
 

 
 私たちが宿泊した部屋は藤沢周平が帰郷の折り宿泊したものだと知って、藤沢ファンの菅原さんも私も大喜びしたのだった。

 
 


羽黒山へ

2023年08月18日 | 山旅

 8月6日(日)、鶴岡駅を後にして、大島先生母さん運転の車は一路東方向にある羽黒山を目指した。
 出羽三山は山形県のほぼ中央にそびえる月山(標高1984m)・羽黒山(414m)・湯殿山(1500m)の総称で、六世紀には開山されたと言われるほどの、古き、信仰の山々である。三山といっても独立した山が3つあるのではなく、月山を主峰に、陸続きで北端に羽黒山が、西方に湯殿山が存在している。百名山に名を出すのは当然月山である。私は確か1980年に向丘高校の麻島先生グループの方々と東北ツアーに参加し、その時に月山に登った。高山植物が実に豊富に咲いていた。その下山後羽黒山に寄ったのだった。
 今回到着した地点はその時と同じ羽黒山山頂。「羽黒山山頂へは歩いて登られますか、車にしますか?」と聞かれ、「車でお願いします」と応えていたのだが、そこは遥か彼方が見渡せる所謂山頂はなく、羽黒山本殿(出羽三山神社)へと通じる地点だった。駐車場から緩やかな山道(参道でもある)を歩むと三神合祭殿。
 山頂に建つ出羽神社は三神合祭殿と呼ばれ、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀り、冬期間参拝が困難な月山、湯殿山神社の里宮としての役割を果たしているそうな。(写真:三神合祭殿)





 三神合祭殿に参拝後、大島先生から「下山道を下りますか」と聞かれ、菅原さんも私も気楽に、少しくらい歩こうとの思いから「勿論下山します」と答えてしまった。
 確か上り2000段はあると言われている参道の下りだった。少し雨が降った跡が残り、急な階段が続いた。道の左右は巨大な樹林帯。風通しの無い密林のような夏山道の下山。そこで相当の汗をかいた。魚沼駒ケ岳下山の時の様な感じで、熱中症2歩手前の様な感覚。この下りが1時間以上続いただろうか。自分の足腰の弱さを実感する下山でもあった。

 ゴール地点にある五重塔は現在リニューアル中とのことで姿を全く見せてくれなかったことがくれぐれも残念なことだった。ここからは松ケ岡を目指した。(写真:国宝の五重塔)


藤沢周平ゆかりの宿に泊まる

2023年08月11日 | 

 8月6日(日)~8日(火)まで、2泊3日で山形県鶴岡市に出かけ、藤沢周平ゆかりの宿、湯田川温泉「九兵衛旅館」に宿泊してきた。
 まずはそこに至る経過から書き始めよう。10数年前にボランティア教員として勤務した荒川5中で同僚だった大島先生は鶴岡のご出身で、藤沢周平ゆかりの宿「九兵衛旅館」の娘さんとは高校時代の同級生。そんな繋がりを聞いていたので、大島先生のご縁で、何時かはこの宿に宿泊したいと思っていた。今年の8月上旬に鶴岡へ帰郷するとお聞きして、鶴岡訪問のOKを頂いた上、九兵衛旅館に電話した。彼女が実家にいる間に宿泊できる日程で空きを確認すると、6日と7日の宿泊がベストと分かり、即予約をした。
 ただ1名での宿泊料金はお安くなかった。そこで、この旅行にもろ手を挙げて賛成し、ご同行をしてくれそうな菅原さんにお声を掛けると素早い対応で是非行きましょうとのこと。かくして6日~8日:2泊3日の、二人での鶴岡旅行が決まった、
 鶴岡での行動計画は大島先生が立てて下さり、その計画に従って次の様に回った。(列車計画は私)
 8月6日(日) 
 上野8:30→(上越新幹線 とき307号)→10:21新潟10:48→(羽越本線 いなほ3号→12:42  
 鶴岡
駅で大島さんとお母様にお会いし、大島先生のお母さん(73歳)の運転で 
 羽黒山→松ヶ岡→宿と回った (写真:いなほ3号)

 8月7日(月)
 一日中、大島先生の元同僚菅原先生の運転のもと次のように回った。
 宿→日本海沿岸ドライブ→浄禅寺(茨木のり子眠る寺 お参り)→加茂水族館→玉簾の瀧→丸池様(湧水池)→藤沢周平記念館→すず音(鶴岡料理 戸村雅子先生母子と会食)

 8月8日(火)  戸村雅子先生(82歳 『茨木のり子への恋文』の著者)の運転で
致道館博物館→大寶館と回り、その後は二人だけで旧致道館→鶴岡駅

 鶴岡15:00→(羽越本線 いなほ10号)→16:49新潟17:04→(上越新幹線 とき336号)→18:54上野 
 美味しい鶴岡料理を存分に味わい、鶴岡人の温かさを肌で感じた3日間だ
った。


4年ぶりに「隅田川の花火観賞会」を開催

2023年08月03日 | 身辺雑記

 7月29日(土)、実に4年ぶりに「隅田川花火大会」が開催され、103万人強の人出で賑わったそうな。その花火を我がマンション屋上から鑑賞しようという、我がマンションの「隅田川の花火観賞会」も4年ぶりに開催し無事終了した。(写真:翌日の朝日新聞より)



 確か5月だったと思うが、管理組合理事長から電話があり「今年は隅田川花火大会が開催される予定です。それに伴い屋上からの観賞会も開催したいと思います。今までの様にその実行委員長を引き受けて下さいますか」とのことだった。その頃、気持ちの安定していた私は、例年やって来たことだからと安受けあいした。6月の管理組合定期総会終了後、理事会+実行委員会での開催を正式に決めてもらい、私が実行委員長となり、役割も決めて当日を待つばかりとなっていた。
 今までの様に、飲食を用意した当日、延数にして40名以上の参加があり、住民の皆さんは花火を観賞しつつ、ご酒など飲み交わしながら親睦を図られていたので、この花火観賞会は成功したと言っていいだろうと思う。
 しかし、ハプニングがあり、私はかなり疲れてしまった。当日用意する飲食物は理事数名が手分けして、購買しておいて当日持参した。私は飲み物を担当でもあったので、上富士にあるカクヤスに出向き、ビール・日本酒・ワイン・軽飲料水などを注文し、当日に配達してもらう手はずを整えておいた。しかし、当日屋上に配達されたものはビールのみ。日本酒やワインは配達に至っていなかった。それに気づいて指摘すると、配達員は戻って確かめますとのこと。準備開始20分前となっていたので、配達員とは別に私は、カクヤスまで走っていって、ことの実態を尋ねた。カクヤスは配達業務を委託しているらしく、日本酒等の配達も依頼していたが、配送センターに配達ミスがあって届いていないのだと分かり、いずれ届くだろうと安心して屋上に戻ってきた。が、暑い中を走ったのが影響してか、屋上に着いてから安心と疲れからか、がっくりきて膝から崩れ落ちてしまった。これには周りの方々がびっくりして、直ぐに助け起こしてくれたので事なきを得たが、その後の私の動作は緩慢になってしまった。

 風が強く、理事さんたちは、机の上に飲食物を置くのに苦労していたが、皆さん協力して事なきを得ていた。数年前と比較して子供さんが増えていることもよく分かった。(写真:花火観賞の住民に皆さん)
 さて、一番上に掲げた朝日新聞30日朝刊の記事の画像を見ると、スカイツリーの左右2箇所から花火が打ち上げられている様子がよく分かる。我がマンションからもスカイツリーの左右に花火が打ち上げられていた。しかし そのスカイツリーの方向に新築マンションが建築され始めている。来年、我がマンションから花火が観えるか否か微妙な状態にある。
 6日から2泊3日で、友人と二人鶴岡の旅に出ますので、ブログ更新1週間ほど先になります。